薔薇の皇帝 18

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「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
 一触即発な雰囲気をなんとか回避しようと、エチエンヌがシェリダンとゼファードの間に割り込む。敵意は向けられたが殺気を向けられたわけではないシェリダンは、まだ悠然と長椅子に腰かけたままだ。
 この状態だけを見れば、剣を抜いていきり立っている方がこの国の正当な王子だとは誰も思わないだろう。
 とはいえ、そもそもシェリダンは王子どころか、かつては短い間とはいえこの国の王にもなったことのある人間。だとすれば格の上下を争うようなこの決闘申込みも、あながち間違ったものだとは言えないのかもしれない。
「その剣を収めてください! ゼファード王子、シェリダン様に喧嘩を売るなんて、何もそんな好き好んで怪我をするような真似をせずとも」
 仲裁をしようとしたエチエンヌだが、その一言で余計に双方の感情を煽ってしまう。
「ほう、エチエンヌは私よりもその小僧を心配するわけか」
「エチエンヌ、あんた俺がこの男に負けると決めつけてるのか」
「う、うわぁああん!」
 他意のない一言によって事態を悪化させてしまったエチエンヌは、もう泣きたいと思った。
 ゼファードとて冷静になれば、シェリダンのこともゼファードのことも昔から知っているエチエンヌが根拠もなくそんな台詞を口にするはずもないと気づくはずだった。両方をよく知っているからこそ、エチエンヌにとっては見るまでもなく結果がわかるのだ。しかし頭に血が上っている現在、そこまで考える余裕はない。
 エチエンヌの一言で、ゼファードはますますシェリダンに敵意を持ち、シェリダンの方はこれは面白そうだと興味を持つ。もうちょっとやそっとでこの事態を回避できそうもない。
「アドニスは、あんたの面影を求めて俺に近づいたんだろう」
 シェリダンに剣を向けたまま、ゼファードはその意識だけをハデスに向ける。
「違うよ、ゼファード」
 否定するハデスの声は弱々しく、こんな場面でなくてもとても彼を説得できるものとは思えなかった。
「エチエンヌだってローラだってリチャードだって、みんなあんたを望んでる」
「剣を収めてください。ゼファード王太子殿下。あなたの態度は祖先王に対してもあなたの友人に対しても、あまりにも無礼が過ぎます」
「そういうあんたはこんなところで何をしているんだ? 帝国宰相。あんたが仕事を放りだしたから、普段あんたがやるべき仕事まで今はロゼウスが代行してる。先にその役目だの立場だのを放り出したのは、あんたたちの方だろう?」
「そ、れは……」
 確かにゼファードの言うとおり帝国に置いての役目を放棄した自覚のあるリチャードは、何も言い返せない。
「会ったばかりのウェントワースがあんたに忠誠を誓いたいと願うくらいだ。あんたが只者じゃないってのはわかってる。あんたのことを知る人たちがあんたを大事にしたいって思ってることも。でもな」
 これまで誰もが控えていた言葉を、その後のどんな罵倒も顰蹙も受け入れる覚悟でゼファードはついに口にした。

「それでもあんたは、もう死んでる人間なんだよ!」

 室内が凍りついた。事情を知らぬ部隊長でさえ、異様な空気に呑まれて言葉を失う。理解しがたい言葉でも、この様子を見ればそれが意味のない妄言などではないということはわかる。
「シェリダン=エヴェルシード、あんたは四千年前に死んだ人間だ。それがどんなに悲劇的な最後だろうと、人の死は変えられない。――変えちゃ、いけないんだ」
 ハデスがはっと顔をあげた。ゼファードの言葉は、まるで先程までハデスとシェリダンの間で交わされた話の内容を知っていたかのような台詞だったからだ。
 もちろんハデスはアドニスとして長く付き合っていた間、ゼファードにそんな能力がないことは知っている。けれどまるで見透かしたかのような一言だった。
 ハデスがシェリダンに“神”と“魂”に関して尋ねたのは、どうにかして神の理を抜け人の命を取り戻せないかと願ったため。
 欲したのは、死した人間を現世に呼び戻す方法だ。肉体は魔術で癒すことができる。錬金術がホムンクルスを作る要領で一から作ることも可能だろう。
 ゼイルはセィシズの魂がない状態で生前の人格まで自らの手で作り出そうとして失敗したが、シェリダンのように現在の魂の在り処がわかっているなら話は別だ。ましてやシェリダンは今回の覚醒により、前世と現世を結ぶ魂の構造を理解してその一部をハデスに伝えた。全てを教えたわけではなくとも、ハデスならその言葉のとっかかりから全容を解明することもできる。
 肉体と魂が存在するならば、あとはそれを繋ぎとめる“命”の定理さえ読み解けば、魔術で人間を、可能な限り生前に近く復活させることができる。
 ローゼンティアのヴァンピルによる死者の肉体を変質させる仮初の蘇生ではなく、時の流れと共に成長し風化する肉体を備えた、より完全なる復活へ。
 そして魂を加工する方法。例えばルルティスの魂からルルティスの痕跡を消し、シェリダンの情報が常に表出している状態を保つことができれば、その人物はルルティス=ランシェットではなくシェリダン=エヴェルシードだと言える。
 けれど。

「ここにいるべきは、シェリダン=エヴェルシードじゃない。ルルティス=ランシェットだ」

 シェリダンを取り戻したいと願うことは、ルルティスに死ねと言うのも同然だ。
 彼らは皆で寄ってたかって、ルルティスを殺そうと言っているのも同然だった。

「あんたがこうして表に出てきたからこそ、ルルティスの命が救われたって聞いた。そのことには感謝している」
 口にするゼファードの方こそ苦しげな表情で言葉を紡ぐ。先程から口にする厳しい言葉も今の感謝しているということも、彼は全部本気なのだろう。
「みんな自分の我儘を思うように口にしているんだ。俺も言わせてもらう。――ルルティスを、返してくれ。俺の友人なんだよ!」
 話すうちにゼファードの衝動的な怒りは落ち着いたが、その代わり今度は生半な言葉で説得されるはずもない、確かな信念と心からの感情に基づいた願いがその口に昇る。
 いまやゼファードは発散しがたい怒りの矛先としてではなく、友人の生を賭けて真剣にシェリダンと勝負をする必要があると感じていた。
 シェリダンを恨んでいるわけではない。いや、彼に関係することでロゼウスからかけられたあれやこれやの迷惑を思えば恨んでいいのかもしれないが、本人と面と向かって会話をするのがこれが初めてなのだ。恨むも何もない。
 けれどだからと言って、シェリダンの人格がルルティスの人生を乗っ取り歪めていくのであれば、それを黙って見ているわけにはいかなかった。ルルティスにそれだけの重傷を負わせる任務でこの状況を作り出した人間としても、彼の友人としても、それだけは認めるわけにはいかない。
「私は――……いや、今そんなことを言っても仕方がないな」
 シェリダンは思わせぶりに何かを言い止めると、変わってゼファードの視線を真っ向から受け止めた。
「了承した。ゼファード=エヴェルシード。得手は何だ」
「剣と魔法」
「ならば剣だ。私は魔術を使えないからな。時は今、場所はどうする」
「謁見の間がちょうどいいだろう。今頃準備ができているはずだ」
 その時、折しも再び扉が叩かれた。
「あの、謁見の間、準備できたって。フェザー王子がもう行ってる」
 アルジャンティアが恐々と扉を開き、遠慮がちにそう告げる。半分は吸血鬼である彼女は部屋の中のやりとりも全部筒抜けらったらしい。
 自分よりも年下に見える姿となった母親やその弟の姿に目のやり場に困って視線を泳がせながらも、準備が整ったことを告げる。
「よし、行くか」
 この室内に残る緊迫感もゼファードの決意もアルジャンティアの怯えも、全てをさらりと受け流して騒動の渦中にいる男――シェリダンは晴れやかに笑った。

 ◆◆◆◆◆

 そして、勝負は一瞬でついた。
「え?」
 試合ったゼファード自身そのあまりに呆気ない結末に言葉も出ない程。あれだけの啖呵を切ってここまであっさり負けるとなると、滑稽を通り越してもはや喜劇を狙っているのかと思ってしまうほど。
 別に狙って喜劇にしたわけではない。一瞬とは言っても、エヴェルシードの剣技だ。常人の目にも止まらぬ速さで何十合と斬り合った。
 だが逆に言えば、それだけで勝負がついてしまったのも確かだ。
 カランと音を立てて床に落ちたゼファードの剣が虚しい音を立てる。
 姑息な策を練る暇さえ与えず、純粋な剣の技量だけでシェリダンはゼファードを打ち倒した。
「……弱いな」
 シェリダンが心底呆れた口調で言ったのが、仮にも現エヴェルシード王太子であるゼファードの矜持を粉々に打ち砕く。
「まぁ、私はもともとルルティスの人生を乗っ取る気はないし、あいつが戻る気になりさえすればいつだって入れ替わるのは構わないからいいのだが――」
 先程言いかけてやめた言葉をあっさりと口にし、シェリダンは溜息をつく。
 そこはつい今日――もう昨日と言える程度の時間は経過したが、ゼファードが王弟シアングリード大公と勝負をして勝った場所だった。同じ場所で今、ゼファードはシェリダンに負けた。
 呆然とするゼファードに、言葉も出ない周囲。ローラたち前世からの付き合いがある皇帝領の面々はなんとなくこの結果がわかっていたので感想は差し控えたが、ウェントワースとアルジャンティアは本気で驚いている。
 シェリダンの活躍を少し見ていただけで彼を信望し部下になりたがったウェントワースは、やはり自分の目に狂いはなかったのだとますます畏敬の念を強くしたようだ。
 それとは裏腹に困惑した表情のままでいるのはアルジャンティアだった。半吸血鬼であるアルジャンティア自身もただの人間より肉体的には頑丈だが、人間であるゼファードの剣技に勝てたことはない。決してゼファードが弱いわけではないと知っているだけに、意外な勝負結果に動揺を隠せなかった。
「え、で、でも。だって、ゼファーの強みは剣に負けないくらい鍛えた魔術でしょ。それが、剣だけ得意な人との勝負なら、仕方ないん、じゃない?」
 彼女自身あまりフォローになっていないとわかっているために、言葉は途切れがちな上に弱弱しかった。青ざめたゼファードの表情を変えることもできない。
「確かに、ゼファードの強みは勇者と呼ばれるくらい優れた高位魔術だね。その力を利用して叔父上にも勝った以上、それがない上での勝負はゼファードが不利だ」
「じゃあ」
「でも、それがなくても三回に二回はゼファードの負けだ。魔術がなければ叔父上程度に負ける実力だから仕方ないとはいえ、それでも、ゼファードじゃ彼には勝てないよ」
「フェザー王子!」
「本当のことだよ、アルジャンティア姫」
 残酷な事実を淡々と突きつけるフェルザードの言葉に本人以上にアルジャンティアが激昂するが、フェルザードは譲らない。
「……確かに、俺の負けだ」
 悔しげな表情で、ゼファードはシェリダンを睨んだ。
 きつい性格が眼差しに現れているシェリダンは、ルルティスの姿をしていてもぱっと見が彼とは別人に見える。それでもルルティスの肉体を使っているのは間違いなく、そしてルルティスの剣術は勇者でありエヴェルシード王太子ゼファードの足下にも及ばない。今の勝負は、純粋にシェリダンとゼファードの実力の差だった。
「でも俺、謝らないからな! 俺にとっては、あんたよりルルティスが大切だ」
「それは別に構わない。……が」
 勝負に勝ったのに先程より明らかに不機嫌な顔つきで、シェリダンの方もゼファードを睨んだ。剣だけでなく迫力でも負けた現エヴェルシード王太子は、過去のエヴェルシード王の前で思わず怯える動物のように一歩後退る。
「弱いな。それでもエヴェルシードの王太子。次の王国を継ぐ者か?」
 自分に喧嘩を売ったり暴言を吐いたりするのは気にしなかった癖に、シェリダンは顔を合わせて以来初めて見せる冷ややかな表情でゼファードを睥睨した。
「温い! 温いぞ! だいたい、決闘だからと言って素直に相手の得手を呑む奴があるか馬鹿者!」
「いや決闘ってそういうものだろ! 何?! 何で怒られてるの俺?!」
 勝者が敗者に好き勝手を言うのはどこの世界でもあることだが、それが勝負とまったく関係のない方向に行っているような、やっぱり関係あるような、微妙な問題なのが困ったところだ。
 ゼファードは王弟との戦いでは魔術を使った。あれは一対一ではあるものの、名実ともに国の行く末を左右する総力戦の代わりであり、奥の手を出さずに余力を残して負けるわけにはいかなかったからだ。一方今の決闘で魔術を使わなかったのは、単純に作法である。決闘は勝負を申し込まれた側が武器や方法を指定し、正々堂々と実力を競い合う。だから勝負を申し込まれたシェリダンが剣を指定したのなら、ゼファードは魔術を封じて剣で戦うしかない。
 ルルティスのためには負けてはいけない戦いだったが、ここでゼファードが勝とうがシェリダンが勝とうが、だからといってはい交替とはいかないことは、お互いに最初から分かっていたとも言える。
「だいたい、最初から気に入らなかったんだ! こんな軟弱者が直エヴェルシードの国王などと!」
「ええっ?!」
 ものすごく今更の、しかもつい先日めでたく国内では解決したはずのことを蒸し返されて、ゼファードは困惑を深めた。
「だいたい、王太子が直前まで決まらないだの、兄の方が優れているから兄が国を継げばいいだの、叔父をさっさと殺さないだの、お前はふざけているのか? これから国を継ごうと言う者が、肉親の情に囚われて被害を拡大するなど愚かしいにもほどがある。王位を狙う叔父くらいとっとと殺しておけ。それでもエヴェルシード王族か!」
 ルルティスの記憶を必要に即して取り出せることのできるシェリダンは、どうやらゼファードに対して言いたいことが溜まっていたらしい。
「こんな軟弱者がエヴェルシードだとは。親を殺し兄弟を殺し子を殺してこそのエヴェルシードだろう」
「どこの野蛮人の理屈だよそれは!」
「何を言う。元来エヴェルシードとはそういうものだろう。この世に生きる獣は皆、弱肉強食。強い者が生き残り、弱い者はただ死ぬだけだ。強者は弱者から奪い犯し殺す。それが世界の悠久普遍の理だ」
「俺たちは人間だ! 生きることだけが全ての獣じゃない! だいたいそんな考え、赦されるはずが――」
「だから温いというんだ。全てを滅ぼし焼き尽くすエヴェルシードの血脈とは思えん。闘争はエヴェルシードの本能だ。それを――」
 放って置けばどこまでも平行線のまま続きそうな二人の争いに、一石を投じたのは静かな声音だった。

「別にいいんだよこの子はこれで。俺がいいと言うんだ。この時代の皇帝である俺が」

 純白の狂気を身に纏う皇帝が、かつての王に向けて堂々と宣言した。