薔薇の皇帝 18

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「ロゼウス」

 謁見の間の大きな扉を開き、長靴の足音を響かせながら、薔薇の皇帝は入室する。言い争っていたシェリダンもゼファードも、その争いを見守っていた面々も誰もが彼を振り返らざるを得ない。
 特に大柄なわけでも威圧的なわけでもない。それどころか、小柄で細身、まるで少女のように儚げな美貌を持つ少年姿の皇帝は、けれどその特有の存在感で他者を静かに圧倒する。しんしんと降り積もる雪がまるで世界中の音を吸いこんだかのような静寂をもたらすように。その静寂に呑まれ、静謐を破るのが難しいように。
 望むと望まざると、ロゼウス=ローゼンティアは嵐なのだ。その中には狂気のような平穏があるが、一歩外に出れば豪風が全てを根こそぎ薙ぎ倒す。そして嵐そのものである彼自身は、彼に近づこうとして薙ぎ倒されていく人々を凪いだ目の中から見つめるしかできない。
 それはあまりにも強大で、それ故に無力な存在。
「ゼファードは俺が見初め、フェルザードが望んだ次代のエヴェルシード王。この子はこれでいいんだよ」
 背後から歩み寄ってきたロゼウスは、ゼファードを追い越して謁見の間の中央に立つ。その正面に立つシェリダンと向かい合い、表情のない顔で見つめ合う。
「は――こんな軟弱者がエヴェルシード王だと? 笑わせる? これは何の冗談だ」
 シェリダンとゼファードの対立の図式は、そのままシェリダンとロゼウスの対立へと移行した。彼らは正面から睨み合い、まっすぐにその意志をぶつけ合う。
 嘲笑と軽蔑を、哀惜と憎悪を。そして相手の真意を問う意志を。
「俺の望みだ」
 純白の衣装に身を包み囁く。彼は皇帝。この世界を治める唯一絶対の存在。
「お前の望み?」
 口の端を歪め嘲笑う深紅の衣装の少年。彼は王。かつてこの国を支配した王。
「そうだ――俺の望み、俺の意志」
 その身ぶり素振りの一つで相手を威圧するかのような、ロゼウスとはまた違う強者の迫力を持つシェリダンに対し、ロゼウスはあくまでも静かに、だがはっきりと言い返す。
「本来この世界において、エヴェルシードとして正しいのは、シェリダン、お前の生き方の方だろう」
 彼は父と異母妹を罠にかけ、玉座を奪い、何人もの人間を殺して血で染め上げた王冠を頂く武の国の王。
 かつてエヴェルシードという王国においては、強さこそが全てだった。魔術師の国であるゼルアータ王国を打倒して帝国の樹立を謳ったエヴェルシードの末裔が、肉体的な強さを捨てるなどありえない。
 けれど力を求め続けるその生きざまは、時に多くのものを傷つけ踏みにじった。ロゼウス自身も、かつて覇道を求めるシェリダンに踏みにじられた者の一人。
 わかっている。そう、ずっと昔からわかっていた。
 四千年の時を超え、彼らはようやく向かい合う。
「強さこそ至上のエヴェルシード。自らがその座を手に入れるためには親兄弟でも殺し合う。弱者は殺せ。全てを奪え。何もかもを焼き尽くせ。それが闘争と狂乱のエヴェルシード」
 ロゼウスは宣言する。
「俺は、“それ”を否定する」
 薔薇の皇帝は宣言する。
「エヴェルシードの本質が“それ”ならば、変えなければいけないと思っていた。もうずっと思っていた。お前に出会ったその日から」
 血と死の交わるその絆を得た日から、それでも胸に刺さる消えない棘。
「だから俺は皇帝として、闘争を求めるエヴェルシードにその本能を律することを長年かけて刻み込んだ。そしてゼファード=エヴェルシードはその集大成。彼は自ら勇者として、人々を救う者として立ち上がった」
 エヴェルシードは強い。けれどこれまでその強さは、他国への侵略や略奪にしか向けられていなかった。
 争いを嫌うローゼンティアの吸血鬼は、エヴェルシードがその強さを人々を守る方向に向けることを望んだ。
 ロゼウスは僅かに振り返り、呆然とした表情で硬直しているゼファードを見る。どこか苦笑じみた表情を浮かべるその見慣れた顔に、ゼファードはようやく緊張を解いた。
 しかし次の瞬間、氷の棘が刺さるような鋭い殺気を感じる。
「ロゼウス=ローゼンティア。それは我らエヴェルシードに対する侮辱だ」
 シェリダンが本気の殺意を含む表情で、ロゼウスを睨んでいた。もともと目つきの鋭い少年だったが、今は正しく射殺すような眼差しとなっている。
「我らは父母を兄妹を妻を子を、全てを殺してこそのエヴェルシード。我らの流儀に守るなどという言葉はない。全てを滅ぼし尽くすのみ」
「ああ、そうだ。だが、変えた」
 ロゼウスも負けずにシェリダンを睨む。凍える血のような真紅が、燃える朱金の殺意に絡んだ。
「四千年の時をかけて、この帝国において強さの定義を変えた。そしてその意志を継ぐ者こそ、次代のエヴェルシード王ゼファードであり、次代の世界皇帝フェルザードだ」
 シェリダンの怒りが炎のようと称せられるのであれば、ロゼウスのそれは氷のようだ。どこまでも冷たく、凍てついている。
「彼らの即位を阻む素振りを見せるならば、俺は誰であっても殺す。俺が皇帝として四千年かけて世界に浸透させたその意志を揺らがすのならば、何人であっても滅ぼす」
 その視線がすいと動き、これまで部屋の隅で彼らのやりとりを見守っていた一人の男へと向けられた。
「シェリダン、お前は死んだ王。今生きている者が作り上げたこの世界に干渉することは許されない。だから――」
 あえて皇帝としての能力を使い、ロゼウスは一瞬でシェリダンの前からこれまで事態を静観していた男の目の前に移動した。その首根っこを掴み、小動物でも捻りあげるように持ち上げる。
「ぐっ――」
「お、おい! 待てよロゼウス! ウェントワースをどうする気だ!?」
 慌てて制止の言葉をかけようとするゼファードが動く前に、すでに事は終わっていた。
 どさりと重い音が――人体が床に落ちる鈍い音が響く。
「もしもお前がその存在で強さに惹かれる異分子を生み出してしまうと言うのならば、俺はその信望者をまず殺そう。この部隊長もその家族も部下も、何もかも皆殺しにして再び殺戮皇帝の恐怖を世界中に刻もう」
 薔薇の皇帝ロゼウスの異名は殺戮皇帝。
 争いを嫌うロゼウスが自ら争いの中に身を投じ、永い永い年月をかけてついに到達したこの平穏な時代。そこで流された血は、かつてシェリダンが流した血の量とは比べ物にならない。
「それが、俺の役目。薔薇の皇帝の役目だから」
「ウェントワース!」
 ロゼウスの言葉尻にかぶせるように、耐え切れずゼファードが叫んだ。倒れた部隊長に駆け寄り、その息を確かめる。
「ウェントワース……ッ! あ、あれ? 生きてる?」
 てっきり死んだものだと思っていた部下の息があることに、ゼファードは喜ぶより前にまず驚いてしまった。ロゼウスは彼を殺しはしなかったらしい。種明かしはすぐにされた。
「彼のここ数日間の記憶を奪った。あとで部下たちの方も脳に手を加えて記憶を弄らねばならないな。目覚めた時にはシェリダンと過ごした任務の時間は適当な記憶に差し替えられている」
「それはそれで残酷だと思うが。そうまでして私にその道を選ばせたくはないと言うわけか」
 大人しくロゼウスの言い分を聞いていたシェリダンは、皮肉に口元を歪めながらも頷いた。
「ふん――まぁ、いい。どうせこの時代はお前のものだ。お前が皇帝だ。ああ、そうだ。すっかり忘れていた」
 シェリダンが生きていた頃、ロゼウスは皇帝ではなかった。シェリダン=エヴェルシードにとって世界皇帝とはあくまでもロゼウスの先代であるデメテル帝だ。だからロゼウスが一手に帝国の正義を握っている状態に実感がなかったらしい。
 それも無理からぬことだ。何故なら彼は。
「なぁ、ロゼウス。私はかつて、お前の治める帝国が見てみたいと言った」
「……ああ。覚えているよ、シェリダン」
 ロゼウスが悲痛な顔つきで頷く。対照的にシェリダンは、これまでとは打って変わって穏やかな表情を浮かべた。

「だがお前が統治するこの世界に、私の居場所は存在しないのだな」

 そう言って静かに目を伏せる。
 かつて、この世界に薔薇の皇帝を存在させるために死んだ少年王。彼の人生は、決して薔薇の皇帝とは交わらない。
 その運命も、彼ら自身の主張や信念も、ロゼウスとシェリダンは、決して交わることのない道を選びいく。
 正義の形は人それぞれなどという都合の良い言葉もあるが、ロゼウスとシェリダンの立場でそれは赦されない。彼らは皇であり、王。その口から発する言葉が多くの者の行く末を左右する以上、自らの掲げる正義を揺らがせることは許されない。
 何より、皇帝ロゼウス=ローゼンティアの時代にシェリダン=エヴェルシードは存在しない。
 ロゼウスの治世を存在させるために死したシェリダンの存在は、しかしロゼウスの治世には必要ない。
 誰よりもロゼウスに必要とされ、求められるシェリダンの存在は、薔薇の皇帝の治世には不要なのだ。
 だから彼は死んだ。
 ローラやエチエンヌやリチャードという彼の腹心の存在を得はしても、シェリダン自身を皇帝としてのロゼウスが必要とすることはない。
 四千年に渡り緩やかに世界に変革をもたらした薔薇の皇帝が必要とするエヴェルシード王はシェリダン=エヴェルシードではなく、ゼファード=エヴェルシード。
 それが事実だ。
 ロゼウスが皇帝である限り、シェリダンとは共にいられない。
 けれどロゼウスは皇帝なのだ。それをやめることもできない。
「――ふ」
 ふいに、シェリダンが息をついた。
「やれやれ。あの頃は私どころか兄にも文句の一つ言えずお人形となるしかなかった男が、随分成長したものじゃないか」
「シェリダン――」
「ああ、わかっている。この世界に、私は不要。そうだな」
 誰もが言いにくいことを自ら認め、シェリダンは殺気を消して穏やかに笑う。
 その表情はロゼウスも知るもの。そしていつもと変わりないルルティスの顔で浮かべられる笑顔でも、ゼファードやフェルザードたちはまだ知らぬもの。
 それはシェリダンが、ロゼウスの手によりもたらされる己の死を知り、全てに覚悟を決めてから浮かべるようになった表情だ。
「すでに忘れ去られ、記録されぬ歴史に埋もれた、ただの過去の遺物。それが私だ」
 別段悲愴ぶるでもなくそう言ったシェリダンは、むしろ感心するような眼差しをロゼウスに向けていた。
 ゼファードたちには及びもつかない話だが、かつてシェリダンとロゼウスは、侵略者の王と彼に国民を人質にとられて従属させられた王子として、シェリダンの方が圧倒的優位に立つ力関係だった。ロゼウスの立場はシェリダンの玩具であり奴隷。
 今の薔薇皇帝を知る者には想像もつかない世界。だがそれは、かつて確かにそこに存在した世界。
 だが時は巡る。世界は移ろう。時代は変わる。
 あの日の二人はもうここにはいない。ロゼウスもシェリダンも、あらゆる意味で変わりすぎた。生と死の線上で今僅かに交わらぬはずの道が交わり、夢のような邂逅を与えてくれただけ。
「無用な騒ぎを起こして悪かった。ま、次代のエヴェルシード王を弱すぎると言ったことは謝らんがな!」
 晴れやかな顔でそう言うと、シェリダンは剣をゼファードに返して謁見の前の出口へと向かう。
「ああ、そうそう。先程も簡単には言ったが、私はそもそもルルティスの肉体を乗っ取る気はないぞ。私がこうして目覚めているのは、ルルティスの奴が拗ねて出てくる気をなくしているからだ」
「拗ね……?」
 いったい今ルルティスの肉体の中で彼本来の意識がどうなっているのかと首を傾げながらも、ゼファードはシェリダンから受け取った剣を持ちなおす。
「だがこの肉体は間違いなく奴のもので、この人生に対しては私ではなく、ルルティス=ランシェットが目覚めて責任をとらねばならない。そうだろう?」
 何気ないながらも重要な言葉に、半ば釣り込まれるように頷きながらゼファードは言った。
「ああ、そうだ。だってあんたはルルティス=ランシェットではなくシェリダン=エヴェルシードであり、シェリダン=エヴェルシードはルルティス=ランシェットではないのだから」
「そういうことだ。――そうだな。ロゼウスたちがお前を次代の王にと望む理由が、少しだけわかった気がするよ」
 図らずもゼファードが口にした言葉が、今回の問題の核心だった。
 シェリダンはシェリダンだ。ルルティスではない。ルルティスがシェリダンではないように。同じ魂を持っていても、その人格も人生もはっきりと違う別物だ。
 誰も他人の人生を生きることなどできるはずもない。人は結局、自分以外の何者にもなれないのだから。
 例えばこのままルルティスの意識を押し込め、その肉体にシェリダンが目覚めたままでいても、それはシェリダンが自嘲した通り、ただの過去の遺物としてそこに存在するだけのことでしかないだろう。ルルティスからその人生を奪ったところで、シェリダンが生き返り自らの短すぎた生の続きをやり直せるわけではないのだから。
 これは――夢なのだ。
 誰が見たものかもわからない、あまりにも残酷で優しい夢。
 夢の中ででももう一度会いたいと願い、会うことのできなかった貴方にもう一度会える。それだけの夢。
 ふいにロゼウスの膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。顔を覆うようにして蹲る姿に、誰も声をかけることはない。ロゼウスの嘆きを誰よりも知りながら、それでいて平然とした顔のできるシェリダン以外は。
「私が“天の板”を通じてルルティスの肉体を制御していられるのはせいぜい三日というところだ。残り二日。それを過ぎれば、どうせ誰も何もしなくても元に戻る」
 そして今度こそ彼は扉に手をかけ、謁見の間を後にする。
 交わらぬ道を行く皇帝の悲嘆を振り返ることもなく、過去に存在する王は堂々とその場を去った。閉じた扉に映るかのような残像に向けて、ゼファードが一言囁く。
「あの人は、孤独なんだね」
 愛する者を失って四千年を生きた皇帝以上に、彼の王は孤独だった。