薔薇の皇帝 19

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 これは誰なのだろうとゼファードは思った。
 黒い髪に黒い瞳。いつもの金髪に緑の瞳ではないけれど、顔立ち自体はさほど変わっていない。ハデスはもともと整った顔立ちをしていた。黒の末裔としての姿だと少しだけいつもより幼く見えて、それが不思議だった。
 口調やふとした際の仕草などは、ゼファードの知るアドニスのままだ。けれど彼の語る言葉の一つ一つに、ゼファードの知らないアドニスがいる。
 裏切り。
 その言葉は酷く胸を衝いた。先程ゼファード自身が自分を騙していたのかと彼に詰め寄ったにも関わらず、その一方で自分は彼がそんなことをする人間だとはまったく思っていないのだ。
 ならば何故今もまだこんな風に問い詰めているのだろうと、ゼファードは消えない焦燥を思う。
「僕はそれからずっと、誰とも友達になんかなるつもりはなかった。皇帝領の連中とはもともと仲間とかそういう間柄でもないしね。お互いの立場を利用しあって――ほとんど魔術方面で僕が一方的に便利に使われてるだけの気もするけど――惰性で生きていけるならそれでもいいんじゃないかって」
 遥か昔を思い出し、ハデスと名乗る魔術師はほろ苦く笑う。それはゼファードのように二十年も生きていないような若造には決して浮かべることのできない表情だった。
「でも僕は、君に出会ってしまった」
 白い手が伸び、ゼファードの頬を撫でる。その輪郭が誰かと違うのを確かめるように。
「僕が君に会った時の驚きは、たぶんロゼウスたちがフェルザード殿下と顔を合わせた時の驚きに近いんじゃないかな。本当に驚いて、次に戸惑って、でもだんだん、そんなことは関係なく、他でもない君自身と相棒で友人になった」
 ゼファード自身が言ったことだ。
 シェリダンはルルティスではない。ルルティスはシェリダンではない。
 フェルザードもゼファードも、シェリダン=エヴェルシードにはなれない。
「それを、君は嘘だと疑うの?」
「俺……」
 もごもごと何か言いかけたゼファードだったが、最終的に一番素直な気持ちを口にすることにした。
「ごめん」
 藍色の髪が揺れ、ハデスの顔の両脇から壁に押し付けられていた手が落ちる。そのまま肩を抱きしめるようにして、ゼファードは自分より遥かに年上であることが判明した少年の胸に縋りつく。
「お前まで俺から離れていくのかと思ったら、耐えられなかったんだよ」
 素直すぎる言葉に苦笑して、ハデスはそのままゼファードの髪を優しく撫でるようにして抱きしめた。
「それは、ロゼウスたちを見ていたから? まぁあれは予備情報なくいきなり見せつけられたらあんまりな光景だったよね。僕みたいに事情を知っていればまた別だけど」
 ルルティスの肉体にシェリダンの人格が蘇ったと判明した途端、まるで手のひらを返すようにロゼウスの傍を離れてシェリダンの下へ侍ったローラたちの姿。ロゼウスが一人皇帝としての責務をこなし続けただけに、ゼファードにとってその衝撃は大きかった。
 その上アドニスが大魔術師のハデスと同一人物だと聞かされて、彼までもが今の帝国の全てを見捨ててシェリダンに寄り添うのかと思ったら、ゼファードは耐えられなかった。それがいきなりやってきてシェリダンに決闘を申し込んだきっかけだ。
「お前は、あいつらの中でどんな立ち位置なんだ?」
「さぁねぇ。強いて言えば中立なんじゃない? 心情的にはシェリダン寄りで、立場的にはロゼウスに従属させられているけれど。ローラたちがシェリダン派、ジャスパー王子がロゼウス派だとしたら、やっぱり僕はそのどちらほども強く相手のことを思っていない中立派だね」
「……思ってないのか?」
「多少の罪悪感も、預言者と名乗りながらあの結末を防ぐ気がなかったことに対する責任感もあるけど……まぁ、結局僕もあいつらもいつだって、自分がその時一番やりたいことをするしかなかったからね。少なくとも僕の知るシェリダン=エヴェルシードは、自分が殺されたから相手を恨むなんて気性じゃない。ましてや殺した相手がロゼウスなら尚更だ」
「……俺、なんだか今回のことで、四千年前のその、出来事だとか、お前たちの関係だとかに関係する認識が大分変わったんだけど」
「だろうねぇ。ロゼウスは言葉足らずっていうか……あの複雑な関係を毎回毎回知り合いに説明するはずもないし、いくら君やフェザーが特別とはいえ、やっぱり表面的な基本的事項しか言えなかったんだろうね。僕も今から一からちゃんと説明しろって言われても困るしなぁ。絶対途中でそれを抜かしたら終わりだろみたいな重要事項ぽろぽろ零す自信がある」
「そんなとこに自信持つなよ」
 いつもの調子をだんだんと取り戻してきたハデスに合わせるように、ゼファードも顔をあげて苦笑を浮かべた。
 だけど、失敗した。
 表情を変えた拍子に、意図せずぽろりと涙が零れた。ハデスがぎょっとした顔になる。
「ゼファード」
「あ、あれ? なんでだろ……」
 目元を乱暴に服の袖でこすりながら、ゼファードは表情を戻そうとしてまたしても失敗する。溢れる涙に押し出されるように、言葉が口を衝いて出た。
「だって、ロゼウスの奴が、あんまりにも自分を捨てて“皇帝”として振る舞うから、だから俺は……!!」
 ロゼウスと出会ってから十年。ゼファードはロゼウスがシェリダンへと向ける想いの強さを知っている。危うくロゼウスの愛人になるところでもあったのを兄の行動によって回避されたゼファードは、ロゼウスと肉体関係はない人間の中で例外的にその恋愛事情とも呼べるものを最もよく知る相手だろう。
 そうして話の中にだけ存在するシェリダン=エヴェルシードに形のない敵意を持ち続けて十年。ついに目の前に現れた当人を前に、ロゼウスの淡泊すぎる反応に意表を衝かれると同時に何より、悲しくなってしまった。
 だって、会いたくなかったはずがないのだ。
 ロゼウスはずっと彼を待っていた。見ているこちらが歯がゆく苛立たしくなるくらい、とうの昔に死んだはずのシェリダンを思い続けていた。
「俺は今生きている人間だから、俺が知るルルティスの心配をする。でもあいつらにとっては、シェリダン=エヴェルシードこそが全てなんだろ?」
 皇帝領の地下でまるで眠るように棺に納められたシェリダンの遺体を見つけ出した時は、背筋が凍るような思いを覚えた。ロゼウスの中で、シェリダンとのことはまだ過去になりきっていないのだ。彼の傷は四千年の時を経た今でも生々しく紅い血を流し続けている。
 なのに、どうして。
「別に最後まで会話をしないわけじゃないだろうさ。あいつらは両方とも度を越した意地っ張りだからね、ぎりぎりになるまで、本音も口にできないんだよ。ロゼウスはシェリダンを殺したのが自分だと言う負い目があって、シェリダンは自分のことをすでに死者だと定義している。だから未練たっぷりなくせに、お互いに自分からは会いに行けない。でもきっと――最後のその瞬間の前には、どちらともなく会いにいくだろう」
 彼らの両方をよく知る者にしかできない考察を述べ、ハデスは再びゼファードの頭を撫でる。
「だからゼファードも落ち着いてよ。君にそんな顔されると、こっちもどんな顔していいかわからなくなる」
 ゼファードはまだぐすぐすと鼻を鳴らしていたが、とりあえず落ち着こうと顔を上げた。そこに、通りがかる人影があった。
「ねぇ、ゼファー。ハデス卿は見つけられ――……」
 アルジャンティアは柱の影でゼファードらしき姿を見つけて話しかけた。彼女の位置からは影の闇に溶け込むように黒一色を身に纏うハデスの姿はまだ見えていなかったらしい。
 二人の姿を見つけると、もとから大きな瞳をまん丸く見開いて驚いた顔をした。そこでゼファードたちは、ようやく自分たちが今現在どういう体勢でいるのかを思い出した。
 ハデスの胸に縋りつくゼファードと、それを抱きしめるハデス。
 最初と最後の会話を思い出す。明らかに人に見られたら誤解される体勢と台詞。泣いた痕が丸わかりのゼファード。傍から見れば愁嘆場。
「ご、ごめんなさい。邪魔したわね!」
 用事があるのも潔く無視して、アルジャンティアはくるりと踵を返して走り出す。
「待て! アルア! アルジャンティア! ちょ、本当に待って! 誤解なんだー!!」
 その日、エヴェルシード王城には王太子の悲鳴が響きわたった。

 ◆◆◆◆◆

 城に戻ったシェリダンとリチャードがまず見たものは、部屋の隅で膝を抱えて壁に向かってぶつぶつと呟くゼファードの姿だった。そんな弟を慰めるでもなく放置上等で、フェルザードは優雅にお茶の時間を楽しんでいる。
 そしてそんなゼファードはともかく、城の中がどこか騒がしい。あちらこちらで人々が駆け回っているような気配がある。
「何かあったのか?」
「何もないのに誤解があったらしいですよ」
「いや、あれのことじゃなくて――ロゼウスたちだ」
 フェルザードはカップを受け皿に置くと、さして気のない様子で言葉を紡ぐ。
「エヴェルシードではなく別の国で問題が起きたそうです。今、陛下――皇帝陛下と双子、それにハデス卿がすでに動いています。というかあなたもちゃんと働いてくださいよ、帝国宰相」
 フェルザードが言う前に、すでにリチャードは動き出そうとしていた。シェリダンに短く断りを入れると、入ってきたばかりの扉を開けて出て行く。
 起きた事件の概要を聞いた瞬間に、リチャードの意識が今までの“シェリダンの従者”から“世界帝国宰相”へと切り替わったのがシェリダンにもわかった。こうなるともはやシェリダンにできることは何もない。むしろ余計な介入をするわけにもいかず、顔つきを引き締めたかつての部下を見送るぐらいしかできない。
「さて、手持無沙汰になってしまいましたね」
 フェルザードの言葉が自分にかけられたものと知り、シェリダンはこれまでろくに話をしたこともない青年と真正面から向き合った。
 ――彼の容姿は、本当に自分とそっくりだ。
 厳密に言えばシェリダンとフェルザードにはいくつか間違いようのない差異がある。今はシェリダンの方もルルティスの肉体をしているので亜麻色の髪のシェリダンを蒼い髪のフェルザードと間違える人間は当然いない。それでも色彩を除いた容姿に関して言えば、彼らはまるで双子のようによく似ていた。
 明るい日の下で間違えることはなくとも、鏡のようだと言えるほどにはよく似ている。そんな相手を目にして、シェリダンは当初顔に出さずに動揺した。すぐにルルティスの知識からフェルザードに関する記憶を引き出したが、自分とほぼ同じ顔に驚かされることには変わりない。
「こうして改めてお話をするのは初めてですね。シェリダン=エヴェルシード陛下。私はフェルザード=エヴェルシード」
「ああ。私はどうやら名乗る必要はなさそうだな」
「ええ、有名人ですからね。女傑王カミラの不出来な兄、四カ月王は」
 にっこりと穏やかな表情に騙されそうになるが、一言目から物凄い嫌味だった。ルルティスの記憶に頼るまでもなく嫌な奴だと判明した現国王の王子は、シェリダンにお茶の席を示す。
「ご一緒にどうですか?」
「いや、私は」
「やはりその状態では食物の摂取はできないようですね」
 わかってるなら誘うな。
 何故それを知っているのかと問うより前にまず嫌がらせに対する悪態が脊髄反射で浮かびかけ、シェリダンは忍耐力を要される。
 室内の空気が段々と低下していく。
 もとより、自分たちの関係では友好など築けるはずもないが、それにしても第一声から臨戦態勢とはどうなのだ。王としての適性の話はともかく、いきなり決闘を申し込んできたゼファードの方がまだ素直で誠実で清々しく好ましい。
 フェルザードに対するシェリダンの好感度は早くも最低値を突破したが、それを言うならフェルザードの中でシェリダンに対する好感度など出会う前から負の値側の針を振り切っている。
 片や、ロゼウスの四千年来の想い人。偽装とはいえ、名目上の夫。
 片や、ロゼウスの愛人と言う名の最初で最後の恋人。
 同じ相手を想う人間同士、つまりは恋敵。その上酷似した容姿を持ち、その容姿であることが関係を得るに至ったことに強く影響している。
 これで不仲にならない方が無理な話だと言ってもいい。
 しかも現在は別れたとはいえ、フェルザードとロゼウスはお互いに嫌いあったり、相手への興味を失って別れたわけではない。やむを得ぬ事情のために、お互いに相手のことを強く想いながらも明日のための別離を選択した間柄だ。その時すでにルルティスの肉体を制御していたシェリダンは、フェルザードの行ったあの放送も耳にしていた。
 気に入らない。
 お互いに相手への印象を一言で表現すればただそれだけ。だが彼らにとっては、それが全て。
「陛下たちとは違う意味で、私もあなたにはずっと会ってみたかったんですよ、シェリダン王」
「そうか。私はまったく会いたくなかったがな」
「子孫に対してつれないことをおっしゃらないでくださいよ。――場所、変えませんか?」
 軽口を叩くのを止めて、フェルザードはシェリダンを室外へ誘った。こちらに興味こそ示していないが、部屋の隅ではまだゼファードがぶつぶつしているのである。どうやらフェルザードは弟もいないところで、シェリダンと二人きりで話したいことがあるらしい。
 望むところだ、とシェリダンは思った。真っ直ぐな気性の弟とは違いこのフェルザードと言う男には背中を見せた瞬間刺されるのではないかという思いもあるのだが、そうなったらそれはそれで上等だ。次期皇帝と喧嘩ができる機会など滅多にない。
「わかった。何処に行く」
「良い場所を知っています。ついてきてください」
 二人は道で通りすがる人々が度肝を抜かれるほどの殺気をお互いに放ちながら、まったく友好的とは程遠い態度で並んで歩きはじめた。