薔薇の皇帝 19

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 かつてとほとんど変わらないと見えた城も、少しは変化があったらしい。フェルザードがシェリダンを案内しながらやってきたのは、彼の知らない場所だった。
 王城の中庭がシェリダンの知る頃より随分広げられていて、あの頃は城の敷地内ではなかった土地も今はまとめて「王城」と呼ぶことになったようだ。
 その敷地の片隅に、七階建てくらいの簡素な塔が存在した。永遠に続きそうな螺旋階段を昇ると、天井に大きな時計の設置された空間に出る。
 エヴェルシード特有の涼しい風が二人の間を吹き抜けた。
「この時計塔は、昔から私のお気に入りの場所なんですよ」
「そうか。良い場所だな」
「ええ。人気は少なく安全管理は甘い。誰かを突き落としても隠蔽工作がしやすい最高の場所です」
 まずい。殺されるかもしれない。
 半ば本気でそう考えるシェリダンに対し、フェルザードは意味深な笑みを向ける。吹き抜けの最上階で時計の針が刻む音を耳にしながら、フェルザードは城内を何か所か指示して見せた。
「ほら、あそこに皇帝陛下がいらっしゃいますよ」
 油断したところを突き落とされないよう慎重に距離をとって、その示す場所を見つめた。自分自身の命ならまだしも、今のこの肉体はルルティスのもの。助けるつもりで殺されてたのでは洒落にならない。
 フェルザードの言うとおり、城内の一角でロゼウスとリチャードが兵士を集めて何かを指図している。
「あちらにはエチエンヌとローラ様も」
 練兵場の方で、十五歳相当の騎士と皇后の姿に戻ったエチエンヌとローラが武器を構えて同じく兵士たちに何事か話しかけていた。周囲がエヴェルシード人だらけでも臆した様子もなく、上に立つ者の顔で堂々と命令を下しているようだ。
「何故ローラだけ様づけなんだ?」
「陛下の御子を産まれたからですよ。ロゼウス陛下が正式にその立場に置くと宣言したことはありませんが、帝国内では皇后相当の権力を持つ人物として皇帝の次に崇められる存在です。ただの女ならばまだしも、あの方は実力者ですしね」
「御子?」
「アルジャンティア姫です。あなたも会ったでしょう。ゼファーとの決闘の時に謁見の間にいた少女を覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、あの変わった瞳をした娘か。道理でロゼウスとローラを足して二で割ったような容姿だと思った」
「殿下とはまだお話されていないのですか?」
「ヴァンピルの特徴を持つ容姿だからロゼウスの身内だろうと気にはなったがな。あまりにも少女らしく可愛らしいので声をかける勇気が出なかった」
「本当に残念以外の言葉が見つからない人ですね……」
 シェリダンの徹底した女嫌いに、フェルザードは素の表情で呆れの溜息をついた。男皇帝であるロゼウスの想い人であるのだから別段おかしなことではないのかもしれないが、なまじロゼウスが女性的な美貌を持つだけに相手がまさか女嫌いだとまでは、思っても見なかった。
 フェルザード=エヴェルシードは薔薇の皇帝ロゼウスの愛人。だから他の者たちよりも、シェリダンに対しての知識を持っている。ある意味ではそれが逆に先入観として邪魔をしたのかもしれない。
「あなただって御子を作ったでしょう。だから私たちが今この時代にいるわけですし」
「は? 何の話だ?」
 シェリダンは十七歳で死んだ。フェルザードが侮った通りに後世にて四カ月王との屈辱的な仇名で呼ばれることになった女嫌いの国王は、その血を遺すことをしなかった。
 と、自分では思っていたのだが、次のフェルザードの予期せぬ台詞にシェリダンは見事に固まることとなる。
「女傑王カミラとの間に子を成したでしょう。ああ、ちなみに生まれた子はアールフレート王子と名付けられて健やかに育ち、母の後を継いで名君として名を遺しましたよ」
 かつての自分の行動のあれやこれやが蘇りシェリダンは石のように硬直する。子ども? 妊娠? 出産? カミラが? ちょっと待て!
「ちなみにこれはロゼウス陛下から聞いた話ですので、間違いはありません」
 混乱の極みに至るシェリダンの思いも知らず、フェルザードは不必要なまでに爽やかに断言した。自分たちがシェリダンの直系の子孫であると知っていたフェルザードは、世間的には仲が悪かったとされる妹姫との間に子まで成したシェリダンがよもや女嫌いで近づかれるのすら嫌がるなどと考えたこともなかったのだ。
「ちょっと待て……」
 自分の口元を覆いながら目を白黒させるシェリダンの思考が落ち着くのをフェルザードは待った。
「と、言うわけで我々現エヴェルシード王家は間違いなくあなたの子孫なのですよ。同時にカミラ王の子孫でもありますけどね。そういうことですよ、御先祖様」
「……」
 シェリダンはひたすら、ただひたすら沈黙を守った。
 確かに身に覚えがないとは言わない。だが、それは――あまりにも、衝撃的過ぎた。
「やれやれ、この話はお気に召さなかったようですね」
「いや、お気に召すとか召さないとかそういう問題ではなくてだな」
「まぁそんなことはどうでもいいのですよ。私がここにいることが帝国の正義であり宇宙の公約であり人類の進歩であり全てです」
「大きく出過ぎだろう。お前は本当に私の子孫か」
 フェルザードのあまりの大言壮語に納得できない事実までも持ちだす勢いでツッコミを入れるシェリダン。
「……というか、無駄話はそろそろ終わりにしてさっさと本題に入れ。まったく、ここにいられる残り時間も少ないと言うのに、何故貴様なんぞに時間を割かねばならん」
「まったくですね。でもいいじゃないですか。どうせお暇でしょう。どうせ今はロゼウス陛下たちも忙しくて、あなたのお相手なんてできませんよ。この世界に今現在必要のないあなたと違ってね」
 フェルザードはにっこりと笑った。
「暇な只人の相手を、有能すぎて三か月先の仕事まで終えて暇を作ることも簡単な私が、せっかく相手をしてあげているのですよ」
「……何から何まで腹の立つ奴だな、お前」
 怒るを通り越してもはや呆れる勢いで皮肉と自己愛主義を繰り出すフェルザードの様子に閉口しながらも、シェリダンは一応問うておく。
「そんなに私が気に入らないか」
 時計塔を吹きぬける風がぴたりと止んだ。
 振り返ったフェルザードが凍るような微笑みを浮かべる。
「当たり前じゃないですか。死人は大人しく死んでいればいいものを」
 彼の弟であるゼファードが天の理を重視し、自分はルルティスの味方をするという悲痛な決意でもってシェリダンを非難したのとは違う。心の底から忌々しさを隠そうともしない口調と言葉選びで、フェルザードはシェリダンを見下した。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシードとフェルザード=スラニエルゼ=エヴェルシード。彼らは容姿はよく似ているが、浮かべる表情はまったくと言っていいほど違う。
 その根本は、彼らの精神の在り方に由来する。常に自信に満ち溢れているフェルザードと、そうではないシェリダン。
 口の悪さと傲慢な態度から間違っても気弱には見られないシェリダンだが、この問題はそれとはまた別で、彼は自分の存在そのものに自信がなかった。
 シェリダンの父はエヴェルシード国王だったが、母親は町娘。父王は母を無理矢理凌辱して孕ませ、望まない婚姻と出産に絶望した母はシェリダンを産み落とした後自らその命を絶った。
 彼は自らの存在自体が罪なのだと知っている。だからシェリダン=エヴェルシードの表情にはどんな時でも翳りがつきまとう。
 一方、そのような翳りをまったく持たないのがフェルザードだ。
 弟公爵に簒奪されかかるような国王だが、フェルザードとゼファードの父は息子たちに親としての愛情を過不足なく与えた。彼らの間にあるのは自然で普遍的な親子の愛情であり、それらをたっぷり与えられて育った兄弟は、だからこそ多少の屈折はあっても基本的にはしなやかで真っ直ぐな気性だ。身内からは性格が悪いと言われるフェルザードであっても、例えば罪人を拷問で甚振るのに行きすぎた快楽を求めるような、そういった歪みとは無縁だった。
 両親や兄弟や周囲の人々を程度の大小はあれ愛し愛され育ったフェルザードやゼファードは、例えば自分が今ほど才能のある王子でなかったとしても、その性格が酷く歪むことはないだろう。
 だが、シェリダンは違う。彼はエヴェルシードとしての強さを持ち、優秀な王族でなければ自分には生きる価値がないと思いながら生き続け――死んだ。
 そんなシェリダンだからこそ、次の王であるゼファードに相応の“強さ”がないことを責めたりもした。
 けれどそれは、ロゼウスの意志で望み。その念頭にはそもそも、強さだけを求め、王としての自分の責務だけに価値を望み続けて幸薄い人生を送ったシェリダンのことがある。
 シェリダンとほぼ同じ顔のフェルザードが、彼とは全く違う明るい表情を浮かべることを、寂しく感じながらも誰よりも喜んだのもロゼウスだ。争い合うのが当然のエヴェルシードが今日まで続いていたとしたら決して生み出すことのできなかったフェルザードの笑顔。それをロゼウスは愛した。
 ゼファードが心配するように、フェルザードの目から見ても、シェリダンを前にしたロゼウスはとても幸福とは程遠い。
 そして尚更腹の立つことに、それでもロゼウス=ローゼンティアは、シェリダン=エヴェルシードという存在を無視することができないのだ。
 彼は彼を、柔らかな皮膚に刺さり傷口を抉る棘のように、愛している――。
「何故今更現世などに戻ってきたのです? ランシェットが目覚めるまでどこぞに姿を消してでもいれば、もう少し事態はマシだったでしょうに」
 凍れる炎のような青い青い煉獄を思わせる気迫。皇帝としての資質を持つ青年は、本来シェリダンを圧倒することなど簡単なはずだった。
 だが、シェリダンは委縮する様子もない。傲岸不遜な眼差しで睨んでくる。
 お互いにお互いが気に入らないことなどもうわかりきっている。
「あなたはロゼウス陛下を不幸にする。できれば私があの方と共に死ぬまで、ランシェットの中で一生眠っていてほしかったのですがね」
「目覚めてしまったものは仕方がないだろう。それとも、ルルティスにあのまま死ねばよかったと?」
「そうは言っていませんよ。誤魔化しはやめてもらいましょうか、シェリダン=エヴェルシード。私はあなたの発言を信用しない。そもそもランシェットが戻ってこないのも、あなたの存在のせいじゃないんですか?
 宣言通りどんな誤魔化しも言い訳も通じない強い瞳で、フェルザードはシェリダンを射抜く。
「誰よりも皇帝陛下の寵を得ようとしている自分が、陛下と因縁深いあなたの生まれ変わりだなんて。――私だったら、間違いなく耐えられません。ランシェットに同情しますよ」
 今もシェリダンの意識の奥底、本来彼が存在するはずの階層の奥で蹲っている少年のことを思う。
「……それで」
 シェリダンの唇から、深い嘆息が零れる。
「だとしたら、私にどうしろと言うんだ」
 まったく、どいつもこいつも身勝手だ。人のことは言えないけれど。
「常世の微睡みから死に至る衝撃で叩き起こされて、ろくな説明もなく今更居場所のない四千年後の世界に放り出されて。……なぁ、私にこれ以上どうしろと言うんだ?」
 フェルザードが先程のような敵意とは別に眉を潜める。
「貴様らは私が何をしたところで満足などするはずもないだろう。人目のあるところで私がロゼウスを抱きしめて、あいつが私に泣いて縋りでもすれば満足か? だが生憎だな。私も奴ももともとそんな可愛げなど持ち合わせてはいない」
 ロゼウスが自分のことを彼らにどう語っていたかは知らないが、自分たちの関係はもともとこのようなものだ。もともと敵同士で、ロゼウスに至ってはシェリダンを憎んですらいた。
 最後の戦いが近づいても、お互いの主張はすれ違い、理解しあうことはなかった。ロゼウスと言う皇帝のためにシェリダンが死に、ロゼウスが皇帝ではなくなる頃になってようやくルルティスが生まれたことも宿命的ではないか。どうやっても、交わらぬ道。
「貴様の弟が言っただろう。ルルティスがルルティスであるように、私は私だ。――今更私以外の者になれるはずもない」
 人として生き、人として死ぬ。
 それだけが望みだったのに、今は只人と言い張るには、あまりにも異質な世界の住人だ。
「私に何を望む。私を通して何を見る。私はすでに過去。お前が指摘したように、今この肉体は死者の時間に囚われて食事も睡眠も必要としない。ルルティスが目覚めるまで傷口が塞がることもない。私はただここにいるだけの亡霊。私と言う存在が、もはや現世に及ぼせる影響などない」
 ハデスの言う“治療”は、シェリダンの意識とルルティスの意識が再び入れ替わる瞬間に即座にルルティスの傷口が塞がるというもの。彼らが魂に関する話をしていたのはこのためもある。
 そして三日という時間制限は、ルルティスの体力がそこまでしか持たないからだ。
「お前たちは私と言う存在に、本来自分が向き合うべき不満をぶつけているだけではないのか」
「――そうかも知れませんね」
 一瞬瞳を瞠ったフェルザードは、ゆっくりとシェリダンの言葉を肯定する。
「私はこの十年間ずっと、ロゼウス陛下のお傍にいました。けれど、あの方の中のあなたの存在を消すことはできなかった。私以外にも何人も何人も、あの方の傍にいて同じ望みを抱き、想い叶うことなくあの方の下から去っていきました」
 けぶるような蒼い睫毛が降り、目を伏せた。
「あの方の中のあなたを超えたいという望みを抱きながら、誰もがそれを成し遂げることはできなかった。……私でさえも。私は嫉妬しているのでしょう。あなたに。そして、ルルティス=ランシェットに」
 フェルザードはシェリダンの瞳を見つめた。シェリダンの放つ朱金の光ではなく、その琥珀の瞳の奥に存在するはずのルルティスを探すように。
「あなたを超える可能性を持つのは、やはりあなたの生まれ変わりであるルルティス=ランシェットだけ。あなたの生まれ変わりでありながら、あなた自身ではないからこそ、彼だけがロゼウス=ローゼンティアの中のシェリダン=エヴェルシードを超える可能性を持っている」
 誰もが遠慮して口に出せない。けれど誰もが聞きたがっている。
 ロゼウスはシェリダンとルルティス、どちらを選ぶのか。
 現世の人格を否定してまで前世を求めるのは倫理的に許されないかもしれない。だがロゼウスの過去とその執着の強さを思えば、簡単にシェリダンを諦めろとは言えない。
 誰もが納得するためには、ルルティスという存在がシェリダンよりも大切だとロゼウス自身が考え直すしかない。
 けれどロゼウスにルルティスを愛せなど、前世と現世二つの人格のうちどちらを選ぶか以上に他者の口からは言えぬ言葉だ。それを口にする資格はただ一人、ルルティス本人だけがもっている。
 ロゼウスの愛人志願でもあるルルティス自身がロゼウスの心をシェリダンよりも自分に対して強く惹きつけることができれば――。
 その時、この帝国の、ロゼウスと言う皇帝に囚われた全てのものの解放へと道が繋がるだろう。

「戻って来なさい、ルルティス=ランシェット。あなただけが、薔薇の皇帝の治めるこの世界を変革する可能性を手にしている」