薔薇の皇帝 19

109

 藍色の闇の中、彼らはずっと話し合っていた。表層に出ている意識とはまた違う、現と夢の狭間。ここにいる彼らは、嘘もつけない精神の本性だ。
 早く元に戻ってやれと説得し続けるシェリダンに、ルルティスは膝を抱えて蹲ったまま拒絶の言葉を返すばかり。
「私がこのまま元に戻らない方が、あの人は幸せなのではないですか?」
 シェリダンは苦笑する。
「――お前はまったくわかっていないな。何故私がわざわざこんな苦労をしてまで“生まれ変わった自分”ではなく、“ルルティス=ランシェット”を助けたと思う。――お前が死んだら、ロゼウスが悲しむだろう」
 彼としてはただ真実を述べただけのつもりだったのだが、返ってきたのは今までにも増して激しい拒絶だった。
「いいえ。……いいえ、いいえ……いいえ! あの人は悲しまない。本当には、悲しまない。たとえ表面上で私の死を嘆いても、それを埋めるあなたという存在があれば、いずれは気にも留めなくなる。それどころか、私が死んで良かったとすら思うようになるはずだ!!」
 ルルティスの吐きだした激情に、シェリダンは眉を曇らせる。
 ロゼウスを愛している。それはシェリダンの真実だ。だがシェリダン自身は、ロゼウスの中で自分がそんなに絶対的な位置にいるとは思っていない。
 そもそも四千年前にロゼウスが愛していたのは、シェリダンだけではない。彼が出会った頃のロゼウスが愛していたのは、別の人物だった。それをシェリダンが無理矢理奪い取ったのだ。
 ロゼウスがシェリダンを愛していることを疑うわけではない。だが、ロゼウスの中に存在するその感情は純粋な愛情だけではないこともわかっている。
 それに加えて、現在のロゼウスの中にはシェリダンを殺したのが己であるという罪悪感も交じっているはずだ。
 数日だけだがこの四千年後の世界で過ごしてわかった。
 シェリダンとロゼウスは、決して交わらない。
 昔からそうだった。決してその主張を理解しあうことはなかった。お互いの意志と意志をぶつけて、状況に合わせて譲ったり譲らなかったりした。
 打算でも私欲でもなくロゼウスを真に純粋に愛せるのはシェリダンではないのだ。ロゼウスがその愛を受け取ることができるのも。
 初めは敵として出会い、何度も何度も傷つけ合ったシェリダンにはできないこと。
 フェルザードも言っていたではないか。ルルティスだけが全てを解放できるのだと。
 だからなんとしてでも、ルルティスを無事にこの世界に返してやらねばならない。
 ここに必要とされているのは、シェリダン=エヴェルシードではない。ルルティス=ランシェットなのだから。
 なのにルルティス自身が、自分の価値を自覚しない。彼は頑なに、ロゼウスにとって必要なのはシェリダンだと信じている。
「あの人が愛しているのはあなただけ。永遠にただ一人、あなただけだ」
「――それは違う」
「違わない。あなたこそ何もわかっていない!!」
 激情のままにルルティスは叫ぶ。皮肉にもその怒りこそが、ルルティスの精神がシェリダンを押さえつけ、屈服させて自らを再び魂の上層に浮かび上がらせる原動力となった。
「お願いだから、もうこれ以上私も誰も苦しめないで。――もう疲れたんです。あの人に想い焦がれるのも、あの人を憎み焦がれるのも」
「……」

「愛している。愛している。私の皇帝陛下。でも届かない。永遠に――」

 深層意識の底、ルルティスは自らの体を抱きしめるようにして蹲る。
 この想いは届かない。

 そんな絶望を抱えたまま、ルルティスの意識は儚い泡沫のように憂世に浮上する。

 ◆◆◆◆◆

 ゼファードは大体の場合正しいが、今回に限っては一つ勘違いをしていた。
 かつてロゼウスがシェリダンを殺した。彼はだから、ロゼウスがシェリダンと顔を合わせづらいのだと思っていた。
 けれど違う。本当にロゼウスが、シェリダンと顔を合わせたがらなかった理由は――。
 四千年待ち続けたのだ。その生まれ変わりと出会うのを、待って、待って、待ち続けて。
 会いたくて会いたくて仕方がなかった。本当に。
 それでも今回二人きりで顔を合わせるのを渋ったのは、そうすれば。

「ルルティスを殺せば、もう一度お前が出てくることも可能か?」

 そうすればきっと、自分はルルティスを殺してしまうからだ。ロゼウスにはそれがわかっていた。そして。
「……皇帝陛下?」
 呆然とした顔で彼を見おろすルルティスも、今、それを知ってしまった。
「ッ、ルルティス――ッ!?」
 ロゼウスは次の瞬間思い切り突き飛ばされた。
 無防備だったのに加えて完全に意表を衝かれたロゼウスは、薔薇の咲き乱れる地面に尻餅をつく。先程までは意識して避けていた無数の棘が肌を引き裂いた。
 だがそれよりも鋭い痛みが、目の前の少年を苦しめている。
「……あなたが、私のことなど何とも思っていないのは知っていました。でも……」
 琥珀の瞳にみるみる涙が溜まり、溢れる。堰を切って零れたそれは止まらない。止めることなどできそうもない。
 ロゼウスにはそれを止める権利がない。
「ああ所詮そうだ! 私にはシェリダン=エヴェルシードの生まれ変わりとしての価値しかない!!」
 青ざめた顔を絶望に歪め、ルルティスが憎悪を吐きだすように叫ぶ。
「あなたは、あなたにとって、私に存在など本当にどうでもいいのでしょう!! 皇帝陛下、あなたが真に愛しているのはシェリダン=エヴェルシードだけなのだから!! だからって……」
 その咆哮で聞く者の心臓を破ろうとするかのような声は、ふいに花が萎むように力を失った。その代わりに雨だれが地を打つように零れ落ちる涙に合わせ、淡々とした声が落ちていく。
「私を殺してまで、彼を取り戻す気なんですか」
 凍りついたルルティスの表情が、再び歪む。親に見捨てられた子どものように頼りなく、膝から崩れ落ちた。
 地に咲く薔薇の花を無造作に掴む。その手が引き裂かれて血を流す。ロゼウスと違ってただの人間であるルルティスの健康的な肌が流す血はただ痛々しい。
「あの人を取り戻すためなら私を殺すと。そんなにも、あなたにとって、私の存在は――」
「……ルルティス」
 ロゼウスのシェリダンに対する執着の強さは誰もが知っていた。誰も彼を超えられないとフェルザードは言った。
 ロゼウスにとってシェリダンが一番大事だということ。
 それはシェリダンのためならば、ロゼウスが誰だって犠牲にできるということだ。
「憎みます」
 ルルティスの唇から言葉が零れる。ロゼウスがシェリダンの前で思わず全ての理性をかなぐり捨てて会いたかったと零したように、純粋な一つの感情に突き動かされて溢れ出した言葉。
 しかしその方向性は、ロゼウスとはまったく正反対のもの。
「あなたを憎みます。薔薇の皇帝陛下。私はあなたを――」
 蒼白な肌。震える声。今にも倒れてしまいそうなほど顔色が悪いのに、憎悪ばかりがその琥珀の瞳をきらきらと輝かせている。

「あなたを、殺してやる――!」

 シェリダンのために死んでなどやるものかと叫ぶ。
 シェリダン=エヴェルシードを復活させるためになど、誰が殺されてやるものかと。
 そのくらいなら、殺してやる。ロゼウスを殺して、自分も死んでやると。

「ルルティス、俺は――」
 ロゼウスに一切の弁明もさせることなく、ルルティスは踵を返して走り出した。
 そもそもロゼウスに、何の弁明もする資格はない。
 先程口にした言葉は、まだ仮定の話ではあるが本心だった。ルルティスが死んでその魂が一度自由になればそれをシェリダンの肉体に入れて元通りに復活させることができるのではないかと考えたことは確かだ。ハデスだってそのために今でも蘇生の魔術を研究している。
 今更どんな言葉を口にしたところで、琥珀の瞳の少年の心を取り戻せるはずもない。
 ロゼウスはシェリダンを選んだのだ。否、最初から、迷うことすらなく、シェリダンに決めていた。
 それが今この時代に生きて必要とされているルルティスを傷つけることであったとしても。
 ――わかっていた。
 そのはずだった。

 ◆◆◆◆◆

「……ふっ、ひっく、うぇ……う、うう」
 エヴェルシードの城とも墓所とも違う方向に向けて走り出すルルティスは、森を抜けない程度のところで立ち止まった。道など覚えていない。この森がどこに繋がっているかも知らない。帰り道もわからないが、どうでも良かった。
 それよりも今は、胸の中で暴れて体を突き破りそうなこの感情を鎮める方が先だった。
 人っ子一人いない森の中はそれに適した場所だ。
 心のままに、思い切り叫ぶ。
「殺してやる、殺してやる殺してやる! 私を見ないあなたなんて――!!」
 こんなにも声を上げて泣いたのは何年振りだろうか。十五歳はまだ世間的には子どもかもしれないが、自分としてはもういっぱしの大人だと強がりたい年頃だ。それでなくともルルティスの人生は他人に弱みなど見せられない期間の方が長い。もうこんな風に涙を流すことなんてないと思っていたのに。
 ああ、そうだ。恐怖や苦痛といった感情で最後に泣いたのは、死体の山に囲まれていたあの時。
 その時に助けてくれたのは、他でもない薔薇の皇帝ロゼウスだった。
 なのに今は、そのロゼウスに泣かされている。
「皇帝陛下なんて、大嫌い」
 さんざん叫んで少しは落ち着いてきたが、それでもまだまだ言い足りない。一番腹が立つのは、例えばこれを面と向かって直接告げたところで、当のロゼウスが傷つくことはないだろうということだ。――シェリダンではないルルティスの言葉なんて、彼には決して届かないだろう。
「それでも……愛してる」
 ルルティスの瞳からはまた涙の滴が零れた。それに合わせるように、小さな声が零れた。

「愛している。愛している。私の皇帝陛下。でも届かない。永遠に――」

 受け取る者のいない言葉は、落ちる涙と共に地面の上で弾けて消えた。

 ◆◆◆◆◆

 藍色の闇の底、その更に下層の闇に足を沈めながらシェリダンは髪をかきあげた。
 なんだか最悪にも程がある瞬間に意識が切り替わってしまった気がする。結局最後まで聞くことのできなかったロゼウスの言葉だが、その続きは予想できた。
「……まぁ、仕方がないか」
 今生きているのはルルティスで、これはルルティスの人生だ。与えられる痛みを甘受するのも生きているうちだろう。
 あっさりとそう結論付け、シェリダンは考えることをやめた。冷たいようだが、もう彼にできることは何もない。
 これ以上を望むのはきっと誰にとっても歓迎されない事態を引き起こすことでしかない。とっくの昔に死んでいるのだ。今更未練も何もあったものじゃない。
 今頃はきっと、この体の本来の持ち主と修羅場を起こしていることだろう。
 ルルティスが怒ったら、きっとロゼウスはシェリダンどころではなくなる。ルルティスの機嫌をとるのに必死で、シェリダンとろくに話せもしなかったことなどすぐに忘れられるだろう。それでいい。
 疼く胸の痛みごと、もう本当にルルティスの意識から消えてしまおう。
 それが誰よりも――ロゼウスのためだ。彼を置いて死んだ自分にできる最後のことだ。
 シェリダンはそうして静かに目を閉じる。
(泣くな、ルルティス。泣くな)
 そうしてかつてシェリダン=エヴェルシードと呼ばれた心は、再び人目に触れぬ闇の中に消えて行った。

 《続く》