114
砂漠の国カウナードの民は金の髪に青い瞳、そして褐色の肌を持つ。
帝国に存在する二十の民族の中、肌の色が違うのはたった四つの民族だけだった。
褐色の肌を持つカウナード人。蝋のように白い肌を持つローゼンティアの吸血鬼。蒼白と呼ばれる人魚族。黄色い肌を持つ黒の末裔。
黒の末裔ほど虐げられているわけではないが、砂漠に住むカウナード人たちは帝国において間違いなく異質な民族ではあったのだ。
民族ごとの外見的特徴の大きさ故か、帝国において混血児が生まれることは珍しい。人は余程でもない限り自分たちと美意識の近い同民族を伴侶として選ぶものだし、ローゼンティア人のように多民族を受け付けない閉鎖的な民族もいる。
それでも彼らは、自国を出ずに暮らしている限りでは「それが普通」であったのだ。
◆◆◆◆◆
「兄上!」
明るい声に呼ばれ、セイシェル=カウナードは振り返った。
剣の訓練をし終わり、冷たい井戸水で顔を洗ったところだった。柔らかい布で滴る水滴を拭いながら振り返ると、そこには自分とはあまり顔の似ていない方の兄弟が立っていた。
「シュルス。どうしたんだ?」
セイシェルにとっては弟にあたるシュルス=カウナード。カウナード王族の第三王子だ。現在の王には王子が三人だけで、他に子どもがいない。一人くらい姫がいれば政略結婚の役にも立つのだが、と王の頭を悩ませている。
ここにいない第一王子、セイシェルとシュルスの兄であるセインは顔立ちこそ第二王子であるセイシェルに似ているが、性格は正反対だと言われる。
気難しく神経質な第一王子セイン、穏やかで剣に優れる第二王子セイシェル、才能と言う点では兄二人に劣るが人懐こい人柄で周囲を魅了する第三王子シュルス。それがカウナード王家の三人兄弟だった。彼らはそれぞれに母親が違う。
「聞きましたか、兄上。セイン兄上が城に異国の女性を連れ込んだのですよ!」
いつも元気な弟が前置きもなく報告する。
「えーと……それは、恋人として、ということか?」
「そこまではっきりと口にはされていませんが、少なくとも愛人以上でしょうね。身分は奴隷だというので正妃になることはないと思うのですが……その女性、凄く美しいのですよ!」
「はぁ……」
美女に特に興味のないセイシェルは、興奮した弟の声に気のない返事をかえした。それと同時に、「あの兄上が」という疑問が胸の内に強く湧き上がる。
兄のセインは国を継ぐ者として誰よりも強く厳しく父王に育てられ、自分を律することを知っていた。その兄が、異国の奴隷身分の娘に恋をしたなどという絵物語のような話は、どこか自分とは関係のない遠い世界の話に思えたのだ。
「驚かないのですか? 城内では皆がその話で持ち切りですよ」
「いや、実感が湧かなくて……」
「では、兄上もその美女を見に行きましょう! もう訓練は終わったのでしょう?」
「それは、そうだけど……ちょっと、シュルス」
母親違いの弟王子は、強引にセイシェルの手を掴むと城の方角へ向けて歩きだす。辺りは砂ばかりで、冷たい石造りの城塞が並ぶ他国とは違って牛馬が放牧されている牧歌的なカウナードではよほどの事情でもない限り物々しい警備を必要としない。
王子である二人も比較的自由にこうして外に出ていた。城の近くの丘の上がセイシェルの訓練場で、シュルスがよく兄を呼びに来るのだ。
平和な光景。それ以外に言いようもないほど。
その平穏が崩れるなど、セイシェルは考えたこともなかった。
◆◆◆◆◆
兄が連れてきたという少女は確かに美しかった。
そう、美しすぎて、それはもはや恐ろしい程に。
「ふわー」
一度はその容姿を見たというはずの弟が魂の抜けたような声を上げる隣で、セイシェルも確かに少女に魅入られていた。燃えるような紅い髪に紫の瞳をした乙女は、この世に降臨した女神の化身もかくやと言わんばかりに美しい。
だが一方で気になることがあった。彼女と語る兄の様子だ。
兄のセインはシュルスや城の者が言うほどには、少女に心奪われている様子には見えなかったのだ。遠目に二人の姿を見かけたセイシェルに一瞬だけ気付いた兄は、しかしすぐに視線を戻した。まるでセイシェルの姿から目を逸らしたいというように。
セインとセイシェルは歳も近く、性格も能力も正反対で、母親違い。国内の勢力争いにおいてはどちらが玉座を手にするのかと、周囲にはまるで監視されるかのように注目されていた。
だからこそセイシェルには、兄が彼自身の連れて来た世にも美しい少女に心から惹かれているようには思えなかったのだ。兄には何か、彼なりの思惑があるのだろう。
そして事件は起きた。
けれどその引き金を引いたのは、結局は兄のセインでも、セイシェル自身でもなかったのだ。
◆◆◆◆◆
「どうして……」
燃え盛る炎を前にセイシェルは問うていた。
弟のシュルス王子に。
「どうして?」
彼は歪に笑う。とても幸せそうなのに、幸せそうだからこそ今この瞬間においては歪なのだ。
セインの部屋から出火した炎はすでに城中を包んでいる。使用人たちは大分逃げ出したけれど、それでも不寝番の兵士や逃げそびれた召使、彼らを助けに飛び込んだ人々など、大勢の人間が焼け死んだはずだ。
「兄上のためですよ。全部」
セインの部屋に火をつけたのはシュルスだ。
「どうして、何故だ! 何故お前がこんなことを!」
もしかしたら人生で初めてセイシェルは激昂したのかもしれない。その怒りの眼差しを、シュルスは柔らかな笑みで受け流してしまう。
「あなたを王にするためです。セイシェル兄上。セインなどこの国の玉座に値しません。あなたが王になるべきなのです」
「お前……」
「それとも兄上は、本当に御自身が玉座に相応しくないとお思いなのですか。何故? ――あなたの肌の色が、カウナードとは違うから?」
弟の言葉にセイシェルははっとした。
彼がどさくさに紛れて人気のない場所にいるのは、火から逃げようとしたわけでも、身の危険を感じたからでもなかった。
消火作業の巻き添えでかけられた水に、肌の染め粉を落とされたからだ。褐色の肌のカウナードらしくない白い肌を見られたくないがために、セイシェルはこんなところまで逃げて来たのだ。
彼の母親は異国の人間だった。カウナード以外に褐色の肌を持つ民族はない。けれど褐色肌の人間ばかりの中で、セイシェルの白い肌は異様に目立つ。だから染めていたのだ。
セイシェルは最初から王になる気などなかったのだ。こんなカウナードらしくない肌の色をした人間が、玉座に昇る必要はない。
「そんなこと気にしなくていいのですよ。兄上。だってほら、あなたはこんなにも綺麗」
「シュルス……?」
「美しいあなたが玉座に着くのは当然のことでしょう」
弟王子は夢見るような目でセイシェルを見ている。セイシェルは背筋を冷たいものが伝うのを感じた。
「お前は何を言って……」
「僕はずっと、兄上をお慕いしておりました。だからセイン王子を退けて、兄上を王にしようと陰ながら助力してきたのです。セインには連れ込んだ異国の女と恋情のもつれから部屋に火をつけて死んだことになってもらいましょう」
何もかも計画通りだと、まるで穢れを知らぬかのように無邪気にシュルスは笑う。
その指が自身の頬に触れようとした時、セイシェルは咄嗟に彼の手を振り払った。
「兄上?」
「触れるな! お前が私に触れることは許さない!」
打ち捨てられた子犬のような傷ついた眼差しで見つめてくるシュルスに、セイシェルは精一杯の憎しみを向けた。
「よくも、セイン兄上を……お前など、私の弟ではない!」
「そんな……僕は全部、兄上のために!」
その時セイシェルの中に沸き起こったのは、強い感情だった。
全部全部、この悪夢のような光景全て消えてしまえばいい。
武芸を嗜んでいた彼はいつも最低限の武器を手放すことはなかった。そして剣の腕は、セイシェルが兄弟の中で一番優れていたのだ。
いつとも気づかぬ間に彼が振るった剣は、狙いたがわず弟王子の命を奪っていた。
◆◆◆◆◆
「何をしてるのよ、こんなところで」
あまり聞き覚えのある声ではなかったが、まったく知らない声ではなかった。セイシェルはいかにも気の強そうな少女の声に顔をあげた。
「君は……」
それは兄のセインが連れて来たという異国の女。年齢だけで見れば、女と呼ぶにはまだ若すぎる少女。
熱風に翻る髪が燃え盛る炎のように美しい。
「あんたたしか、セインが言ってた第二王子じゃないの? そっちは第三王子? なんでこんなところに……」
言いかけた彼女は、しかし迷う口ぶりで一度言葉を止めた。
「いえ、それよりも今は時間が惜しいわね。さぁ、さっさと立って! ここから逃げなさいよ! んで余力があったら消火を手伝いなさい!」
仮にもこちらを王子と認識していながら、あまりにも居丈高な態度だった。当然のように少女は命じる。だがセイシェルは首を横に振った。
「もう、いいんだ」
「何がよ」
「もう、いいんだ……全てが滅びても」
「何を馬鹿な事を言ってるのよ!」
すでに物言わぬ弟の身体を抱きしめながら、セイシェルは顔を伏せる。
全てがどうでも良かった。この国が滅びようとも。
兄は死んだ。弟は殺した。なのに自分一人生き延びることが赦されるはずもない。
これまで何を守ろうとして生きてきたのだろう。肌の色まで染めかえて、故郷とも異国とも呼べないこの国で一人。
「私は王の器ではなかった。私も……そしておそらくセインも、シュルスも。誰もこの国を救えはしない」
次の瞬間、頬で乾いた音が鳴った。間近に迫る炎とは別の熱さがその場所に湧き上がる。
「この、愚か者」
炎色の髪をした少女が言う。
「ええ、確かにお前は王の器などではないのでしょうよ。あんたが守るべき民のことも考えない男なんて、どれほど有能でも王の資格などないわ! 救う? 何を思いあがっているの? あんたは神にでもなったつもり? あんた一人生きたところで、誰も救えはしないわ!」
叱責はセイシェルの耳を打った。呆然と彼は少女を見上げる。
「でも本来なら、あんたが生きて他の人々一人一人に影響する事でまだ多くの人が救えたはずよ。それすらもしないなら、あんたの命は本当に無意味よ。生きてるだけ無駄ね!」
どこまでも強くそして傲慢に少女は言いきった。カウナード第二王子セイシェルの命は、奴隷身分の少女一人にすら無駄としかみられないものらしい。
「それならば」
セイシェルはようやく口を開いた。
「私は、どうすれば……」
「簡単だわ。私に従いなさい」
強い憎しみの焔を閉じ込めた瞳で少女は言った。その深い憎しみは、セイシェルがこの場で抱いた絶望など比較にもならぬくらい輝きを放っている。
「あなたが従える者でないと言うなら、私が従わせてあげる。さぁ立って! 生きてる人たちを動かして火を消しに行くよ!」
◆◆◆◆◆
ディアドラはセスと初めて会った頃のことを思い出していた。粗末な荷馬車の荷台から顔を出し、御者台のセスへと話しかける。
「ねぇ、セス。あんたは後悔してないの?」
「何をですか?」
「うーん、強いて言うなら今ここにこうしていること、かしら」
セス――セイシェルは前を向いたまま、ゆっくりと首を横に振った。そしてぽつりと言葉を零す。
「私は王の器ではありませんでした。今は従兄弟が王位を継ぎ、かの国は安定していると聞いています。だからこれでいいんです。私はディアドラ様の下僕にしていただいて幸せです」
あの時、ディアドラが王城にいたのはセイン王子に頼まれていたからだった。その美貌で、セイシェル王子をたぶらかし玉座から遠ざけて欲しい、と。
彼女が行動を起こす前にシュルス王子が城に火をつけ王位に邪魔な者たちを次々と亡き者にせんとしたがために、結局は意味をなさなかったが。
それでも彼の望み通りにセイシェルが王位を継ぐことはなくなった。
――結局、誰が勝って、誰が負けたのやら。
歪な三人の王子たちは、結局は誰もが敗者だったのだろうか。
「ま、要するにあたしの一人勝ちかもしれないけど」
「ディアドラ様?」
「なんでもないわ。それより少し眠るから、馬車をよろしく」
奴隷娘に従う王子ははいと控えめに返事して、主の眠りを守った。馬車は平らかではない道を努めて穏やかに走り続ける。
この旅の終わる場所、彼女の最後の復讐相手のいる城に向かって。