第13章 玩具箱に眠る赤の女王
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そして少年は決意する。その書を綴ることを。
『薔薇皇帝記』
あまりにも激しく、鮮やかな、この時代の人々が生きた記録を。
◆◆◆◆◆
「殺してやる、殺してやる殺してやる! 私を見ないあなたなんて――!!」
森の中で一人、彼は泣き続ける。けれど衝動的に発した言葉に、思いがけず返事がかえってきて驚いた。
「誰を殺してやるんだって?」
「は……」
どう考えてもここにいるはずのない人物の声に、ルルティスは驚いて振り返った。
「ハーラルト=ヒンツ?! 何故あなたがここに……」
そこにいたのは、今年の学者会議でも顔を合わせた学者仲間の青年だ。
黒味がかった紅い髪に藍色の瞳を持つ、カルマイン人。メイフェール侯爵ジュスティーヌをパトロンとして薬草学を研究している青年である。
彼の主人であるジュスティーヌとはよく皇帝領で会うが、彼自身と顔を合わせたのは実に数か月ぶりだ。
しかも何故、こんなところで?
ただでさえ半分興奮状態にあるようなルルティスの頭は、今はまったく働かない。カルマイン人のハーラルトが、何故今現在、クーデター収束直後で慌ただしく治安の悪いエヴェルシードにいるのだろう。いや、エヴェルシードにいるだけならば問題はない、ルルティスがそうであるように、ハーラルトにもエヴェルシードに知己はいる。問題は何故、こんな辺鄙な森の中に突然現れたのかだ。
ルルティスとハーラルトは、決して仲が良いわけではない。ハーラルトは自分より年下のルルティスが自分と同じくらいの功績を上げているのも気にくわなければ、ルルティスが学院時代に教官を誑かして自分に便宜を働かせたことも気に入らない。ルルティスの方でも、毎回嫌味をぶつけてくるハーラルトとは、お世辞にも仲良くしたいとは思えなかった。
そんなハーラルトの格好は、長旅を想定した衣装や装備ではない。彼はまるで自宅から近所に散歩に出かけているかのような軽装で、腰につけた小さな鞄の他には荷物もないようだった。
いくら王都が違いとはいえ、このような人の来ない森の中で?
では移動はきっと魔術だったのだろう。ルルティスには若干の知識はあっても魔術師としての才能はないのでよくわからないが、例えばハデスやフェルザードだったならば魔力の動きでハーラルトが突然この場に現れたこともわかったのかもしれない。
「ルルティス=ランシェット。お前に用があってきた」
「わたしに?」
ここにいる以上それ以外に用件があるはずもないのだが、その用件自体が意外過ぎてルルティスは赤くなった瞳を瞬いた。同じ教室で学んだ学院時代ならともかく、今はそれぞれ別の土地で別の専門を研究しているハーラルトがルルティスに何の用だろう。
「……お前、何を泣いていたんだ?」
ルルティスは突然現れたハーラルトに驚いていたが、ハーラルトの方でもルルティスの様子に驚いたようだ。今更頬の涙の痕を乱暴に拭うルルティスから視線を外すと、彼はぐるりと辺りの景色を見回した。
「ここはエヴェルシード、だよな。なんでこんな森の中にいたんだ?」
「その言い方だと、あなたは馬か何かで移動してきたわけではなく、やはり魔術で直接この場所に出現したんですね」
「ああ。閣下お抱えの魔術師に、お前のいる場所に送ってもらったんだ」
ハーラルトが閣下と呼ぶのはメイフェール侯爵ジュスティーヌのことだ。彼の研究のパトロンでもあり、ルルティスと同じく皇帝の愛人志願の女性貴族。彼女の名が出てきたということは、皇帝領で何かあったのだろうか。今現在ロゼウスたち皇帝領の面々は全て城を空けてエヴェルシードに来てしまっている。
ルルティスは突然ハーラルトがこの場に現れた理由をそのように推測する。もっとも、皇帝に何か用があるならばエヴェルシード王城にいるのはわかっているのだから王国宛に緊急の連絡を入れるとか、魔術でロゼウス本人のもとに直接使者を送り届けた方がずっと早くて確実だ。
わざわざルルティスを選んでハーラルトに接触させる必要などまるでない。だが、現在混乱の只中にあるルルティスにはこの状況に違和感を覚えてもそこまで考える余裕がなかった。
「今、状況はどうなっている? 三十四代皇帝があのフェルザード殿下だったという報告ならこちらにも届いたが」
「あ、ええ。エヴェルシードの内乱は大事になる未然に防がれて今は平和です。事後処理に駆けずり回っている人たちはもちろんまだいますが、王子たちを除いた皇帝陛下たちの一行はすでに皇帝領に戻ることもできそうな感じですよ」
あまり深く考えることもなく、ルルティスはハーラルトの求めに応じて現在のエヴェルシードの状況を話した。シェリダンが蘇ったことやルルティスも彼の中で話を聞いていたので断片的な他人事のような記憶しかないのだが、とにかく騒動は終わったと考えていいようだ。
細かい部分を省いたルルティスの説明はところどころ不自然だったが、ハーラルトはそれに気づいた様子ではない。
否、それどころではない、と言ったところか。
ルルティス相手なので自然体ではあるのだが、彼はどこか緊張している。ただ気を張っているのではなく、どこか悲壮な覚悟を秘めた目でいる。それが彼を一見落ち着いているように見せていた。
今更ながらそのことに気づき、ルルティスは改めてこの状況のおかしさを問いかけた。
「……ヒンツ? どうして、あなたはこんなところまで来たのです? あなたが、私に何の用があると言うのです?」
「お前に用があるのは僕じゃない」
昏い昏い森の中、鬱蒼と茂る木々の上空を不気味な声で鳴く鳥が飛んで行った。
「閣下が皇帝陛下に用がある。だからお前のことを――」
会話の途中で手が動いた。ハーラルトは突然ルルティスを抱きすくめるようにすると、その口元に何かをあてがった。
「んんっ?!」
あらかじめ用意してあったのだろう。薬品を染み込ませた布を押し当てられ、ルルティスの体から力が抜けていく。当然抵抗しようとしたのだが、ハーラルトに絶妙な関節を抑えられていて動けない。
さすがに同じ学者仲間ということか、彼にはルルティスの性格がお見通しだったようだ。話の途中で腰を折られると続きが気になって一瞬判断が遅れることも、あからさまな暴力には抵抗しやすいが変則的な攻撃には弱いことも。
「陛下――……」
思わず零れ落ちた一言を耳に留め、ハーラルトが眉根を寄せた。
彼は意識を失ったルルティスの体を両腕で抱きかかえる。
瞑られた瞳に何かを言いかけたが、結局元通りきつく口元を引き結ぶと、ハーラルトの姿はまるで陽炎のように揺らいで消えた。