薔薇の皇帝 21

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 それは、彼らがエヴェルシードの騒乱に一区切りをつけ、王子二人を除いた皇帝領の住人達はそろそろ薔薇大陸に戻ろうかという頃だった。
 ロゼウスが“ルルティス”と何か喧嘩をしたらしい。ということは彼らにも伝わっていた。チェスアトール人の少年学者はつい先日まで前世の人格であるシェリダン=エヴェルシードとして振る舞っていたが、どうやらようやく本来の自分を取り戻したらしい。その矢先に起きたという喧嘩に、関係者一同は溜息をついた。
「何をやってるんだか……」
「本当にね」
 エチエンヌやローラは詳細を聞いたわけではないが、部屋の隅で一人消沈しているロゼウスの姿を見れば何があったのか推測ぐらいはできる。
 もとより、それは危惧されていたことだった。ロゼウスたちが四千年をかけて探していたシェリダン=エヴェルシードの生まれ変わりが、ルルティス=ランシェットだとわかったその日から。
 比べるというにもあまりにロゼウスの中で大きすぎる存在であるシェリダン。その存在に、彼の生まれ変わりであるルルティス自身は一体どう感じるのか。
 誰もがその疑問に目を背けて、この三日、シェリダンの存在に縋っていた。叶うはずのない夢が叶った歓びは、それがすぐに失われることを前提としていた。
「私たちも、日常に心を戻さなければいけないわね」
 しかしローラのその言葉は、思いがけない形で裏切られる。
 フェルザードの要請で一室に赴いたロゼウスたちが聞いたのは、耳を疑うような宣言だったのだ。
「ハーラルト=ヒンツ」
「お久しぶりです。皇帝陛下」
 学者会議でも顔を合わせた、ルルティスの同僚の学者の一人、ハーラルト=ヒンツ。彼はカルマインのメイフェール侯爵ジュスティーヌをパトロンとし、主に薬草学の分野で様々な功績を上げている。学生時代の成績はルルティスの方が上位だったというが、人々の生活に実用的という面では歴史学者のルルティスより優れた学者として評価する者も多い。
 しかしそんな彼が、何故いきなりカルマインでも皇帝領でもなく、エヴェルシードに訪れたのか。さてはジュスティーヌに何かあったのかとロゼウスたちが瞳を揺らした次の瞬間、ハーラルトは言った。
「ルルティス=ランシェットの身柄は我らメイフェール一門が預かっています」
「……は?」
 まるで陳腐な物語の中の悪役のような台詞だ。
『お前の息子は預かった。身代金として――を用意しろ』
「これは我が主、メイフェール侯爵の意向です。彼を返して欲しければ、皇帝陛下はカルマインの侯爵領までおいでください」
「待て。おい、何の冗談だ、それは」
 世界の支配者たるに相応しいと崇め奉られるロゼウスの頭脳も、さすがにこの状況では働かなかった。誰が、誰を、どうしたって? 頭ではなく感情が理解を拒む。
 ジュスティーヌがロゼウスに言うことを聞かせるために、ルルティスを誘拐した。
 言葉にすればただそれだけ。だが意味がわからない。
 何故――何故、彼女がそんなことをする必要がある?
「ジュスティーヌは、どうして」
「おわかりになりませんか」
 掠れた声で呆然と呟くロゼウスに、ハーラルトはきつい眼差しをむける。
「本当に、おわかりにならないのですか。あの方はいつも、あなたのことを思っていたというのに」
 責めるような口調に、ロゼウスは怖気づく。いずれ来るはずの日だとはわかっていたが、まさかこんな形でハーラルトや――ルルティスを巻き込むことになるとは思っていなかったのだ。
 それでも、もう逃げられはしない。これまで見て見ぬ振りをし続けてきた、彼女の想いから。
「ああ、そうそう。一つだけ」
 思い出したようにハーラルトは告げる。
「ルルティス=ランシェットには、僕が調合した毒を飲ませてあります。解毒剤は閣下が用意した塔の頂上にあります。制限時間は丸一日」
「ヒンツ!!」
「一日を過ぎれば、ランシェットはそこで死にます」
 冴え凍るような無表情で、ハーラルトは言う。
「お早いお越しをお待ちしております」

 ◆◆◆◆◆

 カルマインへの移動には魔術を使う。それでも一刻を争うルルティス救出のため慌ただしく出発の用意を整えるロゼウスたちを、フェルザードとゼファードが訪ねて来た。
「そうですか。そんなことが……」
 彼はくしゃりと顔を歪め、後悔の滲む表情で告げる。
「レミユから連絡が来ていたので珍しいなとは思ったのです。学者の知人であるハーラルト=ヒンツからエヴェルシード王国内の転移座標について細かく聞かれたと。彼女もまさがヒンツがこのようなことを企んでいたとは思わずに教えてしまったようですが」
「気にするな、フェザー。お前もガッティも悪くはないよ。そもそもルルティスだっていつもの状態ならヒンツに容易く後れを取るようなことはなかっただろう。ルルティスをそれだけ動揺させたのは、俺だから」
 エヴェルシードの学者、ガッティ=レミユと言う名の少女もまた、今年の学者会議でルルティスやハーラルトと共に顔を合わせた人物だ。フェルザードのもとには彼女から連絡が来て、それで王子たちにも事態が知れたのだという。
「どうするんだよ、ロゼウス。こっちでも医師や薬学者を集めておくか?」
「いや、ヒンツが独自に調合した毒薬、それも制限時間が丸一日しかないような薬を、ルルティスを助け出してから研究してるようじゃ手遅れになる可能性が高い。ここはジュスティーヌの要求に乗ろう」
 メイフェール侯爵ことジュスティーヌがロゼウスに要求したのは、カルマインのメイフェール侯爵領にある塔を訪れること。
 そこに一体何が仕掛けられているかはわからない。
「皇帝としての力は使わないのですか?」
 他の者たちはさすがに溜まっている仕事が限界だと、ハデスを残して全員が皇帝領に戻ることになった。フェルザードとゼファードもまだエヴェルシードでやることがある。孤軍奮闘でルルティスを取り戻すことになったロゼウスに、フェルザードは問いかける。
「ランシェットの命がかかっているのですよ。それでも、わざわざ律儀にメイフェール侯爵のやり方に乗ってやるのですか」
「フェルザード」
「もしも攫われたのがシェリダン=エヴェルシードだったとしても……いえ」
 もしも攫われたのがシェリダンであっても、悠長に塔を昇るなどしたのか? なりふり構わず手勢を全員引き連れて、一気に塔の最上階に突入したのではないか。
 フェルザードはそう聞きたいのだろう。ロゼウスがその気になれば、全ての物理現象を無視して超常的に望みを叶える手段はある。それが皇帝というものだ。
 その力をルルティスのために使ってやることはしないのか。
 つい数時間前までルルティス=ランシェットはルルティス=ランシェットではなく、シェリダン=エヴェルシードだった。それを知ってしまった今では、知らなかった頃のようには戻れない。
 ロゼウスにとって、誰よりも大切なのはシェリダン=エヴェルシード。それは永遠に変わらない。
 けれど。
「そもそもシェリダンだったら、ヒンツに攫われるわけがないだろう。あいつを殺した俺が言うのもなんだけど、シェリダンはしぶといよ? 殺されて素直に死ぬような人間じゃない」
「私が言いたいのは、そういうことではありません」
 問いの主旨を理解しながら意図的に話をすり替えるロゼウスに、フェルザードが渋い顔になる。だがロゼウスは、続けてこう告げた。
「もちろんわかってるよ、フェルザード。――だから俺は、ルルティスを助けに行くんだ」
 ルルティスを助けに行く。シェリダンではなく、ルルティスを。
 あれがシェリダンであればハーラルトなどに攫われるわけがない。だから彼に捕まってしまうようなのは間違いなくルルティスだ。わかっている。だから、助けに行く。
「答は、出ましたか?」
 フェルザードの静かな問いに、今度はロゼウスの方が表情を歪める。
 そして彼はかつての愛人に明確な答を告げられないままに、ハデスを呼び出してカルマインに転移した。