薔薇の皇帝 21

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 その頃ルルティスは、カルマインのメイフェール侯爵領に建設された高い塔の頂上の一室でジュスティーヌと向かい合いお茶を飲んでいた。
 小さな窓は凝った模様のステンドグラスになっていて、様々な色の光が床に落ちる。そこかしこには可愛いとも不細工ともつかぬぬいぐるみが並べられ、壁には子どもが適当に色を落としたような奇怪な絵画が何枚も飾られていた。
 この塔はさながら玩具箱のようだ。
「あのー」
「なんです?」
 供された甘い香りのお茶に一口二口と礼儀程度に口をつけたところで、ルルティスは意を決して尋ねる。
「なんです、というか、何もかもについてお聞きしたいんですが」
 この場所は見た目こそ悪い魔女の棲家のようにおどろおどろしい塔だが、内部は綺麗なものだった。下層は各階ごとに意匠を凝らした装飾や仕掛けが用意してあって、こんな場面でもなければじっくり探検してみたいところである。遺跡を歩き回るのが生業の学者の血が騒いだ。
「この状況は一体どういうことなんです?」
 こんな場面というのは、ルルティスがこの場所にほとんど無理矢理連れてこられたことだった。いくら相手が知人とはいえ、いきなり薬を嗅がされて意識を失ったところを他国まで連れてこられたなら、非常事態と言って差し支えはないだろう。
「わたくしの悪巧みに、ぜひランシェット先生も協力してもらいたいと思いまして」
「はぁ……?」
 やっぱり状況がよくわからない。ルルティスは小首を傾げ、もうどうしようもないのでお茶を一口飲んだ。無理矢理眠らせられる直前に思い切り泣いたせいで喉が渇いていた。
「はー」
 思わず溜息が出てしまう。
「あらあら? 悩み事ですか?」
「ええ、まぁ、ちょっと……それよりも、いい加減悪巧みの内容を教えていただけませんか?」
 久々に再会したハーラルトに突然意識を失わされいつの間にかカルマインまで拉致されたことには驚いたが、その先に待っていた人物がジュスティーヌだと知ってルルティスは早々に気が抜けた。ロゼウスと気まずいことになっている今、誰を目の前にしても彼と向かい合うほど緊張するとも思えない。
 ましてや、相手はジュスティーヌだ。得体のしれないところのある他の皇帝領の面々と違い、彼女がルルティスに何かする理由はない。恋敵なら普通は憎まれてもおかしくはないが、ルルティスとジュスティーヌの場合、想う相手が相手だ。
 薬物で意識を奪われるという手段すらさらりと目を瞑り、ルルティスはジュスティーヌの真意をのんびりと問いただす。
 そう、この期に及んでも、ルルティスはジュスティーヌが大それたことを企んでいるとは夢にも思っていなかった。だから。
「どうして僕を無理矢理ここに連れて来たりしたんですか?」
「皇帝陛下に、ルルティス先生を攫ったから返して欲しければ私のものになりなさい、と要求するためです」
 噴いた。紅茶が気管に入り、ルルティスは悶絶する。
「ちょ、待っ、何がどうなって……!!」
 横からハーラルトに無言で差し出された手巾で口元を拭いながらも、ルルティスはいまだ優雅にカップを傾けるジュスティーヌに視線を向けた。
 駄目だ。やはり世の中には流せる発言とそうではない発言がある。ロゼウスからの衝撃的な言葉に持って行かれた意識の全てを揺り戻すようなジュスティーヌの言葉に、たまらず彼女を問い詰める。
「一体何を考えているんですか! 貴女は!!」
 ジュスティーヌはルルティスと同じく、薔薇の皇帝ロゼウスの愛人志願者だ。彼女がどれだけ熱烈に皇帝のことを想っているかは我が身と引き比べて知っているつもりだが、この展開はさすがに予想外だった。
「皇帝陛下を脅迫するおつもりですか? 何故そんなことを……――メイフェール侯爵?」
 ルルティスの言葉の途中で、ジュスティーヌが咳き込む。少し言葉を待とうとしたルルティスだが、一瞬ごとに顔色の悪くなるジュスティーヌの様子にそうも言ってられなくなった。
 ジュスティーヌの手から紅茶のカップが落ちる。白いレースのクロスに鮮やかな染みが広がるテーブルの上に、彼女は突っ伏す。
 ルルティスは椅子を蹴倒して立ち上がり、向かいの席に座るジュスティーヌの体を支えた。
「侯爵!」
「お嬢様!」
 部屋の隅で従者として控えていたハーラルトが慌てて駆けつける。化粧の上からでも蒼白なのがわかるジュスティーヌの背をさするが、彼女の様子はなかなか良くならない。ごぼり、と嫌な音を立てて、紅い血の塊がその唇から零れた。
「メイフェール侯爵!」
 ハーラルトに任されて、ルルティスは崩れ落ちるジュスティーヌの体を自分にもたれさせるようにして支えた。公爵専属の薬師でもあるハーラルトはいくつかの薬を取り出すと、それをジュスティーヌに呑ませる。なかなか呑み込めずに、唇から溢れた薬湯が紅を溶かすようにしてその端を伝った。
 完全に横にはなっていなかったが、吐きだした血と零れた薬で彼女の首元から胸元にかけてがどす黒く染まる。
 これまでにもルルティスは、ジュスティーヌが体調を崩して吐血や喀血する場面を何度も見てきた。けれどここまで激しく重い容態は初めてだ。
 娘盛りの年頃だというのに、枯れ木のように痩せ細った腕。血色の悪い青白い肌。いつもと同じような光景なのに、いつもとは違う。
「メイフェール侯爵、貴女は……」
 容態が少し落ち着いた頃を見計らって、ルルティスはついにその言葉を口にしようとした。
「ええ、そうよ」
 今日もいつもと変わらない道化のような化粧を施した女公爵は、その化粧の上からでもわかるほど青ざめた唇に笑みを浮かべる。
 ルルティスはロゼウスの味方というわけではない。喧嘩別れのように彼のもとを飛び出してきた今の状態では尚更だ。それでも彼をこれまで愛し続けていたジュスティーヌが、突然このような暴挙を起こした訳は知りたいと思っていた。
 でも今は、その答を聞くのが怖い。聞いてしまえば、もう知らなかった頃には戻れないからだ。
 そう、何も知らず、何も思い悩まず、自分の気持ちだけにただ正直でいられたあの頃には戻れない。
 それでも進み続ける時計の針はルルティスを、そしてジュスティーヌを待ってはくれない。時は永遠でも、その中で生きる人間には限りがある。
「わたくしは、もうすぐ死ぬの」
 いつか来るはずの日。神に与えられた命を返す約束の日だと彼女は言う。
「でも、だから、その前に一度だけでも想いを遂げたいのよ」
 病みつかれた瞳が、それだけではない翳りを帯びてぎらぎらと輝く。
「協力してちょうだいね。ルルティス先生」
 あの時、薔薇の咲く墓地で皇帝に食って掛かった自分もこのような瞳をしていたのだろうか。
 ルルティスはその願いに、返せるような言葉を持っていなかった。