薔薇の皇帝 21

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 しばらくハーラルトと別室で会話していたジュスティーヌが戻ってきた。所在無げにカップを傾けていたルルティスは、かける言葉もなくその姿を見つめる。
 そんなルルティスの様子を目にして、ジュスティーヌは化粧の上からでもわかる青白い顔で楽しそうににっこりと笑った。
「皇帝陛下がいらっしゃったわ」
「!」
 ルルティスがハッとして顔をあげる。ジュスティーヌはすぐには先を続けず、もったいぶった様子で先程と同じ席に着いた。
「あなたを攫ったってハーラルトに伝言させたのよ。そうしたらすぐにここまで来たって」
「皇帝陛下、御一人ですか。他にも誰かが……」
「いいえ。陛下御一人ですわ。事件にする気はないみたいね。わたくしの要求を呑んだみたい」
 ジュスティーヌの要求とは、ロゼウスが一人でやってきてこの塔を登ってくることだ。各階には彼女の仕掛けた無数の罠があると、ルルティスもすでに聞いた。
 けれど、まだ信じられない。ルルティスの身の安全のためにわざわざロゼウスがこんなところに来てくれるなんて。
「そんなの……嘘ですよ。あなたが今更私に酷いことができるはずがないことくらい。陛下もわかっているのですから。無理して取り返そうとするはずもない。どうせ何日かすれば気が済むだろうと思って、私のことなんて放置するはずです。だいたい、私だってこれでも男なんですよ? か弱い女性であるあなたを一捻りして自力で戻ることなんて簡単なはずです。陛下がそれに気付かないとは思いませんね」
 ロゼウスにとって所詮、ルルティスはシェリダンの入れ物に過ぎない。それも、ルルティスの人格こそがシェリダンの復活を阻害する邪魔者でしかないとわかっている。
 そんな自分を、彼がわざわざ助けに来るはずがない。ルルティスはそう考えていた。そしてそもそも、ルルティスとジュスティーヌでは命の危機になるほど深刻な状況に陥るはずがないとも。
 けれどジュスティーヌは意味深な笑みを浮かべ、扇で口元を隠しながら囁いた。
「そんなことはありませんわ。ルルティス先生。あなたはご自分が、どのようにしてこの塔に連れてこられたか忘れてしまったの?」
「どのようにって……」
「あなたはハーラルトに薬を使われて、抵抗する間もなく無理矢理ここまで運ばれましたのよ。その時にわたくしたちがあなたを殺すこともできたのを忘れないで」
 空恐ろしいことをさらりと告げつつ、ジュスティーヌは目を細める。
「陛下が必死になってあなたを助けに来たのは、それが理由よ。わたくしたちは、あなたに毒を盛ったと伝えたのよ」
「毒?!」
「もちろん今は何もしていませんわよ。ご自分でおわかりでしょう。でも陛下はあなた自身でもなければ、あなたの無事な姿を見ているわけでもない。おわかり?」
 ジュスティーヌの言葉に再びルルティスは考え込んだ。
 毒。確かに、ルルティスは傷心で油断していたとはいえ、知己であるはずのハーラルトにはめられて薬を嗅がされ、あっさりここまで連れてこられてしまった。あの時に使われたものがただの睡眠薬ではなく毒だったとしたら、もう自分はここにはいなかったのかもしれない。そう考えると、確かに背筋がゾッとする。
 自分が自分で思っているほど強くなく、隙だらけのうっかり者だということはそれで自覚した。
 けれど、ジュスティーヌたちは、彼女たちが思っているほどルルティス=ランシェットが薔薇の皇帝にとって重要人物ではないことを知らないのだ。
「それでも、ありえませんよ」
 昏い表情で告げたルルティスに、ジュスティーヌが怪訝な顔をする。
「あの人が誰かの脅迫に乗るような形で私を助けに来るほど――私は、あの人に愛されてはいない」
 二人きりの空間がしん、と静まり返る。
「……は?」
 次の瞬間、ジュスティーヌがかつてなく不機嫌な声で聞き返した。
「今、なんて言いましたの? ランシェット先生」
 にっこりと花のように笑う。ルルティスはその笑顔に、これまでで最大の危機感を覚えた。女性のこういった笑顔ほど恐ろしいものはない。
「あ、あのー? メイフェール侯爵?」
「あなたが皇帝陛下に愛されていないですって?」
 ジュスティーヌの藍色の瞳が氷のように冷ややかになる。ルルティスは反射的にびくっと身を引いたが、その距離をジュスティーヌが詰める方が早い。病身とも思えない素早さで、彼女はルルティスの眼前に白い指を突きつけていた。
「何を馬鹿なことを仰ってるのよ。陛下があなたを愛していないなんて、そんなことあるわけないじゃない」
「で、でも」
 この状況で一時的な表面上の冷静さは取り戻したものの、やはりまだ不安定さは抜けきっていないルルティスは勢いのままに、エヴェルシードでの争乱に関わらなかったジュスティーヌに全てをぶちまけてしまった。
 ルルティス自身がシェリダンの生まれ変わりであることも、ロゼウスに言われたことも、何もかも。
「ああ、そう。わたくしたちもここで罠の準備をしながらフェルザード殿下が次期皇帝だとかいうふざけた発表は聞きましたけれど、そんなことがあったのですか」
 そして彼女は、ハーラルトにまで不覚を取り、今現在まで至ったルルティスの悩みを一刀両断した。
「馬鹿ですね」
「え?」
「陛下があなたを大切に思っていないなんて、そんなことあるわけないじゃない」
 先程と似た、でも少し違う言葉。口調は同じなのに、そこに込められた感情はとても深い。
「わたくしがいつもどんな気持ちで、皇帝領から事件現場に向かう陛下とあなた方を見送っていたと思いますの? あなたがどれほど陛下に愛され、必要とされているか。――そのぐらいわかります」
「でも」
「では、賭けをしましょう」
「賭け?」
 思いがけないジュスティーヌの言葉に、ルルティスはきょとんとする。朱金がかった琥珀の瞳が美しいその顔をジュスティーヌが射殺すような目で睨むのも構わず、彼女の言葉の続きを待った。
「皇帝陛下はいずれここにやってくるわ。あなたを救いに」
「事態を収めたいだけかもしれない。あなたが陛下を指定したから」
 それにルルティスの肉体は、シェリダンの魂を収めている器でもあるのだ。ロゼウスが救いたいのはルルティス自身ではなく、その中にいるはずのシェリダンかも知れない。
「あの人が救いたいのは……私じゃない。決して、私ではありえない」
 俯いて吐き捨てるルルティスの沈痛な思考を、ジュスティーヌは鼻で笑う。
「ええ。そうかも知れませんわ。だから賭けをしましょう。皇帝陛下があなたを心配してここへやってくるようでしたら、私の勝ち。あなたのことに見向きもせず皇帝としての責務だけでやってくるようでしたら、あなたの勝ち。あら大変。賭けなのにわたくしたち、自分が勝つ方が不愉快な結果だわ」
 何がおかしいのか、ジュスティーヌはくすくすと笑う。一見捨て鉢なようにも見えるその瞳には、死を身近なものとして目前にした者の、ルルティスの知らない感情の光が宿っている。
「それでもあなたは生きて、今ここにいて、そしてこれからも未来があるのだもの。くだらない意地なんかで限りある人生を浪費したりしないで。もしも私が勝ったら、あなたは陛下が自棄になって口を滑らせた言葉を赦して、もう自分の気持ちに素直になってしまいなさい」
 素直に。自分の気持ちに。
 ――本当は気付いている。
 シェリダン=エヴェルシードのために殺すと言われた時、何故あれほど自分が傷ついたのか。その痛みが、彼への愛情の深さそのものだからだ。
「……もしも僕が勝ったら、あなたはどうするんです?」
「どうもしないわ。その時は振られ仲間としてあなたを憐れんで差し上げるだけよ」
「振られ仲間……」
 何とも落ち込むその響きに、ルルティスはがっくりと肩を落とした。そんな彼の様子を見ながら、ジュスティーヌがくすりと微かに笑う。
「なんて、ね。別に今更あなたと賭けをしなくても、わたくしはもともと自分自身の命で賭けをしているようなもの。ここで賭けに負けたら、一番惨めなのはわたくしだわ。皇帝陛下をおびき寄せるためにあなたを誘拐までしたっていうのに」
「メイフェール侯爵」
「皇帝陛下は必ず来るわ。ルルティス=ランシェット。他でもないあなたを助けに」
 そのために彼はここまで登ってくる。その時、自分は――。
「そしてわたくしはそれを利用して、あの人に最期の意趣返しをするの」
 思いがけず晴れやかな声に、ルルティスは今日初めて出会ったかのようにジュスティーヌを見上げた。

 病みやつれた青白い顔。血管の浮き出た細い腕。罅割れた唇。
 けれど彼女は、その生き様は、こんなにも鮮やかだ。
 紅い髪に紅いドレス。真紅の血を流し、玩具箱の頂点で微笑む赤の女王。

 彼女より美しい女性ならこの世界にいくらでもいるだろう。けれどこんなにも鮮やかな深紅を持つ人が、他にいるだろうか。
 ルルティスはその様子を、瞼の裏に焼き付けるかのように凝視した。
 ジュスティーヌが笑う。この先に起こる全ての出来事を理解しているかのように透き通った眼差しで。
「賭けをしたのよ。自分自身と」
 そして勝負の終わりは純白と真紅をまとう少年の姿を取り、もうすぐここにやってくるのだ。