薔薇の皇帝 21

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 それは確か珍しくも皇帝領で開催された夜会で、世界各地からそれぞれの国の代表者と主だった貴族たちが訪れていた。
 薔薇の皇帝と呼ばれる第三十三代皇帝ロゼウスの在位は長い。彼一人でそれまでの全ての皇帝の在位年数を凌ぐほどだ。しかしだからこそ、たまたま彼と同時代に生まれた不幸にして幸運な一握りの人間たち以外は、ロゼウスにまつわる式典の一切を見学することはできなかった。即位式典は即位時の一度限りなのだから当然だ。
 そして皇帝はこの世界最大の権力者であるが故に、容易に式典を催さない。王族の毎年の記念式典ぐらいであれば、その国と周辺諸国を含めて経済の活性化を図ったり、外交に勤しんだりという丁度良い交流の場となるだろうが、皇帝が主催する式典となれば規模が大きすぎて逆に国家の資産を吸い上げすぎてしまう。
 ただし、皇帝がまったく王侯貴族たちと関わりをもたないのもそれはそれで各国の支配階級の反感を買うため、世界全土の貴族たちと最低限の交流を持つために三十年に一度くらいは皇帝領に世界各国の王侯貴族を招いて夜会を行うのだ。
 カルマイン貴族メイフェール侯爵の令嬢であったジュスティーヌが皇帝ロゼウスと面識を持ったのは、その夜会でのことだった。
 普段は病弱で自らの領地に出ることさえ稀なジュスティーヌであったが、この時は父侯爵が一生の思い出になるだろうということで、多少無理をして皇帝の夜会に連れてきてくれたのだ。
 もともとメイフェール侯爵家はカルマインの名門貴族であるから、夜会への参加資格はある。それにその頃――つまり十年ほど前には、エヴェルシードの王子フェルザード=エヴェルシードが皇帝の愛人として収まったという出来事があり、自らの娘を皇帝の愛妾にしようと送り込んでくる貴族たちの攻勢が少なかった。フェルザードの苛烈な性格はすでに諸外国に知れ渡っており、生半な娘では彼に潰されるのが関の山だと貴族たちにもわかっていたのである。
 ただでさえロゼウスには狂王妃と畏れられるローラがいる。その彼女も数年前に皇帝の娘を産んだばかりとあり、娘たちに皇帝への愁派を送らせることに腐心する貴族の数が大分減っていた。
 それでも何よりロゼウス自身の魅力というべきか、皇帝の目に留まることを期待する貴族令嬢がまったくいなくなりはしない中、淑女というには少々年齢の足りない少女であったジュスティーヌは父親に連れられて夜会へを赴いた。

 ◆◆◆◆◆

 広い城内で迷子になったところを、抱きかかえて会場に連れていってもらったのだ。それが彼女の恋のはじまり。
 メイフェール侯爵家はカルマインの名門貴族だ。国王の覚えもめでたく、それ故に他の貴族からのやっかみを受ける立場にいる。
 侯爵の弱味は彼の病弱な一人娘ジュスティーヌ。身分のない女性と結婚した侯爵は妻も娘も愛していたが、彼の娘は生まれながらに健康に恵まれなかった。ジュスティーヌは二十歳になる前に死ぬだろうと医師に言われていた。
 侯爵の尽力によってなんとか生き永らえてはいたが、体の弱さはどうにもならない。後年道化のような派手派手しく奇抜な化粧で有名になる未来の女侯爵も、その頃はまだ人並の化粧を侍女たちの手によって施された、一般的な貴族令嬢でしかなかった。
 ジュスティーヌは顔立ち自体が平凡で、病によっていかにも病人といった体の青白い肌をしている。それが彼女を実際の顔立ち以上に不器量に見せていた。
 皇帝主催の夜会に集うのは彼女のような子どもよりも、着飾った年頃の紳士淑女が多い。さまざまな国の王女に貴族令嬢。その誰もが華やかなドレスに豊満な肉体を包み、薔薇色の頬で優雅に微笑む。自分よりも遥かに美しく年上の女性たちの姿に、病弱で容色も優れぬジュスティーヌは引け目を感じた。
 夜会に連れてきてもらったことは嬉しいが、その夜会で彼女には居場所がなかった。不器量さを遠巻きに噂され、耐え切れずに飛び出した会場の外で迷子になる。
 あえて人気のない方向に突き進んでしまったせいか、帰り道がまったくわからない。当時の彼女にはあずかり知らぬことだったが、皇帝領はその支配者の力の強大さ故に警備もゆるく、誰かに話しかけようにも護衛の兵士すら姿を見ない。
 そこにたまたま通りがかったのが、皇帝ロゼウスだ。
 彼が皇帝とは知らぬジュスティーヌはその腕に軽く抱え上げられることにもなんら抵抗なく、少し驚きはしたものの、むしろそれを楽しんで一緒に会場に向かった。
 様子が変わったのは、会場内に入ってからだ。周囲の人々が驚いて一斉に二人の方を見る。その頃にはジュスティーヌもロゼウスがどうやらやだの王族貴族ではない存在だと気づいたのだが、彼を見つめる周囲の視線が怖くて逆にその手を離すことができなかった。氷のように冷たい手だけが、彼女の途切れそうな意識を支える。
 父であるメイフェール侯爵がやってきたところで、彼女はようやくほっとした。けれど極度の緊張に晒されたことがよくなかったのか、ジュスティーヌはその時発作を起こした。
 突然身を折って咳き込むジュスティーヌを、ロゼウスが慌てて落とさないように床に降ろす。その白い衣装に、彼女の吐いた血が降りかかった。
 自分がとんでもなく不敬なことをしているという自覚は、ジュスティーヌにもあった。だが発作はなかなか止まらない。苦しみがやがて遠ざかる頃、彼女は自分の背を誰かが撫でていることに気づいた。
「大丈夫か?」
 静かな声は労わりに満ち、周囲の好奇と嫌悪の視線を和らげてくれた。その頃になってようやくこの事態を収める力が自分にないことに気づき青ざめるジュスティーヌに、ロゼウスは手を差し出しながら言った。
「――赤が似合うね、お姫様」

 ◆◆◆◆◆

「――の好きな色は?」
「赤」
 それが最後の質問、最後の答。
 塔に仕掛けられた罠とやらは、どれもロゼウスの実力からすれば他愛のないものだった。常人でも剣技や魔術に優れた人間なら楽々登って来れるだろう。
 しかし、その階の出口で番人とやらが出題する質問とやらは別だった。
 それは答を知っている者にはすぐにわかる。逆に言えばそれを知ってさえいれば当然のように答えられる問いばかりだったのだ。そして知らない者には何がなんだか理解できないだろう。けれどロゼウスがそれを知らないはずはないのだ。それをジュスティーヌは、彼が覚えていないとでも思っているのだろうか。
 この塔にはまるで過ぎ去った日々の記憶をめくり返すかのように、彼女の想い出があちこちに鏤められていた。
 一歩足を踏み入れた瞬間既視感に囚われたように、塔の中を埋め尽くしていたものは正しくジュスティーヌの持ち物だったのだ。どこかで見たような人形や小物たち。彼が送った少しのプレゼント。
 そして各階の番人が出題する問題の答は、彼女自身にまつわるもの。
 好きな色、好きな花、初めて出会った場所、いつも飲んでいる薬――。
 それらはすべて、ジュスティーヌとロゼウスの想い出の欠片だ。一つ問題を解き、階を超えるたびにロゼウスの胸が苦しくなる。どうして彼女がこんなことをしたのか、なんとなくわかりはじめてきた。
 そしてその答が出る時がこの悲しくも愛おしい茶番劇の終わりとなるだろう。
 手を抜くことはしない。足踏みする時間はない。例え彼女が同情すべき事情の持ち主だとしても、ジュスティーヌはその賭けにルルティスの命を使ったのだ。それは許されることではない。
 自分を憎んだまま罠に落ちて、今も苦しみながら憎悪を募らせているだろうルルティスのことを想うと、先程とは別の意味で胸が張り裂けそうになる。
(ジュスティーヌ……ルルティス……)
 何としてでも最上階に辿り着かねばならない。そこに彼の求める姿があるはずだから。
 ロゼウスはそうして階段を昇る。
 終わりへと続くきざはしを。