薔薇の皇帝 21

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「メイフェール侯爵?!」
 これまでも何度か発作を起こしていたジュスティーヌだが、いよいよ危ないらしい。倒れ込んだ彼女を支えながら、ルルティスは隣室に控えているハーラルトを呼ぶ。
「ヒンツ! おい、ヒンツ、侯爵が――!!」
「すぐに行く!」
 いくつかの薬瓶を抱えたハーラルトが飛び出してきた。
「お嬢様、しっかり。お嬢様!!」
 ジュスティーヌの腕をとって脈を診たり、彼女が苦しくないよう体勢を調節したりする。彼の顔もかなり青ざめていて、その主人の終わりが近いことを嫌でも予測させた。
 こうなってしまってはルルティスにできることもない。それでも何か役に立てることはないかと、あたりをぐるりと見回した時だった。
「ルルティス!」
 階段を飛び越えてきたロゼウスの腕に抱きしめられた。

 ◆◆◆◆◆

「無事で良かった」
 その顔を見た途端に何も考えられず、ロゼウスは亜麻色の髪の少年に抱きついていた。室内の混沌とした状況も一緒に目に入ってはいたが、彼にとって一番に優先すべきものはそれだったのだ。
「陛、下?」
 ルルティスが震える声で返す。あの別れというよりも逃走の後、いきなりこんな状態になったのだから無理もない。
 自分は馬鹿だと、ロゼウスは改めて感じた。シェリダンのためにルルティスを殺せばなんて口にしたというのに、いざその無事な様子を見てしまったら、他には何も考えられない。
 それほどまでにこの少年が大切になっている自分に気づいてなかった。俺は馬鹿だ。小さく呟いた声に、ルルティスがびくりと身を震わせる。
「あれ? でも……毒は?」
「そんなもの、飲まされていません」
 ふるふると首を横に振るルルティスの背の向こうに、土気色の肌をしたジュスティーヌがハーラルトに支えられて立ち上がる。
「当たり前でしょう。先生はお友達ですから」
 ルルティスは毒など飲まされていない。
 彼の命を賭けに使う気など初めからない。
 誰も傷つけてはいない。
 最初から死にそうだった、彼女自身以外は。
 ロゼウスはようやく全てを理解した。最も死に近い女が微笑む。
「ようやく来てくださいましたね。私の皇帝陛下」

 ◆◆◆◆◆

 ルルティスとハーラルトはジュスティーヌの処置を終えてすぐに隣室へと移動した。
 彼らにもうできることはない。ロゼウスだけが彼女のすぐ傍に残り、終わりを待つ。
「……どうしてこんなことを?」
 望みがあるのなら、そう言えば良かったのに。
 呟く皇帝に、ジュスティーヌは苦しい息の下から告げる。
「それでは、貴方が誰にでも見せるありきたりな優しさしかいただけないでしょう。わたくしは、一度くらいわたくしのことで貴方に必死になっていただきたかったのですわ」
 一度だけ、一度だけでいいから困らせて見たかった。そうすればロゼウスが自分のことを本当はどう思っているのかわかると思ったのだ。
 彼にとって大切で、皇帝領で唯一隙を見せることもあるルルティスの命を盾に取れば、ロゼウスは逃げることはできない。
 人の命で身勝手な賭けをした彼女にどういう態度をとるかで、ロゼウスの愛情を量ろうとした。
 そう告げるジュスティーヌに、ロゼウスは複雑な顔をした。
「ジュスティーヌ、俺は……」
 まんまと彼女にはめられたのだ。そう気づいても、怒る気にはなれない。何より、それだけの時間がもうジュスティーヌにはない。
「陛下、わたくしは他の方々と違い、結局貴方の愛人にも恋人にも、なることはできませんでした」
 ロゼウスはジュスティーヌに対しいつも優しかった。その理由のいくらかは彼女の病弱さにある。ただでさえ人間より頑丈な身体を持つヴァンピルであるロゼウスには、生まれつき病弱な人間の女性であるジュスティーヌは指先で触れただけで吹き飛びそうな儚い存在に思えるのだろう。
 けれどだからこそ、ジュスティーヌにはわからない。彼の自分を見る眼差しは、ただの同情なのかそれ以外の感情もちゃんとあるのかどうか。所謂女の武器で彼を繋ぎとめることは、ジュスティーヌにはできない。だからこそ余計不安になる。
 途切れ途切れの短い言葉でそう伝えたジュスティーヌに、ロゼウスは驚いたように目を瞠る。
「俺は……本当の愛情を知らない。家族もそうでない者も、体で繋ぎとめるような愛情しか知らなかった。だからお前に……自分の気持ちを伝え損ねてしまったんだろう」
 それは罪など知らぬとでも言いたげな純白を身に纏う皇帝には似合わない懺悔だ。しかしそれこそが、ロゼウスという男の真実でもある。
 四千年間の付き合いがあるリチャードやローラたちは知っている。ロゼウスの事情。その名も歴史に埋もれてしまった兄との複雑な関係と、次に愛した永遠の男との血塗られた、愛情だけでは語れない呪われた関係。
 愛を知らない。それを伝える術を知らない。
 それでも――愛している。
「それを伝えるためにでも、ただでさえ先の短いお前を無理に抱くようなことをするのは嫌だったんだよ。お前がそう望んだとしても」
 どんどん冷たくなっていくジュスティーヌの体を抱きしめる。ただでさえ体温の低い吸血鬼の体では、彼女を温めてやることもできない。
「知っていると思うけれど、昔俺は、愛していた男を自分で殺した。だからもう二度と、自分の手で愛する者を殺すようなことはしたくなかった。一分一秒でも長く共にいたい。お前を抱かなかったのは、だからだよ」
 ジュスティーヌが吐息した。青ざめた顔で瞳に涙を浮かべながら微笑む。
「わたくしの時間は限られていると皆が知っていたはずなのに、わたくしたち、それをまったく有効には使えませんでしたわね。いえ、きっとこの想いを伝えきるのは、どんなに寿命の長い人間でも足りないのかも」
 愛の言葉を伝えるのは、人にはそれだけ難しい。だから誰もが暗闇の中手探りでそれを探し続け、時には命を懸けて証明する。
「あなたは知らないでしょう……わたくしがどれだけあなたに感謝しているのかも」
 初めて出会ったあの時、まだ彼が皇帝だと知らなかったその瞬間から、ジュスティーヌはロゼウスに恋をした。
 美人でも健康でもない自分が嫌いで、いつだって自信がなくて、独りきりで迷子になっても誰も気にかけてくれないようなちっぽけな自分に手を差し伸べてくれたその時から。
「愛していますわ、皇帝陛下……愛しています。わたくしの、すべてだった方」
 だから少しでもあなたの特別になりたかった。そう告げるジュスティーヌの声が掠れていく。人の耳には聞き取りづらくなるほど。
「お前は俺にとって、誰よりも特別な女の子だよ」
 ロゼウスの言葉に、ジュスティーヌは少しだけ驚いたように目を瞠った。その瞳から透明な涙が滑り落ちる。口の端が自然と持ち上がり、笑みを刻んだ。
「どうか……いつまでも……健やかに……」
 胸に走る痛みを堪えてロゼウスも微笑む。
「貴方に会えて……幸せ、で……」
 永遠に途切れた言葉の続きを探すように、彼は抱きしめた彼女の肩口に顔を埋めた。