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月の綺麗な夜だった。棺の中の死人のように行儀よく静まり返る街の頭上で、煌々と照っている。
広場の椅子に腰かけるようにして、縄で縛られたシライナとラクルが気を失っていた。お互いの方にもたれかかるような姿勢をとらされているくらいだ。大きな怪我はないようだった。
シライナだけならばともかく、ラクルは剣も使う。レニーのような華奢な少年が一人でラクルを圧倒したというのは驚きだが、それも彼が人外の存在だと考えれば納得の行く事態だった。
「レニー」
「お待ちしておりました。皇帝陛下」
ぺろりと舌を出して笑う少年の顔は、先日の昼間に見た物となんら変わりない。
その身から放たれる死臭も。
「随分急な招待だ。来ていくものに困ったぞ」
「あはははは。やだなー、服装なんかどうでもあなたはいつでも綺麗ですって。“ご主人様”はあなたをおびき寄せだのなんだのうるさかったけれど、あなたは一目見て僕のことがわかったみたいだからね。小細工は無用だと思ったんだ」
青白い月の光の下で、少年の青白い顔が微かに変化を見せる。
「ねぇ、窓から落ちた僕を受け止めた時にはもう僕が吸血鬼だってわかってたんでしょ? なんでわかったの?」
「お前の体からは、僅かだが腐臭がした」
窓から降ってきたレニーを受け止めた時のことを思い出す。
娼館特有の強い香の匂いに誤魔化されていたが、あれはたしかに死臭だった。
「あー、そっか。そういうことね。そりゃ仕方ないよなぁ」
レニーはがりがりと無造作に頭を掻く。そうすると普段の妖艶さが薄れ、普通の年頃の少年にしか見えなかった。
けれど彼はもはや「普通」ではない。
「お前を蘇らせたのは、錬金術師カースフールか?」
カースフールの手によって蘇らされた死者。ホムンクルスとして生まれ変わった代わりに他者の血を啜ることでしか命を繋ぐことができなくなってしまった化け物。
「そうだよ。僕は一度死んだんだ。言いましたよね? あの窓から前にも落ちて死んだのがいるって。それは僕のことだ」
一度目の死の際、たまたま近場にやってきていて噂を聞きつけたカースフールが、レニーの遺体を預かり何か処置を施した。事故を目撃した付近の住人や店の女将たちにも、催眠術で記憶を書き換えたという。
「それにしても死臭か。そんなこと、今まで誰にも指摘されたことないよ。でも皇帝陛下、あなたがその気になれば、僕と出会うまでもなく吸血鬼事件の犯人を捜すこともできたんでしょう?」
「可能だ。皇帝というのは千里眼の地獄耳だからな」
「全知全能と格好よく言えばいいのに。あなたにとって、この世界はよくできた箱庭で、人生は結末のわかりきっている推理小説みたいなものなんでしょう?」
犯人が最初からわかっているなら、名探偵だって出番すらない。ロゼウスにとっては世界各地で起こる事件もそのようなもの。該当者を恙なく確保することは手間取っても、事件の真相を知ること自体はただ寝ているだけでもこなすことができる。
強すぎる力。逆に皇帝としての能力を全て抑えて名探偵の真似事ができればよかったのだが、そういう柄でもない。第一、皇帝としての器用さをかなぐり捨てるならロゼウスは荒事の方が得意だ。推理ができないなら名探偵にはなりえない。
そうして理由や過程をすっ飛ばして結論を急ぐからこそ、周囲から理解されないのだとわかっていたとしても、ロゼウスは自分を変えられない。そして何より、彼に皇帝として求められるのはそういった力なのだ。娯楽小説の主人公のように、人柄で支持を集められるような人間でもない。
レニーの言う通り、この世界はロゼウスにとって、罪を重ねるだけの美しくも虚しき箱庭だ。何故なら彼自身が、この世界を上手く廻すための歯車でしかないのだから。
「その人生は、辛くはないのですか? 決められた未来なんて」
「まるで決められた人生を味わったことがあるような言い方だ」
「だって実際にそうだもの。娼婦の腹から生まれた望まれない子どもが、こんな下町で他にどうやって生きていけって? それにいくら吸血鬼に造りかえられたからって、そんな方法長くもつはずがない。どうせ僕は何カ月も生きられるはずなかったんだよ」
レニーは与えられた死の運命から生き延びた。
けれど迫りくるそれから逃れることは容易ではなく、生き返ったからこそ二度目の死に怯えねばならなくなった。
そして彼が死を遠ざけようとするならば、代わりに誰か別の人間の命を奪わねばならない。
「今の僕は、存在自体が罪だ」
目の前の青白い自嘲の笑みが、脳裏の面影に重ねる。
自分の存在自体を罪だと感じるようになったのは、ロゼウスの場合はシェリダンを殺してから。人の命を奪わねば存在できぬ吸血鬼の性に、他者の命より自分の命を優先した本能に絶望して。
どうしようもない事態であったそのことに関してでさえロゼウスはこんなにも苦しみを感じたというのに、自分自身にどうにかできるはずもない生まれる前の事情で一生罪を背負わねばならなかったシェリダンの苦しみは如何ほどのものだったのだろう。
今もわからない。ロゼウスはシェリダンではない。シェリダンはロゼウスではない。
そしてレニーにもなれない。吸血鬼事件の犯人を暴くのは容易くても、彼の苦しみを理解してやることはきっと永遠にできないのだ。
「お前を造り替えたのはカースフールで、お前の責任ではないだろう。死を厭うのも人間として当たり前の感情だ」
「それでも、僕が生きている限り、この街の人々は死につづける。ここでなくたって、何処に行ったって同じだ。僕がこのような生物である限り」
その声には、染みついた諦観が潜んでいた。人造の吸血鬼、蘇りの化け物として生き永らえた時からきっと彼が何度もこのことを考えてきたのだろうなとわかった。
「もしも僕が何らかの目的のために、やむなく必要とされたというならまだ救いがあったかもしれないけれど――あなた方の口ぶりから察するに、悪役はご主人様の方なんでしょう。僕のような蘇生ホムンクルスを何体も作って、人を襲わせることで性能を確かめていた」
「……誰に聞いた? 各国の事件のことは、国外には漏れていないはずだが」
「シライナちゃんが言ってたよ。別に口止めしてたわけでもないんでしょ?」
ロゼウスは溜息をついた。レニーの言うとおりだ。彼は今ほどに聡くなかったほうが、もう少しだけ幸せに生きられたかもしれない。
否、幸せとは、一体何なのだろうか。
死と言う絶対的な運命を覆しても、レニーは幸せにはなれなかった。それがこの夜の結末だ。
「別に自分が生きるために他者を犠牲にしたくないとか綺麗ごとを言うつもりはないけれど、本能剥き出しで他人の血を啜っている自分を、あとで冷静につきつけられるほど気分の悪いことはないね」
その感覚はロゼウスにもよくわかる。それこそ、ロゼウスがこの世で最も嫌悪するものだ。
四千年前の記憶が蘇る。生温い血の海の中で目覚め、手に抱えたしゃれこうべを取り落した。身体に漲る活力とは裏腹に心が冷えていく。――あの、酷い絶望感。
生きると言うことは、なんて罪深く浅ましいのだろう。
「もとから誰にも望まれぬ命でも、僕は“ご主人様”の道具じゃない。これはせめてもの意趣返しだ。あのね、皇帝陛下――」
そうしてレニーは、彼の知る限りのカースフールの行状とホムンクルスについてを語った。ロゼウスに必ずカースフールを裁くことを約束させて。
全ての話が終わると、広場に沈黙が訪れる。
「そろそろこのお二人も目を覚ましてしまうね。幕下ろしだ。決着をつけよう」
レニーは薄く微笑んだ。
地面に根が生えたような足を無理矢理動かして、ロゼウスは彼に歩み寄る。シライナとラクルに大きな怪我はないのでもうしばらくこのまま放っておいても大丈夫だろうが、いつまでもこのままというわけにはいかないのはわかっている。レニーの言うとおり二人はもうすぐ目を覚ましそうだった。
目の前の少年の細い首に手をかける。
ネクロシア人とローゼンティアの人の瞳の色は同じだ。深紅の視線が交錯する。
自分にできる最後の慈悲として、ロゼウスは吸血鬼となった少年に静かに尋ねる。白い頬を涙の滴が滑り落ちていく。
「――望みはあるか」
「――殺して」
化け物にはなりたくないと、《レニー》が囁くように哀願した。