薔薇の皇帝 22

126

 気付いたら自分は灰色の塔の中にいて。石造りの螺旋階段を無限に登っていた。
「あれ? ここって……」
 ルルティスは首を傾げた。おかしい。こんなことあるはずがないのだ。
 果てがないと思えたのにいつの間にか登り切った塔の頂上には部屋が一つあり、その扉を開けると色彩が波のように押し寄せてくる。塔自体の灰色の石の素っ気ない地味さとは裏腹に、部屋の中は様々な色と形が溢れていた。
 それはまるで玩具箱。
 どこか既視感のある光景に、ルルティスは、ああやっぱり、と思った。
 ああやっぱり、これは夢の中なのだ。
「あら。ランシェット先生」
 何故ならその部屋の中では、いつものように派手な衣装に身を包み道化じみた化粧をしたジュスティーヌが笑っていたからだ。
 これは夢だ。夢でしかない。
 何故なら彼女は――ジュスティーヌは死んだのだ。
 産まれながらに病弱であった彼女は、周囲の献身的な治療と本人の努力の甲斐もなく数週間前に息を引き取った。
 ルルティスはその場に居合わせ、彼女を看取った皇帝以外では誰よりも早くその事実を知った。だからこそわかる。これは夢なのだ。
 薄暗い螺旋階段の頂上に開かれた部屋は明るく賑やかで、ルルティスはついふらふらとその中に交じろうと足を踏み出した。
 しかし次の瞬間、入り口近くまでやってきていたジュスティーヌに笑顔で思い切り突き飛ばされる。
「ふぎゃっ?!」
 反動でころころと螺旋階段を数段転がり落ちたルルティスは、感じるはずの痛みがないことに驚きもせず(だってこれは夢の中だ)、ジュスティーヌの突然の暴挙に対し抗議する。
「ちょ、酷いじゃないですかメイフェール侯爵! 私も混ぜてくださいよ」
「あら、駄目よ」
 人一人突き飛ばしたことなど意にも介さず、ジュスティーヌは扇で口元を隠しながらからからと笑う。
「あなたはまだここに来ては駄目よ。ランシェット先生」
 その言葉にルルティスは瞳を伏せ、目元に影を落とした。
「駄目なのですか。まだ、駄目なのですか? でもここはもう、塔の頂上なのでしょう」
「ええ、そうよ。でもあなたは駄目。中には入れてあげない」
 ルルティスは顔を上げ、もう一度部屋の中を覗き込んだ。
 光溢れる室内にいるのは、ジュスティーヌだけではない。
 ゼイルがいる。彼の主人だというセィシズらしき青年がいる。見知らぬ、けれど知人たちにどこか似た面差しのエヴェルシード人の少年がいる。全身を包帯で覆い隠した、人種も定かではない女性がいる。
 懐かしい顔も見知らぬ人も、皆一様に何かから解放されたように穏やかな様子だ。
 ルルティスはそれを見てむしょうに泣きたくなる。
「ゼイルさんやあなたはこちらにいるのに、私は駄目なのですか?」
 こんなに穏やかで幸せな空間に、自分は決して入れてもらえないのだという。
「ええ、もちろん!」
 にっこりきっぱりと言い切るジュスティーヌと、がっくり肩を落とすルルティス。部屋の中の光が強く、廊下は薄暗い。逆光を背にしてその表情に影を背負いながら、ジュスティーヌはルルティスへ語りかけた。
「あなたにはまだやることがある。だってあなたしか、皇帝陛下を変えることはできないんだもの」
 項垂れていたルルティスが顔を上げる。
「皇帝陛下の“過去”は、シェリダン=エヴェルシードに囚われている。そして世界に“未来”をもたらすフェルザード殿下とは決別してしまった」
 シェリダンにフェルザード。ルルティスとほぼ同じ顔の男たち。けれど彼らはそれぞれ、皇帝ロゼウスに対してまったく別の象徴となっている。幾つもの顔を持つ彫像の表情が一つずつ違うように、同じであって同じではない。
「ルルティス=ランシェット。あなたはどうか、あの人の“現在”になってあげて。過去ではなく、未来につながるかどうかもわからない。けれどこの手で掴まなければすり抜けてしまう何よりも大事な“今”に」
「私は……」
「あなたにしかできない。あなたならできる」
 聞きようによっては随分無責任で身勝手、そして何よりもルルティスにとって不愉快になるはずの言葉だが、何故か今はすんなりと耳に届いた。
「それは――私がシェリダン=エヴェルシードの生まれ変わりだからですか」
「ええ。あなたがシェリダン=エヴェルシードの生まれ変わりだから。そしてシェリダン=エヴェルシードそのものではないから」
 皇帝の想い人の魂を持っている。それはルルティスにとって変えようにも変えられない、どうしようもならない現実だ。
 そしてその大前提が、素地があってさえ――ルルティス=ランシェットは、シェリダン=エヴェルシードとはまったく違う人間だ。
「誰にだって生まれながらに背負った宿命はあるわ。わたくしの病も、あなたが四カ月王の生まれ変わりであることも。それを運命だなんて言わないわ。けれど、人間はどうしたって、自分に与えられたものと自分がこれから得るもので足掻き続けるしかないのよ」
「私はどうあっても、シェリダン王の生まれ変わりであるルルティスでしかないと言うのですか」
「ええ。そしてそんな人間は、この世界でただ一人あなたしかいない」
 シェリダンの生まれ変わりであることを否定するのでもなく、生まれ変わりだからと言ってシェリダンになるわけではなく。
 四千年前に死んだ男の魂を持つ、自分自身として。
「でも周囲は、きっと私をシェリダン王の生まれ変わりという目でしか見てくれない。自分自身になるのに、何故そんな努力をしなければならないのですか?」
「あら? 博識なランシェット先生ともあろうものが知りませんの? ――人生は全て、“理想の自分”になるための戦いでしかありませんのよ」
 ジュスティーヌはそうしたのだろう。健康になるために、病に打ち勝つ努力をし続けた。彼女は自らの宿命を呪いながらも、それと向き合った。彼女自身が自分を病弱だと受け入れていたからこそ、神にも奇跡にもすがらずに病魔を退けるあらゆる手段を求め続けた。
 それと同じことだと、ジュスティーヌは言う。
 シェリダンの生まれ変わりであることは、ルルティスの人生の一部でしかないのだ。他者からどう見られるかではなく、自分がそれをどう受け止めて生きていくかこそが、ルルティスの人生なのだ。
 自分と言う存在がシェリダンの生まれ変わり以上の価値をもたないとルルティス自身が納得してしまえば、いつまで経ってもシェリダンを超えることは不可能だろう。
「シェリダン王を超えようとするなら、あなた自身がかの王と向き合わねばならないでしょう」
「私自身が、シェリダン=エヴェルシードと向き合う……」
 けれどそもそも自分は、シェリダンのことを何も知らないのだとルルティスは気付く。
 エヴェルシードで瀕死になった際に少しだけ意識の奥底で話をしたが、それでわかったことは今までロゼウスたち皇帝領の面々に聞いた話の一部にすら及ばない。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。四千年前のエヴェルシード王。父親から簒奪した玉座を、僅か四カ月で妹姫に奪われたという。その短い間にも関わらず幾人もの重臣を粛清し、隣国を侵略し、無辜の民を殺した残酷なる暴虐の王。
 皇帝領で話を聞いた際、実際に彼を知る四千年前から皇帝領にいる面々はそれを否定しなかった。
(……あれ?)
 ルルティスそこで初めて、小さな違和感を覚える。
 これまで彼は直接シェリダン=エヴェルシードと面識はない(当たり前だが)。けれど深層意識で会話したあの少年は、今思えばそういった噂から想起される人物像とは、少し、印象が違わないだろうか。
 エヴェルシードの歴史書はかの王を愚昧なる暴君として記す。ローラやエチエンヌたち皇帝領の古株は、彼を恩人として語る。
 どちらも嘘ではなく。彼らの話は概ね事実だと皇帝も認めた。けれどそれが全てだとも、彼も誰も言わなかったのだ。
 そしてルルティスが深淵で見た彼は――。
「少しは、参考になりましたかしら」
 そのまま物思いに耽りそうになるルルティスの意識を引き上げたのは、意味深なジュスティーヌの問いかけだった。
「……メイフェール侯爵」
「言ったでしょう、あなたにはまだやることがあるのだと。あなたがあなたとして生きることが、あの方の現在を作り上げていくのですよ」
「……そうですね」
「だからあなたは決して、この部屋には入れてあげません」
「全てが終わってまたここに来るまでは、ということですか?」
「いいえ。それが終わっても、あなたはこの部屋には入れません」
「え……」
 もしもの話すら一刀両断して拒絶する強硬な態度に、さしものルルティスもちょっと悲しげな顔をした。けれどジュスティーヌは晴れやかな笑顔で続ける。
「だってこの塔も階段も、ここへ続く道は全てわたくしが作ったものでしょう。そしてランシェット先生、あなたの終着点は、わたくしと同じ場所であってはいけないのです」
 ジュスティーヌはほっりとした指を天井――否、いつの間にか大きく開けていた空に向けていた。
 塔の頂上に辿り着いたはずの階段が、まだ上へ上へと続いている。不思議とジュスティーヌたちはまだ部屋の中にいるはずなのに、その上が開けているように感じられるのだ。ルルティスは一歩足を踏み出した。
 藍色の空に白い月が浮かぶ。次の瞬間、何もない中空から空へと伸びる階段の上にルルティスは立っていた。もう近くには誰の姿もない。ジュスティーヌの声も聞こえない。
「……ありがとう、メイフェール侯爵」
 ルルティスは自分が鳥になった気持ちで翼をはためかせる。
 遠く白い月に向けて、彼はただ一人飛び立った。