薔薇の皇帝 22

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 そして、レニーからフィロメーラに説明されたのとほぼ変わらない話を聞き、ロゼウスはその日は引き取ることにした。
 翌日、今度はシライナがラクルと一緒にレニーに街を案内してもらうことになった。
「なんであいつらは来ないのかしら」
「……陛下には、何か思惑があるのだろう」
 不思議がるシライナと、重々しく言うラクルはレニーと王都の広場で待ち合わせをしていた。広場は下町に近いがぎりぎりその範囲ではない。昨日のようなこともあるし、少しでも安全な場所にいろとロゼウスが指示したのだ。
 シライナはいつものように反発したが、ラクルが頷いたので決定とされた。
「……なぁ、シライナ」
「何よ?」
「お前はどうしてそんなに、皇帝陛下のことを嫌う」
 憎んでいるわけではない。彼女は皇帝領とも皇帝自身とも何の縁もない人間だ。そして性格も実直そのもので、教団の上層部の思惑に乗って自分たちと対立的な位置にいる皇帝を厭うような人柄ではない。
 彼女がこれだけ皇帝に対して棘のある態度をとるのは、何か皇帝自身に気に入らないところがあるのだろうと。ラクルはそう尋ねた。
「今更そんなことを聞くの? これまで誰も、そんなこと気にしなかったわよ」
「教団と皇帝が対立しているのは周知の事実だ。珍しくもない。だが教団の思惑と、お前個人の意思は違うだろう」
 シライナは鼻を鳴らした。その態度は当たり、だ。ラクルが見当違いのことを言えば、天邪鬼な娘はむしろ嬉しそうにするだろう。
「……単純に気に入らないのよ」
 案の定苦々しい口調で吐露された心情に、ラクルは静かに耳を傾ける。
「皇帝とは人とは比べ物にならない力の持ち主。望めば死者さえも蘇らせることができるという万能の支配者。なのに、あの皇帝は、その力を使いもせずに殺戮皇帝の忌名を頂くほどにあまりにも人を殺し過ぎている。私が赦せないのはそれよ」
「……死者は、静かに眠らせておくものだ。生者の都合で生き返らせようなどと、考えてはいけない」
 正論すぎる返しに、シライナも一瞬口を噤む。けれど恐らく何度も聞かされ、自分でも考えて来ただろうその答では納得できないというように、また言い返した。
「それでも、そう思うからこそ、今生きている人の命を大事にするべきだわ」
 シライナの口から出たこれもまたお決まりのような正論に、今度はラクルがそうだなと頷く番だった。
 そうこうするうちに、待ち合わせ場所である噴水の前にレニーがやってきた。今日の彼は昨日と違って、貧民街の子どもにしてはまっとうな衣装を身に着けている。
「お待たせ。お二人さん。……どうかした?」
「いいえ、なんでもないの」
「死者がどうとかって話していたみたいだけど」
「……聞いてたの?」
「最後の方だけ」
 レニーはこれまでとは違う、不思議な笑い方をした。
「そうだね。死者は眠らせておくものだ。それを揺り起こそうとすれば、酷いことが起きる」
「レニー?」
 いつも陽気に笑っているように見えるレニーだが、それだけではないのだろう。あの癖の強そうな女将のもとで男娼をしている彼は、二階の窓から突き落とされて死にかけたばかりであってさえ笑ってみせた。それは誰にでもできることではない。
「さぁ、行こう。まずは一番最初の現場から案内してあげる」

 ◆◆◆◆◆

「――つまり、この路地裏は一見人気がないように見えて、実はけっこう人通りの多い場所なんだ。だけどこうして一歩踏み込まなければこの一角までは見えないから、人々の盲点になる」
 レニーの案内は余所者のシライナたちにもわかりやすく、実に丁寧だった。彼は何故そこで犯行が行われたかまでを、時には確信を持ち、時には推測交じりの言い方で、一つ一つ説明してくれる。
「次で最後だよ」
 朝から下町のあちらこちらを歩かされ、太陽がもうかなり高い位置にある。
「でもそろそろお腹が空いたね。お昼でも食べに行こうか」
「ええ」
 シライナが頷き、彼らは下町からいったん抜けて比較的治安の良い区画へ赴いた。育ちの良い彼女をレニーが気遣ったためだ。確かに治安も空気も悪い路地裏の潰れそうな店で食事をする気にはシライナはなれない。
「次の現場はどこなんだ?」
「ここから少し西に行ったところだよ。下町と華やかなりし王都の境界線上。だから狙われたんだろうね」
 軽食をつまみながらしばらく他愛のない世間話を繰り広げていたが、ふと気が付いてシライナはレニーに尋ねる。
「今日は本当にすごく助かっているんだけれど、こんな時間に出歩いて大丈夫なの?」
「何が?」
「その……だって、お仕事は夜なんでしょう?」
 男女の機微がわからずとも、男娼という言葉の意味と何をするのかくらいは箱入りのシライナにもわかっている。おずおずとそう口にしたが、レニーは気にした様子もなく返した。
「別に用事があればこのくらいに起きているのは普通だからね。舞や楽器の稽古だってこの時間帯にするんだよ。だから大丈夫」
 それに昨日荒くれ者どもに突き落とされた身としては、今日店にいるとまた絡まれそうで面倒なのだとレニーは言った。
 いつもからからと笑っていて明るいレニーに対し、シライナは好感を持った。シレーナ教の聖女という立場上、娼婦や男娼といった存在には複雑な想いがあるが、ただのシライナとしては彼らにかけられる言葉がない。
「そっちこそ、いいの? 偉い宗教の偉い立場の人たちが僕みたいな男娼と一緒にいて」
「どどど、どうして知ってるの?! 私たちが聖人だって」
「いや、知るも何もその年頃で『シレーナ』『ラクル』と呼び合ってれば誰だって気づくからね」
 レニーに自分たちがシレーナ教とラクリシオン教の聖人だと名乗った覚えのないシライナは内心を見透かしたような質問に狼狽したが、理由は簡単なことだった。
「立場を隠していたのはごめんなさい。私たちはその、以前からずっと吸血鬼事件を追っていたの」
「以前から……?」
 そこで何故か彼は不思議そうな顔をした。淡い紫の眉を歪めて尋ねる。
「吸血鬼事件って、他の場所でもあるの?」
「ええ。以前に南大陸の中央で起きて、だんだん西へと移動して行ってるの。私たちはそれを追いかけてきたの」
 シライナは目を伏せながら囁くようにした。
「先程の質問の答だけれど、私たちはあなたの職業に別に何も偏見を持っていないわ。ただそれは、軽蔑もしないけれど同情もしないという意味なの。あなたが私たちに何かをしてほしいと思っているのでもない限り、私たちは動かない。どんな職種の人間でも、こうして対等に付き合うわ。あ、でも殺し屋とか殺人犯とかそういうのは別だけど」
「前者はともかく後者はただの犯罪者であって職業ではないよね。前者も犯罪者には間違いないけれど。ふーん、僕の方こそ、宗教の幹部ってもっと頭の固い人たちだと思ってたよ」
「教会の中には実際にそういうクソじじ……失礼、頭の固い老人たちも多いわよ。そういうのが多いからこそ、私たちはああいう人間にはならないよう気を付けようって」
「反面教師ってヤツね。そっちのお兄さんも同じ?」
「――俺はそもそも、母親が貴族の妾で元は花街の女だ。人のことをどうこう言える身分じゃない」
 ラクルが自分の素性をあっさりと語ったことに、シライナは驚いた。幼い頃から教会組織に出入りしていたシライナとは違い、ラクルは紆余曲折を経て二十歳過ぎにラクリシオン教徒となった。それからも同じ派閥内で色々とあり、今ではこうして別宗派のシライナと一緒に行動しているくらいなのだ。出会ったばかりの少年に、彼が皇帝にもしたことのないような自分の話をするなどとは信じられなかった。
「みんな色々と事情があるんだねぇ。昨日だって、まさか皇帝陛下が本当にこんな街中をうろついてるなんて思ってもみなかった」
 ネクロシアは皇帝領から一番近い王国だ。ロゼウスはよくこの国を訪れるらしいが、レニーは会ったことがなかったという。
「もしも……」
 ロゼウスの名を口にして、彼は何かを言いかけた。その紅い瞳に一瞬翳りが差したのをシライナは見逃さず、小さく首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
 そう言って彼は再び笑顔を作った。そう、作ったのだ。レニーは自分の表情を操ることに長けている。腹の内でどんな感情を抱えていても、誰より綺麗に笑うことができるだろう。
 彼は一体何を想いその美しい笑顔を人々に、自分たちに向け続けてきたのだろうか。
 シライナがそれを知ったのは、全てが終わった後のことだった。

 ――そして事件は起こる。

「レ、ニー?」
 血の海の中に少年は一人佇み、それでも変わらずに美しい笑顔を浮かべている。
 食事を終えて、再び下町を歩いていた時だった。昨日レニーを二階の窓から突き落とした男たちが再びやってきたのだ。
 彼らは再び口論になり、傭兵たちは昨日の室内とは違い、腰に剣を佩いていた。ラクルも武器を取り出そうとしたが、それよりも男娼の少年が動く方が早い。
 彼は初め、まるで女が愛しい男に縋りつくように男の一人に抱きついた。傭兵たちもシライナたちも、彼が同行者である聖人二人を守るために、男娼の手管で男たちを誘惑しようとしているのかと思った。
 だが、違った。
 レニーは抱きついた男の首筋に唇を寄せると、思い切り歯を突き立てた。そして彼が何かを啜る様子と共に、男の血も体液も命も全てが驚くべき速さで少年の中に吸収されていく。
 もう一人の男はそれを見て驚き剣を抜いた。だがその男に対しては、レニーは無造作に腕を振るだけで人体をあっさりと切り裂いた。
 シライナは腰を抜かしてその場にへたりこみ、呆然とする声で呟いた。
「あなたが、吸血鬼だったの……?」
「そうだよ。ごめんね」
 短い謝罪と共に、首の後ろに衝撃が来て彼女は気を失った。
 最後に見たものは、剣を抜いてレニーに斬りかかるラクルの姿だった。