薔薇の皇帝 22

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 ロゼウスは「時」を待っていた。
 いつも彼はそうだ。自分からは動き出さない。
 もう懐かしいとも思えぬほどに懐かしいただの王子時代、今とは別の理由でロゼウスは動かなかった。人の顔色を窺って、出しゃばらないよう、客の機嫌をとる娼婦のように相手が居心地のよい空気を感じられるようにだけ努めた。何かを行い始めるのは兄たちの仕事で、自分が出しゃばればその全てが壊れてしまう。
 けれど今は、自分の意志で、自分の望みで、ここからその「時」が来るまでは動かないようにしている。
 選択肢はいつだって幾億とあるけれど、人が選び取れるのはいつだって一つだけなのだ。そして皇帝となりその目線で幾億の可能性を可視できるようになったロゼウスは、その上で自分が「待つ」者であることを選んだ。
 待ってばかりの人生だった。事が起きてしまうことを、日常が壊れてしまうことを、運命の歯車が残酷な形で噛みあうことを、大事な人が生まれ変わることを、次の皇帝が生まれこの座を継ぐことを。
 いつも、待ってばかりだった。
 変えられない運命を変えられなかったから、変えることのできる運命をも、変えない。
 新しい風をもたらすのはいつも彼ではなく、別の人間だ。ロゼウスの性質は《維持》。今あるものを守り続けていく者。
 けれど変革の時は来ている。もうまもなく彼の治世が終わり、聖なる焔の皇帝が治める新しき時代が始まる。
「皇帝陛下」
 涼やかな少年の声に呼ばれ、ロゼウスは瞳を開けて振り返った。
 安宿の一室、窓辺に引きずってきた椅子に腰かけて、ロゼウスは微睡んでいた。シライナやラクルと共に出かけなかったのは、こうしてルルティスと話をするためだ。
「手が空いたのでやってきたのですけれど、お邪魔でした?」
 エチエンヌたちと共に朝食の支度をして片付けを手伝うと言ったルルティスを、ロゼウスは呼び出した。手が空いた時でいいと言えば、彼は本当に皇帝を待たせて自分の用事を先に済ませてくる。
「いいや。ちょうど目が覚めたところだ。――さて」
 話をしよう。ロゼウスは唇を歪めて薄い笑みを浮かべた。
 皇帝領でルルティスが望んだ話。彼の前世、シェリダン=エヴェルシードの話。
 四カ月王と呼ばれる暴君は、本当はどんな人物だったのか?
「俺の知るシェリダンは……あいつは……」
 ロゼウスはもう一度瞳を閉じる。脳裏に思い描いたのはシェリダンの顔ではなく、沈み込ませた記憶を呼び覚ますきっかけとなった男娼の少年だ。
 わかっているんだ。レニー。俺は待つ者。だから君のことも止められない。
「自分の存在を、いつも罪だと思っていたよ」
 ルルティスが息を呑んだ。

 ◆◆◆◆◆

 ほぼ同じ顔のフェルザードがあれだけ自信満々なナルシストであることからも窺えるが、シェリダン=エヴェルシードは美少年だった。
 彼の美貌は母親譲り。王都の下町近い酒場の看板娘だったというその少女は、たまたま街の視察に出ていた先代国王の目に留まり、無理矢理王宮へと連れて行かれた。彼女を溺愛した国王は彼女の両親の住む酒場を焼き、帰る場所を奪った上で彼女を第二王妃として娶った。
 憐れな町娘のことを王宮の人々は大概が同情的に見ていたが、そうではない一派もあった。国王の正妃は当然、突然王の寵愛を独り占めにした町娘を快くは思わなかった。
 家族を奪われ無理矢理に妾妃として王に犯された哀れな娘は、一年後に男児を産む。それがシェリダン=エヴェルシード。
 息子を産んですぐに娘は自殺し、後には平民の子でありながら継承権第一位の王子であるという、不安定な立場のシェリダンが残された。次の年には正妃の娘である後の女傑王カミラが産まれ、彼の立場はますます複雑化する。
「母親を殺したのだ自分だ。シェリダンはそう考えていた。だから彼はいつも、自分の存在を罪だと感じていたよ。王子でありながら、彼は望まれて生まれたわけではない。政略結婚ですらない略奪で、母の涙と命と引き換えに生まれた自分をシェリダン自身が誰より厭っていた」
 傍若無人なほど快活に、怖い物など何一つないというように振る舞っていても、シェリダンは常に心の奥底で自分の存在を罪だと感じていた。
「けれど、それ故に彼を知る者たちは、関わり合えば合うほど彼から目が離せなかった。触れれば切れる刃のようなその生き様に、強く、強く惹かれた」
 ロゼウスが、ローラが、エチエンヌが、リチャードが四千年をかけて望む王。ハデスがずっと忘れられない彼の友人。
「俺は最初は、彼の敵として出会ったよ。ローゼンティア侵略。知っているだろう」
「ええ、まぁ」
 ロゼウスと同じく窓辺に引いてきた椅子に座るルルティスは曖昧な相槌を打つ。
「シェリダンは母親の事情で女嫌いで、当時から男色を好んでいた。七歳の時からずっと父王から母親の身代わりとして抱かれ続けていたってのもあるんだろうね。――俺の容姿は、彼の好みなんだよ。侵略した先の国で、思わず連れ帰ってしまうくらいにはね」
 ルルティスが呆気にとられた顔をした。まだ十六にもならない彼の顔立ちは、当時のシェリダンと比べて幼い。身長は現時点ですでに彼の方が高いのだが、それでも雰囲気のせいでルルティスはシェリダンよりもずっと稚く見えた。
「俺たちは取引をした。俺がシェリダンのもとに人質でいる間は、ローゼンティアの民を守ると。無益な虐殺や見せしめなど行わないと。その代りに俺は、女装してシェリダンの花嫁となった。エヴェルシード王妃にね」
「……ちょっと待ってください。あれはあなたですか。エヴェルシード史にたった一文だけ刻まれた。四ヶ月王が侵略先のローゼンティアから連れ帰った正体不明の花嫁」
「そうだ。もちろん本名ではないし姉にも妹にも該当者がいないからいまだに謎の存在扱いなんだろうけど」
 ロゼウスは戸惑うルルティスの様を楽しむようにくすくすと笑う。
 自分がシェリダンのことを語りながら、こんな風に笑える日が来るとは思ってもいなかった。
 寂しい微笑を口元にとどめたまま、昔語りは続く。
「俺は偽りの王妃として、シェリダンの傍にいた。そしてシェリダン=エヴェルシードという人間を知ったんだ。慰み者にしたいのであれば後宮にでも地下牢にでも放り込んでおけばいいのに、何故あいつは俺を王妃などに仕立て上げたんだと思う?」
「全然わかりません。私には想像もつきません」
「あいつは、共に死ぬ道連れが欲しいのだと言った」
 口元の微笑が引き連れる。
 ああ、やはり、こんな時に表情を作ることはできない。
「傲慢で自信に満ち溢れているようでいながら、あいつはいつも死に場所を探していた。人として生きたいと言いながら、人として死ぬと。残酷な魅力で人を惹きつけながら、簡単に人を置いていく」
 ロゼウスは両手で顔を覆った。
「あれは炎だ。美しい炎。手を触れればこちらが燃え尽きてしまう。恐ろしい。でも目が離せない。そして炎の怖いくらいの美しさは、言葉や絵では決して伝えきれないんだ」
 実際にその眼で見た者しか彼を知ることはできない。それが、シェリダン=エヴェルシード。
 強くなんかない。弱いところだらけだ。それでも人を惹きつけてやまない。
 なんて美しく残酷な――。
「……ごめんなさい」
 突然のルルティスの謝罪に、ロゼウスは驚いて顔を上げた。
「え? 何?」
「……泣かせてしまって、ごめんなさい」
「俺は、泣いてなんか――」
 そう言いかけたその瞬間から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

 そして、「時」は来る。

「ロゼウス! まずいぞ! シライナ様が――!!」
 エチエンヌが小さな紙片を手に部屋へと駆け込んできた。そこにはシライナとラクルの命が惜しければ、夜の広場に一人で来るようにとの文が、レニーの手で記されていた。