薔薇の皇帝 23

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 山のように巨大な怪物が内側から膨れ上がり、破裂する。
「やったぞ! 解析は成功した! 我々の勝ちだ!!」
 まだ事態の上手く呑み込めていない面々と違い、学者連中は大はしゃぎだった。結界の中でカースフールが愕然と地に膝をつく。
「そんな馬鹿な……わしが……わしの長年の研究の集大成が、こんなにも簡単に……」
 老学者の嘆きとは裏腹に、周囲は歓喜に満ちている。
 その中で、一人空中で少年が青ざめた。
「ちょ、ま、これ、高すぎ――!!」
 ホムンクルスの内部に飛び込んで学者たちの計算に基づき核を破壊したはいいものの、その後のルルティスの着地については誰も考えてはいなかった。ホムンクルス自体が巨大だったのだが、その足場、質量は核の破壊と共に四散してしまった。そして足場となった生物が巨大なら、それが消えた時のルルティスの位置する場所もまた。
「わぁああああああ!!」
 いかに頑丈な魔導装甲服を纏っているとはいえ、さすがにこの高さから地面に激突したら死ぬ!
 仮にも世界を救ったとは思えぬ悲鳴を上げながら自由落下していくルルティスを、細いが力強い腕の冷たい温もりが受け止めた。
「やったな、ルルティス」
「皇帝陛下!」
 ロゼウスは人外の跳躍力であっさりとルルティスを受け止め着地する。その途端、ルルティスは駆けつけてきた学者仲間にもみくちゃにされた。
「やったぜ! ランシェット!!」
「さすがだ!」
「おいしいところ持っていきやがって!!」
 ルルティスが援軍として連れてきた学者たちは皆ルルティス程とは言わないが、だいたいが若い。十代後半から二十代前半の若者たちは、世界でも五十人いるかいないかという逸材揃いだ。その彼らがまるで単純で無邪気な子供のように、ルルティスを囲んではしゃぐ。
「……お前たちにも礼を言おう」
 ロゼウスは喧騒の集団から離れ、黒い髪と瞳の一族に向き直った。
 それはこれまで、世界どころか皇帝からも存在を疎まれ、世界の偏狭に追いやられていた罪の一族。祖先が犯した罪の代償として、七千年もの間、日陰の民として迫害されていた黒の末裔。
「我らは帝国の民。皇帝に従うのは当然のこと」
 黒の末裔の長だというのは、まだ若い青年だった。
「礼だと言うのであれば、彼に。あのチェスアトール人の少年が、我らを説得した」
 彼らは詳しく語らなかったが、異能による迫害の歴史が長くこれまで表に出てくるような大掛かりな仕事を嫌っていた黒の末裔を説得するとは、ルルティスは本当によくやったのだろう。
 長はルルティスの方を見つめながら言った。
「皇帝、あなたの力は素晴らしい。だが力だけでは世界は動かない」
「わかっているさ。だから俺はもうすぐ終わる。新しい時代が来る。それは俺という存在を否定して始まる変革だ。お前たちが長い贖罪の年月から解放される時もくるだろう」
 世界は動いていく。維持の時代は終わる。脆かった人類は長い揺籃の時代に十分育まれた。もう、自分の力で飛び立っていける。
「だがその前に、この時代の負の遺産の始末については責任を果たさないとな。――カースフール」
 ロゼウスは呆然と自失する老学者の名を呼んだ。彼は自らの長年の研究が若い意志によって挫かれたことに絶望し、全ての気力を失ってしまっているようだった。
 だが、咎人の本当の絶望はこれからだ。
「第三十三代薔薇の皇帝ロゼウスの名において――」
 その言葉が紡がれた瞬間、カースフールに異変が起こる。
「なんだこれは?!」
「カースフールよ、お前の望み、この世界に学者として名を刻むことを、俺は認めない」
 歴史に名を遺すこと。それは学者を志す人間なら誰もが一度は見る夢だ。
 それが例えどんな悪名であっても、潰えた野望の成れの果てであっても。
 だからこそ、ロゼウスはそれを拒絶する。
「俺はこの世界の歴史にお前の存在を遺さない。異端の錬金術師、元学者カースフール。お前の存在を、この世界から消去する!」
「やめろぉおおおお!!」
 皇帝とその名を継ぐ、継がせた者たち以外には、一体何が起きているのかもわからなかった。指先からすぅっと薄れるように、カースフールの姿が消えていく。
 最後の嫌がらせなのか、カースフールはその姿を薄れさせながらもロゼウスを呪う言葉を吐いた。
「ははは、は。わしが消えたところで、わしの思想そのものは消えはしない。皇帝、いつか貴様の傲慢を断罪する者が、必ず現れるだろう!」
 狂気じみた表情を浮かべる学者の言は、しかし核心をついていた。
「世界は動く! 歯車は廻る! 時計の針を止めることは、いかな皇帝と言えど不可能だ! 技術は進む! 世界は進歩する! その時、貴様の罪は裁かれる!!」
「――だが、私を裁く者は私が決める」
 ロゼウスはカースフールの言葉を否定することなく、静かに微笑んだ。
「終わりだ、デクヴェルト=カースフール」
 そして一人の人間の存在が、この地上から、世界から、歴史から永遠に消え去る。
「……あれ?」
 ルルティスをはじめ、この場にいた者たちは皆きょとんとして小首を傾げた。
「そういえばさっきのあの老人、なんて名前でしたっけ?」
「老人? なんのことだ?」
「俺たち、そもそもなんでこんなところにいたんだっけ?」
 喪失と忘却を代償に、地上に平和が戻った。

 ◆◆◆◆◆

「そ、それであの一件がものの見事になかったことになっちゃってるわけ?!」
 これぞ神のご加護というわけか、ロゼウスがカースフールの存在を消去したにも関わらず彼のことを記憶していたシライナは、周囲と噛みあわない話の理由をロゼウスに問い詰めた。
「この半年の私たちの苦労をどうしてくれるのよ!」
「まぁまぁ。だから、そのあたりの記憶の調整はつけただろう? お前たちは吸血鬼殺人を追っていたのではなく、聖人信仰を広めるための旅に出ていたのだと」
「そう言う問題じゃないのよ!」
 一通りロゼウスに文句を言ったシライナは、表情を改めて問いかけた。
「本当にこれでいいの? 世界はあなたがこの帝国を守るために体を張ったことも、学者たちの奮闘も、黒の末裔の活躍も、カースフールの思想も、何もかも忘れてしまったわ」
 ロゼウスがカースフールの存在を「なかったこと」にしたので、ホムンクルスの事件はそもそも存在から消え去ってしまった。あまり過去に遡って歴史を変えるのはまずいのでそれ以上の変革は与えていないが、少なくともこの数か月にカースフール絡みで起きた出来事のほとんどは、存在しなかったことになる。
 影響自体は残っていても、それがカースフールという人間の引き起こしたことではなく、何か別の要因だったと関係者にとっては認識されているのだ。死者は生き返らないし殺人事件はそのままだが、犯人についての記憶はうやむやになり、人々は自らの記憶の不自然な個所を、適当にわかりやすい理由に置き換えて生きていく。
 だとしたらやはり、カースフールという狂学者の存在はこの世から消されたと考えて良いだろう。
「残っているものもあるだろう。お前たちはレニーのことを覚えている」
「……でも復活したあの子が私たちと過ごしたという時間は、喪われてしまったのでしょう」
 シライナがどうしてもこれだけは知りたいとネクロシアで確認したところ、男娼のレニーという少年に関しては、彼が最初に死んだときのままだった。
 カースフールという存在がなくなれば、レニーがホムンクルスとして造られることもない。彼がシライナたちと言葉を交わしたあの時間も、なかったことになっている。
「それでも、私たちは覚えている。――それでいいじゃないか」
 ロゼウスは歴史の全てを改変するような真似はしなかった。当然だ、どれだけ神に近くとも、皇帝は神ではない。
 手を加えたのは歴史そのものではなく、カースフールの存在を消すために後付けで人々の記憶を操作したというのが正しい。帳尻合わせは楽ではなかったが、だからこそシライナのように一部の人間――彼らと関わりあった人々くらいは、この事件のことやレニーたちのことを覚えていることができたのだ。
 ルルティスでさえカースフールの起こした事件のことはなんとなく覚えているのにその名は忘れているというのは、彼にとって老学者はあくまでも一時的な障害であって、彼の人生観に変革をもたらすような印象的な出会いではなかったということだろう。
 カースフールという人物は、関係者一同にとってさえ所詮その程度の存在にしかなれなかった。酷い言い方だが、そういうことだ。
「あなたは一人で背負うの? どんなに世界が忘れてしまっても、歴史が塗り替えられても、あなただけはそれを覚えているのに」
 全てを記憶しているのは幸せなことばかりとは限らない。
 それでも、忘却を拒否する。忘れられない思い出を抱いて生きることを望む。
「どうせ俺の寿命などあと一年かそこらだ。その間俺が奴のことを覚えていたところで、何になる」
「意味や価値を求めているわけじゃない。私はあなたの心のうちを聞いているのよ」
「――皇帝の心情など、世界に明かす必要はない」
 皇帝は神ではない。
 だが、ただの人でもない。
「それがあなたの生き方だと言うのね」
 魂の対価をカースフールがその存在で支払ったというのであれば、これはたぶん、ロゼウスが自分自身に向けた罰なのだ。人の命以上に深いものを弄ぶこともできる皇帝は、自らにその罪を忘れることを許さない。
「でも、それなら、これもどうか忘れないで」
 歴史が忘れてしまったと言うのであれば、塗り替えられたその上からもう一度刻むとばかりに彼女は繰り返す。
「あなたが私たちのために戦う時、私たちはあなたのために祈る」
 忘れないで。
 祈りは、ここにある。
「あんまり自分を責めるもんじゃないわよ、皇帝」
「責める? 私が? 自分を?」
「他者の存在を消した自分の存在も、この世から消してしまってもかまわないものだと思っているでしょう?」
「……」
 世界中の人々がこの殺戮皇帝のために祈った時間は喪われてしまった。
 それでも、祈りはここにある。
 またもう一度同じ場面を繰り返すのならば、きっとまたみんなが皇帝のために祈るだろう。
「忘れないで、薔薇の皇帝。あなたが世界を想う時、世界もあなたを想っている。この世界に代わりのない人なんていないけれど、それでも今ここにいるのが、他の誰でもない自分であることをどうか歓んで。この世界に存在している時点で、私たちはここに在ることを神にゆるされているのだから」
 この世界には、代わりのない人間なんていない。
 誰かがいなければその代わりは誰かが務めるだけ。それがどれだけ唯一無二の存在であったとしても、誰かが欠けた分、誰かがその存在を補って進むのが世界だ。
 人の生死に意味などない。命にも魂にも価値はない。
 それでも、だからこそ、他の誰かではなく今ここに自分がいること。
 それ自体が、ただ一つの奇跡なのだ。
「レニーみたいに自分の存在は罪だなんてあんたまで言い出したら殴るわよ? 私は聖女として、どんな人間のどんな存在も、神の名において許します。皇帝、例えあなたが誰かを否定したとしても。あなたがあなた自身を否定したとしても」
 精一杯厳めしく言い放つ少女の姿に、ロゼウスは苦笑を堪えながら賛辞と驚嘆の入り混じる顔をした。
「お前はやはり本物の聖女だよ、シレーナ」
「ええ。だって私自身が、そうあるように望むんだもの」

 ――人は、人として産み落とされたから人になるわけではない。自らの意志で人になろうと決めた時、その時初めて、我々は“人間”になるのだ。