146
はじまりはただ知りたかっただけ。自分が何者であるかを。
けれど今は不思議とそういった欲求が抑えられ、ただありのままの自分であり、それを貫こうとしている。
その意味がようやくわかった。
「人は、人として産み落とされたから人になるわけではない。自らの意志で人になろうと決めた時、その時初めて、我々は“人間”になるのだ」
薔薇の皇帝よ、私はあなたの時代に生まれて幸せでした。
◆◆◆◆◆
関わった者たちの記憶の調整になんとか収集をつけて全てが終わり、世界は偽りながらも平穏を取り戻す。その足元で今も誰かが泣いているのだとしても、薔薇の皇帝の治世下は、表面上は酷く穏やかだ。
「――なぁ、ルルティス」
皇帝領に戻り、この一件に関して全ての始末をつけてからロゼウスはルルティスと話した。
聖堂の裏手に広がる赤い薔薇の咲き誇る花畑だ。手入れの難しい花であるはずの薔薇も、ロゼウスがいる限りここでは雑草よりもたくましく咲く。
珍しい蝶がいたといって子どものように走り出したルルティスの背中に、ロゼウスは声をかけた。
「俺が死ぬときは、他の誰でもないお前に殺されたい」
振り返ったルルティスはきょとんと眼を丸くして驚いているようだった。大きな琥珀の瞳が零れ落ちんばかりに見開かれている様子は、彼を実年齢以上に幼く見せている。
何度か唇を震わせて何かを言いかけたルルティスは、結局最後には一度口元を引き結び、あらためて綺麗な笑顔を浮かべたところでようやく会話の続きを息とともに吐いた。
「じゃあ私は、あなたを殺しません」
「あれ?」
当てが外れたのはロゼウスだ。ぱちぱちと不思議そうに瞬きしてルルティスを見返す。
「お前はこの前まで、なんだか事あるごとに俺を殺す殺すと息巻いていなかったか?」
「ええ。そうですよ。でも実際本人から殺されたいなんて台詞を聞いたら意気込みが萎えるじゃないですか」
「ではお前は俺を殺すのをやめるのか?」
「いいえ、やめません。私はあなたを殺します」
「先程の言葉と矛盾していないか?」
「していませんよ。私はあなたを殺すけど、殺さないんです」
「どういう意味だ」
「今はわからなくてもいいんですよ。でも、どっちも真実です。私は皇帝陛下を殺し、そしてあなたを殺さない」
まるで謎かけのような言葉を発して、ルルティスは笑った。
今よりもずっと古い古い時代、ロゼウスの言う意味での神とは違う「神」が信仰されていた時代の話の一つを思い出す。
「バベルの塔は無意味ですよ。いくら共通の言語を理解したところで、言葉はいつだって気持ちに追いつかない。だから人は結局行動で示すしかないんです。まるで神に近づくためにバベルの塔を建てるように」
無意味だと、無駄だと笑いながら、それでも人はバベルに縋るのだ。言葉はいつだって心を代弁できない。それでも目に見えない心を伝えるための手段として、人は天にも届こうかというバベルの塔を建てることを望んだ。
人が生きることそのものがバベルの塔建設のエピソードに酷似しているというのなら、人生とはなんて皮肉に満ちているのだろう。
天の板がある。神と呼ばれるもの、魂の記憶、生命の書。この世の全てが台本のようにそこに記されていて、すでに決まりきった未来をそこから垣間見ることができる。
けれどどんなに神を通じて未来を知っても、人はやはりその時になってみれば思いもかけない現実に気づくのだ。
これは大預言者と呼ばれたハデスの言だ。どんなに未来の預言を知ったところで、その時になってみなければ運命などわかりはしないと。
「あの人の言い分も、一部は理解できるし賛同もできるんですよ」
名前も忘れられた学者がロゼウスに吐き捨てたように、世界は動き、歯車は廻るだろう。進み続ける人類の技術や科学をロゼウスはもう止められない。否、止めさせてはもらえない。
「皇帝陛下、私は――未来が欲しい」
それは狂おしいほどの願い。そして、人の人としての当たり前の想いだ。
「だから私は、その時が来たら、この世界の未来のためにあなたを殺します。薔薇の皇帝という存在を」
ああ、わかっている。
――わしが消えたところで、わしの思想そのものは消えはしない。皇帝、いつか貴様の傲慢を断罪する者が、必ず現れるだろう!
――世界は動く! 歯車は廻る! 時計の針を止めることは、いかな皇帝と言えど不可能だ! 技術は進む! 世界は進歩する! その時、貴様の罪は裁かれる!!
私を裁く者は私が決める。
ロゼウスの傲慢さを断罪するのは、きっとルルティスだ。わかっている。恐らく最初からわかっていた。それでも。
「世界の未来のためではあっても、間違っても世界のためなんかじゃない。ただ私が、今より更に学問が発展していく世界を欲するだけ。でもその世界を創るためにはあなたの存在は不要だ」
「そうだな」
「陛下、あなたは言いました。人は人として生れ落ちたから人になるのではなく、自らの意志で人間になるのだと」
「ああ、言ったな」
「だから陛下、私は私になります。シェリダン=エヴェルシードでも、シェスラート=エヴェルシードでもなく。前世も魂も関係ありません。私は学者のルルティスです」
ロゼウスは真正面からルルティスを見据える。
棘だらけの荊の海の中、しんしんと温度のない雪が降る。降るだけ降って積らずに消える。
目の前の少年の瞳は琥珀だ。あの見慣れた朱金ではない。
「私は学者として『彼』を止めましたが、そのうちに今度は学者としてあなたに立ち向かうでしょう」
ロゼウスがルルティスに話をする前、ルルティスも少しロゼウスに話をした。
それは彼の事情だ。誰から生まれどうやって生きどこに行くのか。
今回の事件の直後、フィルメリアから打診があった。十六年前に失われた王子、ベルンスタインを引き取りたいと。
ホムンクルスを倒すために帝国民全ての魂を繋いだ際、ネクロシアでの戦いの光景が世界中の人々の意識にも行きわたった。最後の最後で学者として登場したルルティスの姿も、皆が知っている。その記憶自体は失われても影響は完全には消えなかったのか、フィルメリアの国王とその第二王妃からルルティスの素性を問い合わせる書簡が皇帝領に届いたのだ。
もともとルルティスの素性には謎があった。過去にフィルメリア貴族との関わりがあったらしいことも明らかだ。
国王夫妻の様子から、薄々察していた事実でもある。けれどこれまでルルティスは、自分がフィルメリアの失われた王子あることを半ば察しながらも、それに対してなんら反応を見せる様子はなかった。
変化があったのは、エヴェルシードでの折に自分の前世がシェリダンだと知ってからだ。そして彼はシェリダン=エヴェルシードではなく自分自身になるために、シェリダンのことを知りたいとロゼウスに言ってきた。
「俺の敵として立ち回るなら、一国の王ぐらいの権力は必要だものな」
「ええ。だから私はフィルメリアの王子に、ゆくゆくは王になります」
学者として皇帝領を訪れた少年は、いつしか王子となって去っていく。そして再び、王でありながら学者として、ロゼウスのもとへやってくるだろう。
この世界を未来をかけた敵同士として。
「――さよなら、ルルティス=ランシェット」
「さよなら。ロゼウス=ローゼンティア」
薔薇の茂みに置いていた荷物をルルティスは手に取る。そして一度だけ優しげに微笑むと、あとは振り返らずに歩いていく。
「……さよなら」
ロゼウスは小さく囁いて瞑目する。その頬を、一筋だけ涙が伝った。脳裏に希望を訴える少女の声が蘇る。
――忘れないで。
それでも、祈りはここにある。
《続く》