薔薇の皇帝 23

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 硝子の馬は目にも止まらぬ速さで宙を駆けた。あっという間にネクロシアといくつかの国を通り過ぎ、シレーナ教の総本山へと降り立つ。
「着きましたよ!」
「待ちなさいよ! 碧の騎士!!」
「じゃ、あとは教会の皆様よろしく!」
 ラクルとシライナの二人を馬から降ろすというより落とすようにして目的地に送り届けたエチエンヌは、そのまますぐさま手綱を引き絞った。
 硝子の馬は本物の動物と同じく前足で土を掻いて、もう一度宙へ跳び上がった。みるみる遠ざかり、やがては砂粒のように小さくなって消える。到底追いつけるはずもなく、シライナはその場で地団駄を踏んだ。
「ラクル様! 聖女様!」
 教会の内部から神官たちがぞろぞろと駆け付けてきた。
「一体どうなさったのです? 今のは皇帝陛下の碧の騎士ではないですか」
「吸血鬼事件を追っていたはずのお二方がどうして」
「まさか、先程の大きな地震と関係があるのですか?!」
 不安が伝播し、年若い者たちを中心に動揺が広がっていく。
「皆、落ち着きなさい!」
 シライナはとにかく周囲を落ち着かせようと、大きく息を吸って声を張り上げた。
「あなた方の危惧する通り、今現在ネクロシア王国の方でちょっとした問題が起きています。ですがそれには現在、世界皇帝が対処にあたっています」
「皇帝陛下が?」
 教会の現在の代表者たちの意志とは相いれない皇帝。それでもそんな事情を知らぬ一般人の神官は、ロゼウスの名を聞いて安堵の息をつく。
 皇帝の威光は絶大だ。この世界の人々は畏れと共に、皇帝という存在への絶対性をも魂に刷り込まれている。
 シライナも心のどこかでは思っていた。今度のこともきっと、ロゼウスが何とかするに違いない。この世界でどんな犯罪が起きようと、戦争が起きようと、民間の手にも王国や教会の手にも負えなくなった時にはきっと皇帝が対処してくれる。
 そう、信じ切っていた。
 ――三度目の地震が大地を揺るがす。
「きゃあ!!」
「わあああ!!」
 そこかしこで悲鳴を上げて倒れる人々。一度尻餅をつくと、揺れが収まるまでとても起き上がれない。
 神官たちは祈りを唱えはじめ、教会に礼拝に来た信者たちも口ぐちに神の名を叫ぶ。
「シライナ様!」
 聖堂の奥の方から、一人の修道着姿の女が駆けてきた。
「ルピナ……」
「大丈夫ですか?」
 黒髪の女は大地の揺れをものともせず、シライナの傍に駆け寄って手を差し伸べた。
「無理に立ち上がる必要はありません。揺れが収まるまで待ちましょう」
「収まらないかもしれないわ」
「……一体、何が起きているんです?」
 ルピナが問いを向けた瞬間、居合わせた者全員の脳天に頭痛のような軽い衝撃が走った。
「痛っ……、な、何?」
 シライナはその痛みの原因を探るように、きょろきょろとあたりを見回す。その隣でルピナが難しい顔をして空の一点を睨んでいた。
 本能的な何かが訴えかける。
「これは……」
 頭痛を感じたのは彼女たちだけではなく、ここにいる全員、否、教会の外側どころか、この世界に住む全ての生き物がその小さな衝撃を感じ取ったようだった。
 その衝撃は小さく、けれど深く、世界中に走り響き渡る。
 脳天を尽きぬけて心臓にはびこり、魂にまで届くかのように。
「まさか、とうとう使うの? “神”を」
 傍らでルピナが口にした言葉は、シライナには理解できなかった。
 黒髪に黒い瞳の女を見上げると、この非常時にも関わらず小さく穏やかな笑みを浮かべている。
「これまでありがとうございました、聖女様。どうぞ今後も、お健やかに。あなたらしく、まっすぐ歩いて行ってくださいね」
「え?」
 まるで別れのような台詞、どこか遠いところに行く者のごとき言葉に、シライナは怪訝な顔をした。
「ルピナ?」
「ずっと黙っていて……あなた方を騙していて申し訳ありませんでした。私、本当はもっと長い名前なんです」
 シレーナ教に入信して聖女の身の回りの世話を任されたその時から、彼女はずっとルピナと名乗っていた。あたかも本名であるかのように。教会の中には様々な立場や身分の人間がいて俗世での素性を隠したがる者は少なくない。だからシライナも他の者たちも、それを疑ったり咎めるようなことはなかった。
「もう、行きますね。長い間、お世話になりましたわ」
 白い法衣が一瞬で黒く染まり、形を変える。ルピナの黒い髪と瞳はそのまま、顔立ちが幾らか今までよりも大人びる。
「薔薇皇帝が苦戦しているようですから、手を貸してさしあげないとね」
 雰囲気は顔立ちより更に大人びて妖艶だ。自らの力に絶対的な自信と誇りを持つ、大人の女の浮かべる表情。
 プロセルピナ。
 それはかつて大地皇帝デメテルの名を持っていた魔女。
「ルピナ!」
 黒髪に黒い瞳――黒の末裔と呼ばれる魔術に優れた一族の容姿を持つ女は、その特徴を裏切らずに高度な魔術の腕前を披露した。
 つまり、その場から転移の技によって一瞬で消え去ったのである。
「ルピナ!!」
 そしてシライナの呼びかけもまた跳ね返る人物を持たず、蒼天に響くままに消えて行った。

 ◆◆◆◆◆

 強気に啖呵を切ったはいいものの、正直に言ってロゼウスは苦戦していた。
(さて、時間稼ぎとは言ってもどうするか)
 ルルティスにはこのホムンクルスを攻略する鍵が見えていたようだが、ロゼウスにはどうやってこのデカブツを倒せばいいのかさっぱりわからない。
 何せこの怪物、攻撃をしてもしても象を蟻が噛む程度の負荷しか与えられない。たまに大技を繰り出して手や脚の一部を抉り取ろうと、すぐに復活してしまう。
 八方塞だった。攻撃の火力が足りない。
(こんなことならば、火薬や銃器の発明をもっと進歩させておくべきだったか? いや――)
 一瞬だけ考えたことを、ロゼウスはすぐに放棄した。
 この四千年間、ロゼウスは学院を作り学問の進歩を促しながら、その一方では技術の発展を巧みに制御していた。
 人が大きな力を持ちすぎないよう。進化した技術が争いに転用されないよう。
 それはロゼウスの意志だ。人々から武力を奪うことで争いを抑える。
 この見解について、ロゼウスは次の皇帝であるフェルザードと対立していた。
 小さな拳銃が当たり前のように存在する時代に生まれたフェルザードは、誰もが手にすることのできる武器の利便性を重視する。それが在れば、例え無力な女子供が屈強な男に襲われても反撃することができるのだから。
 そしてロゼウスが意図的に斬り捨ててきた発展の中には、使い方を誤れば大きな破壊を招くが、平和的に利用すれば更に技術の発展を促進するような人類にとって有用な発見や発明がいくつもあった。
 ロゼウスは人を信用しない。大きな力を持てば、人は必ず争いに使うと。
 フェルザードはそれを否定した。
 強奪や掠奪が人の本質ではない。この地上で唯一、創造という業を与えられたのが人間という種だと。
 力を持つことで一部の人間たちは破壊と闘争に向かうかもしれない。それでも人は、悲劇を越えて真の平和と喜びを生み出していける存在であると――。
 次の皇帝のその意志を聞き、ロゼウスは静かに自らの時代の終わりを確信した。
 もう、この世界に自分という“維持”を性質とする皇帝は必要ない。
 悲劇を消すとは言えない。人が人である以上、対立はなくならない。
 それでも、どんな悲劇でも、乗り越えていけると信じるのであれば。
 ロゼウスは未来を彼らに託そうと思った。過去に囚われ続ける自分ではなく、未来を創る人々に。
 ――けれど。
「それでも」
 ――今はまだ。
 薔薇の皇帝ロゼウスの時代。この時代はまだ三十三代の管轄。
「俺が皇帝だ。俺がこの世界の支配者だ」
 今この時までは、ロゼウスがこの世界の法だ。
 その法の中で、カースフールは既に基準から弾かれた。彼の思想は危険であり、彼の技術は人類にとって毒であり、彼自身は未来には残してはいけない学者だ。
「カースフール、お前は消す。その存在を人類史上に残してはおかない」
 睨まれたカースフールが、ぎくりと一瞬身を強張らせる。しかし好戦的な老人は、すぐに怒りの炎を濁った眼に滾らせた。
「は! 貴様ごときこの研究の素晴らしさを理解できない愚鈍な男が、できるものならばやってみればいい!」
 彼の怒りと連動し、ホムンクルスが動き出す。仕掛けられた攻撃を躱すのはもはやロゼウスには容易い。だがそればかりを続けては疲労が溜まる。
 吸血鬼の体力はただの人間に比べると無尽蔵に近いものがある。けれど生物である以上最低限の休息や補給は必要であり、永遠に活動が続くわけもない。ましてやこんな高出力の攻撃を繰り返していれば、限界は通常よりも早く訪れる。
 一国の民を素手で全員虐殺するのだってこんなに労力はいらないだろう。
 疲労が足を鈍らせ、回避行動が半瞬遅れた。――直撃する!
 しかし予期した衝撃がやってくることはなく、ロゼウスは突如として目の前に現れた黒衣の女に目を見開いた。
「プロセルピナ……いいや、大地皇帝デメテルか!」
「お久しぶり、薔薇皇帝。貴方ともあろう人がなんてザマなの?」
 魔術で障壁を生み出して攻撃を防ぎながら、デメテルは軽口を叩く。
 それは四千年以上生きているロゼウスにとって、今はもう世界にたった三人しかいない自分より年上の人間だ。
 彼の先代皇帝。三十二代、大地皇帝デメテル。
 黒の末裔で、ハデスの姉。
「仕方がないから、力を貸してあげるわよ」
 妖艶な女は傲慢な笑みを見せ、かつて確かにこの世界を支配していた王者の表情で笑った。