薔薇の皇帝 23

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 チェスアトールの学院は酷い混乱に陥っていた。
 かつてこの国に在籍していた歴史学者のルルティス、彼が突如として現れ、伝えてきた情報が原因だ。
「そういうわけなんで、力を貸してください」
 ルルティスは学院の権力者を集めて事情を説明し、ネクロシアでの出来事について一刻も早い対応を要請する。
「カースフール術師は追放されたとはいえかつて一度は学院に籍を置いていた者。そして彼自身がここまで研究を続けてきたと言うのであれば、世間は彼を私たちと同じく学者と判断するでしょう。そんな相手がこのような大罪を引き起こした以上、我々は正しき帝国の学者としてその悪行を挫くべきです」
 ルルティスの熱弁に突き動かされた……というよりもただ学者の性質としての合理的な判断により、チェスアトールの学院はすぐに国家を巻き込んで動き出した。まだそこかしこに混乱が残ってはいるが、錬金術に詳しい教授の指導の下、すぐに現役学者や学院生たちの知恵と知識を結集した対策が取られる。
「だがカースフール術師、彼の研究がこの通りだと言うのであれば、我らの力だけでは不足だ」
 ルルティスは教授に頼まれて、その不足分を補うためにもうひとっ走りハデスの能力で国を移動することになった。
「ではよろしく頼みますよ、勇者アドニスさん」
「その呼び方は止めてほしいけど……わかったよ、学者先生」
 そして二人は、大陸の果ての地、「廃境」と呼ばれる土地に跳んだ。
 そこはかつて、この世界に帝国が成立する前から魔法の業を手にしていた特殊な民族、黒の末裔が住まう土地である。

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス様、まだ生きてますー?」
「生憎と、まだ生きてるよ」
「ちっ」
「舌打ち?! ローラ、今舌打ちした?!」
「いえいえ、なんでもありませんよ」
 教会からはプロセルピナこと大地皇帝デメテル、皇帝領からはローラとリチャード、それにジャスパーの三人が駆け付けた。
 戦力が増し、これでようやく山のホムンクルスと皇帝側で力関係が拮抗した。お互いの攻撃がお互いにそこそこの傷を与える代わり、致命傷には至らない。泥臭い殴り合いにも似た膠着状態だ。
 普通、皇帝は代替わりの際にこの世界から姿を消す。だからロゼウスの先代である大地皇帝がこの時代に存在することを誰も知らない。けれど四千年前の出来事の複雑な事情により、今この世界には現役の皇帝であるロゼウスに継ぐ力の持ち主として、デメテルが存在する。
 もっともとうに引き継ぎはなされているのだから、今の彼女に皇帝としての力はない。それでもそもそも皇帝とは、世界で最も優れた者が受け継ぐ立場だ。皇帝としての力を失って余りあるほどの魔術の才が、ロゼウスの先代であったデメテルにはあった。
 そして事情や経緯はどうであれ、今この瞬間に皇帝に匹敵する実力の持ち主がいることは、ロゼウスにとっては喜ばしいことだ。
 そしてそんな喜びを、冷たい侍女兼子どもの母親があっさりとぶち壊す。
「皇帝の代替わりの際には基本的に先代は運命の導きによって死ぬんですよね。すでに次代皇帝のフェルザード殿下がいる以上、ここがロゼウス様の死地なのかも知れませんよ」
「ローラ……いや、俺も若干そうかなとは思ったけど……」
 ロゼウスは三十三代皇帝でありながら、その手の甲には三十四代フェルザード帝の選定者たる徴を持つ。選定者である以上代替わりの際にも死なずに存在し続けるのではないかと目されているが、本当のところがどうなのかはその状況になってみなければわからない。
「相変わらず仲がいいわねぇ」
 デメテルがとぼけた台詞を口にしながら、ホムンクルスに魔術の技を繰り出す。
 彼女は大地皇帝の名の通り、土に関する魔術を使う。ホムンクルス本体はともかく足下の大地を支配下において、ホムンクルスの動きを鈍らせた。
「さすがに錬金術師の結界内部までは奪い取れないわね」
 カースフールの動きを封じるために結界を壊そうとしたが、デメテルにも短い時間では無理だった。もちろん魔術師としては力量が桁違いなので相応に準備を整えれば簡単に壊せるものだが、その準備をする時間をホムンクルスは与えてくれない。
 カースフールが完全に操作しているならまだしも、一個の生命であるホムンクルスはある程度の操作を受け付けながら、大部分の行動は自分の判断と本能で動いている。そして厄介なことに、ホムンクルスの本能にはその生みの親であるカースフールの命を守ることも含まれているらしい。
「八方塞りって奴かしら。とにかく術師を止めるためにも、まずはあのホムンクルスを何とかしなければならない」
「こちらが迎撃しているからこれ以上国の方には近づきませんけれど、いつまでもそれってわけにはいきませんからね」
 ある意味男たちより余程頼もしく、デメテルとローラの二人はこの危機的状況にもまったく臆した様子を見せずに、ホムンクルスを迎え撃つ。
 一方、早々にこのままでは埒が明かないと判断したリチャードはロゼウスに尋ねる。
「ロゼウス様、何か策はおありですか?」
「俺にはない」
「ちょっと、一発だけ殴らせてください」
「待て待て。俺にはないけれど、ルルティスはホムンクルスを操る術式を解析し、核の位置を探し当てると言っていた。彼が戻ってくるのに賭けよう」
「ランシェット先生がそう仰ったなら大丈夫ですね」
 ルルティスの名に、リチャードは納得した様子で頷いた。自らの主君と居候学者に対する信頼度の逆転はどうしたことか。
「では我々の役目は足止めと時間稼ぎといったところですか」
「そういうことだな」
 彼らは山のように巨大なホムンクルスに視線を向ける。
 デメテルがホムンクルスの足場に負荷をかけ、その動きを制限する。闇雲に腕を振り回すホムンクルスに他の四人が一斉に攻撃を仕掛ける。
 魔力を持たないローラとリチャードはホムンクルスの目や鼻と目される急所を狙って攻撃していた。巨大なホムンクルスからすれば彼らちっぽけな人間など、虫のようなものだ。けれどそれらが目鼻に入れば動揺を誘うことはできる。
 とはいえ、巨人ホムンクルスの頭部に直接向かうには相手の頭の位置は高すぎるのだ。ローラは針金、リチャードは短剣などの飛び道具を用いて遠隔攻撃を連発していた。
 対照的に、ロゼウスやジャスパーは普段は押さえつけている分の魔力をも解放して攻撃にあたっていた。
 相手が巨大でダメージを与えられないならば、少しでも攻撃範囲を広げなければならない。剣を魔力で覆う方法で斬撃を強化し、跳び上がってひたすら斬りつける。
 とはいえホムンクルスの腕は斬りつけた端からぼろぼろと崩れ、ものの数秒で回復してしまう。その上攻撃を外した際や相手の攻撃を避けきれずに喰らってしまった際のこちらのダメージは大きく、只人であれば即死級の負傷をもう何度も負っていた。
 土石流そのもののようなホムンクルスの腕による攻撃で、ロゼウスたちは何度も何度も地に埋もれる。
 衣装は破れ、髪は乱れ、白い肌に幾筋もの血の痕が伝う――。
 しかし長い、長い戦いはまだ始まったばかりだった。

 ◆◆◆◆◆

「このままじゃ埒が明かないな」
「ええ」
「――仕方ないな、使うか。あれを」
 ロゼウスの指す「あれ」が何であるかを知っているのは、この場では同じ皇帝であるデメテルだけだ。
 先程全世界の人々に影響を及ぼした、頭痛のような軽い衝撃がまた走る。
「カースフール。お前はホムンクルスの魂作りには昔から手を抜いていたな」
「ふん、そんなもの必要ない。“レニー”のあれは、カウナードの小僧の研究理論を逆の手法から証明するために完全な復活を試みただけ。本来兵力であるはずの人造人間に、自我の芽生えるほど精巧な魂など必要ない」
「必要ないわけないだろうが」
 カースフールの言葉を投げ遣りに否定して、ロゼウスはついに「それ」を解放する。
 同じ人間である以上カースフールもその衝撃には逆らえないらしく、響く頭痛に顔を顰めた。
「皇帝よ、貴様、何をした――」
「そこが大事というか、それが全てなんだ。人間の魂の奥底には、集合的無意識と言われる領域がある」
 今、全世界、この国だけでなく帝国全てで人々は自らの精神の奥底を蠢く力を感じていることだろう。
「神に逆らう異端の科学者よ。太陽に近づきすぎた者よ。教えてやる」
 ロゼウスは薄く笑って言った。
「これが、神の正体だ」