薔薇の皇帝 23

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 駆け出そうとしたホムンクルスの足の一本が断ち切られる。
「フェザー!」
「先程は油断しましたが、そうやられっぱなしではいませんよ」
 剣を構えなおしたフェルザードは、多少の土に汚れていることを除けば特に大きな怪我もない。早々に土砂の下から這い出た彼は、とにかくホムンクルスの動きを止めるために攻撃したようだ。獣の足自体は他の部位より細く位置も低いために、人型ホムンクルスの頭部を狙うよりもやりやすい。
 四足となった途端にその足の一つを切り離されたホムンクルスががくりと大きくバランスを崩す。その間にデメテルたちが動いた。
「そうね! 足の一本でも、とにかく動けなくすればいいのよ!!」
 巨大なホムンクルスの足の一本に集中してデメテルは大地と樹木の呪いをかけた。四足全ては無理でも、足の一本を大地に固定するだけなら少しは時間が稼げる。
 もともと土でできたホムンクルスはフェルザードに斬られた足もすぐに回復しそうになるが、切り離された足が回復しそうになる直前でフェルザードは再び別の足を斬りおとした。横倒しになったホムンクルスに、ロゼウスが荊の蔦を巻きつける。
「だがこれも長くはもたないな」
「私たちの体力もそろそろ限界だからね」
 ロゼウスの顔つきが心持ち厳しくなる。
(まだなのか、ルルティス――!!)
 ホムンクルスの弱点を探るのは、ルルティスが知り合いの学者たちと協力してなんとかしているはずだ。丸一日以上過ぎているのに、今まだ音沙汰がない。世界の凡そ反対側にあるエヴェルシードからフェルザードが到着するくらいなのだから、転移の出来るハデスを連れているルルティスは解析が終わったのなら戻ってきてもいいはずだ。まだ学者たちの計算は終わらないのか。
「王子! 引きちぎられるわよ!」
 ロゼウスを昔のように王子と呼ぶのはデメテルだ。彼女の仕掛けた蔦の拘束が、ホムンクルスの力任せの行動によって引きちぎられていく。
「フェルザード、もう一本行けるか!」
「承知!」
 ロゼウスが声をかける頃には、すでにフェルザードは動き出していた。魔力を通わせた刃が、三本目の足を斬りおとす。しかしその頃には他の二本がとうに回復していた。一方のフェルザードは、大技を短時間で連発したためかすでに息が荒い。
「殿下! 避けて!」
「わっぷ!!」
 足を斬りおとした次の瞬間の隙を衝かれて、フェルザードが再び尾によって振り払われた。返す勢いで他の者たちをも薙ぎ払おうとしたその尾から、ローラたちは必死で逃げる。
「ははは! 無駄だ無駄だあ! わしの兵器は最高じゃ! 誰も敵うはずなどない! 皇帝と言えどもな!」
 結界の内側で高笑いするカースフールのことは無視して、ロゼウスたちは四足の怪物へと変わったホムンクルスと睨み合う。
 何とかホムンクルスの動きを止めようと奮闘するロゼウスたちの周囲で、リチャードやジャスパーも地道に目や顎などの急所を狙う。エチエンヌが手綱を握るアレイオンの背に乗ったローラが、上空から攻撃を仕掛けた。
 それでも彼らは、ホムンクルスの行動をほんの僅か鈍らせるだけで精一杯だった。
「もう、街まで距離が……!」
「私たちの体力も限界よ!!」
「仕方がない! お前たち、あともう少しだけそいつを抑えておけ!!」
 言って、ロゼウスはホムンクルスの背を踏み台にしながら宙に跳び上がった。
「大陸を割るぞ! 巻き込まれて死ぬなよ!!」
 このままネクロシア王国を巨人に蹂躙させるぐらいならば、ホムンクルスが今足場にしている大地ごと沈める。それがロゼウスの考えだった。皇帝にはそれができるだけの力がある。
 ロゼウスは指先に力を溜めはじめた。
 その時。
(何勝手に地形を変えようとしてるのよ)
 脳裏に響いた声と共に、ロゼウスたち皇帝側は自らの体力、気力が癒されていくのを感じた。
「ぐっ! なんじゃこの歌は!!」
 一方カースフールは煩わしげに自らの両耳を手で塞いだ。ホムンクルスも彼ほど顕著ではないが、僅かに顔を歪めるような仕草をして縮こまる。
「歌?」
 歌だ。確かに。
「これは……聖歌?」
 少女の声、少年の声、子どもの声、老人の声、女の声、男の声、平民の声、王の声、神官の声、罪人の声。
 身分も年齢も性別も関係ない。この世界のありとあらゆる生き物が、今、皆で祈りの歌を歌っている。
 その歌声に込められた気持ちが、ロゼウスの利用する“神”を通じて彼らに流れ込んでくる。
(皇帝、聞こえる? どうせあんたのその能力で聞いているんでしょう? 私たちが今あんたの姿を見ることができるように)
「シライナ……」
 歌声に紛れてロゼウスの脳裏に語りかけてきたのは、シレーナ教の聖女、シライナだった。
(ラクルが教えてくれたのよ、あんたがこの術を使っている間なら、私たちの祈りが神に届くって。だから、だから……これは帝国民全ての祈りよ)
 もともとロゼウスは“神”を利用して帝国の民の力を吸い上げていた。その調達先から、ロゼウスの予想を越えた力がこうしてシライナたちの働きかけによって届けられたのだ。
 ロゼウスたちの戦いの意味を知っていった聖人二人は、彼らのために何ができるかを考えた。もともとカースフールは、教会の方でも追い続けていた獲物である。
 無数の人々の命を研究に捧げ、人でも魔物でもない異形の者を造りだし続けてきた。カースフールはレニーの仇だ。
 祈りの歌に癒されて、本来これまでの行動によって疲れ切っていたはずのロゼウスたちの力が回復する。身体の奥底から気力、体力ともに沸きあがってくるのを感じた。
 身体的な傷が癒されたのもありがたいが、何より気力が戻ったのがありがたい。
 これまではいくら半不老不死の肉体を持っているとはいえ、一瞬も油断できない終わりの見えない戦いに彼らは気付かぬ間に随分精神力を削られていた。
 けれど世界中から届けられた聖歌により、ここで倒れても終わりではない、何よりこんな場所で倒れるはずがないという精神的な支えを取り戻す。
 シライナはその光景を感じ取りながら、笑みを浮かべた。顔見知りを片っ端から説得し、自らもこの事象を逆手に取り世界中に呼びかけた甲斐がある。
(勝って。勝ちなさいよ、皇帝)
「はぁああああああ!!」
 フェルザードがホムンクルスの鼻面を斬りつける。
 ギャオォオオオン!!
 獣に似た姿となったホムンクルスは顔面への攻撃に動揺したのか、一歩退いた。前足が地面から離れた隙に、デメテルがホムンクルスの体に巻きつけた蔦を渾身の魔力で引っ張る。
「せやぁあああああ!!」
 不意を衝かれたホムンクルスは、大きな地響きを立てて地面に倒れ込んだ。不自然な体勢で地に伏したその姿に更にデメテルは魔法の網をかける。ロゼウスも荊を駆使してその手足を絡め取った。
 聖歌はロゼウスたちの気力体力を回復し、能力を限界まで底上げした。一方で敵であるホムンクルスやカースフールの動きは抑えているのか、獣型のホムンクルスの動きに先程の鋭さが感じられない。カースフールに至っては結界の内側だというのに耳を塞いで蹲っている。
「何故じゃ、何故、このような……」
 妄執に憑りつかれた老学者は、ぶるぶると震えながらも青筋を立てて虚空を睨み付ける。
「祈りが皇帝の力に変わるだと! そんなふざけたことがあるものか! ならばこの世界には、わしの他にもっと皇帝を憎む者はおらんのか!!」
「無駄だ、カースフール」
 荊の蔓でホムンクルスを絡め取りながら、ロゼウスは蹲るカースフールに言葉をかけた。
「この祈りは、厳密には俺たちのためのものじゃない。この世界が危機に瀕した際に当たり前のように人々が願うこと、その力が今は俺たちの力になっているだけだ」
「どういう意味だ」
「愚かにして聡明な科学者よ、お前も本当はもうわかっているはずだ」
 “神”は万能だが全知全能ではない。ロゼウスを憎む人間があえてこの場で彼の足を引っ張るような器用さを“神”を通じて発揮することなどできはしない。
 この祈りは、人間という生き物の根幹そのものだ。
「俺たちがお前を排除しようとしているんじゃない。この世界はすでに、お前という異物を認めない」
 歌声が響く。
(あなたが私たちのために戦う時、私たちはあなたのために祈る)
 皇帝が外敵と判断したホムンクルス。カースフールの手によって生み出された、魂のない危険な器。それはこの世界に存在する必要のない異物だ。
 カースフールが口にしたように、この世界に殺戮皇帝と呼ばれるロゼウスを憎む者は多いだろうしそれがカースフールだけとも思えない。皇帝に恨みを持つ人間はもっと大勢、それこそ国単位でいるはずだ。
 けれどそんな彼らとカースフールの違いは、この世界そのものをどうこうしようという野心がないこと。
 どんな絶望や罪を間近にしようとも当たり前のように日々を生き、明日を望む人の心。
「異端の錬金術師よ、これが世界の意志だ」