薔薇の皇帝 25

第17章 理想郷の果て

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 皇帝には毎日、いくつもの書簡が届けられる。
 しかしその日、帝国宰相リチャードが直々に届けてきたそれに、ロゼウスは驚きを露わにした。
「セラ=ジーネから? 珍しいな」
 書簡、手紙とは言うものの、その形態はコルクの栓をされた小瓶である。薄青く透ける鱗と共に、丸められた羊皮紙が入っていた。
「どちらだ? と言っても、この形からすれば答は一つか」
「セラ人です。セラの人魚の王からの書簡にございます」
 ロゼウスが予想した通りにリチャードは答え、リチャードが差し出すそれをロゼウスは受け取る。
 瓶詰めの手紙と鱗。これが人魚たちの書簡代わりだ。
 広大な帝国には、人類と共に三種だけ魔族が存在している。
 ローゼンティアの吸血鬼(ヴァンピル)、セルヴォルファスの人狼(ワーウルフ)、そしてセラ=ジーネの人魚(マーメイド)。
 他の二種族と人魚の違いは、彼らの国の形態にある。セラ=ジーネは人魚と人間の二種族が統治する国家なのだ。
 かの国の海岸から沖合にかけては、昔から人魚が棲んでいた。彼らはセラ族と呼ばれ、その海岸を領土に持つ国がどれ程発展しようと住まいを変えることなく生活していた。
 ある日一人の男が人魚たちとの交流を求めた。ジーネと言うその男は人魚たちに海の知識を教わり、彼らの加護を受けることで国の海運業を爆発的に発展させた。
 セラの人魚も人間たちと協定を結ぶことによってお互いの領域を荒らすことなく地上の恩恵を受けられることを知り、両者は共存して一つの国を作ることを約束した。
 そうしてセラとジーネはセラ=ジーネ王国と名乗ることになる。
 対外的には一つの王国だが、統治者は常に二人。セラにはセラの、ジーネにはジーネの王がいる。
 人間の国家の方が多い帝国では普段、ジーネ王がセラ=ジーネの代表として一切を取り仕切る。だが、今回ロゼウスに送られてきた手紙は、珍しくも人魚王が差出人であった。
 コルク栓を開けると小瓶内の鱗から蜃気楼が立ち、羊皮紙に書かれた言葉を作者の幻が語りかけてくる。
 帝国に生きる三種の魔族の中では、この人魚族が一番魔術に優れている。それでも人間である黒の末裔の足下には及ばないが、海中で独特の暮らしをしているだけあって地上には存在しない術をいくつか使う。
「偉大なる皇帝陛下よ、我らセラの人魚は薔薇の支配者に御挨拶申し上げます。この度は我らと我らが盟友の王国セラ=ジーネで起きた事件について、偉大なる方の御手をお借りしたくこうして書を差し上げました」
 おぼろげな幻ではあるが人魚王の美しさを感じさせる蜃気楼が終わり、ロゼウスは彼の言葉の内容について、机に頬杖を突きながら考え始めた。
「人魚の失踪事件」
「恐らく誘拐ということでしょう。痕跡はないようですが、そもそも人魚に彼らの領域を離れる理由はなさそうですし」
 リチャードが近年のセラ=ジーネ王国周辺の治安や情勢をまとめた資料を差し出してくる。
「そうだな」
 ロゼウスはその紙面に目を通しながら、魔族としての人魚の生態に思いを馳せる。
 人魚と言うのは魔族の中でも特に扱いが難しい種族だと考えられている。
 ローゼンティアの吸血鬼やセルヴォルファスの人狼と違い、棲息地が限られているからだ。
 ただし魔族から見た魔族の扱いやすさと、人間から見た扱いやすそうな魔族の印象は違う。
 下半身が魚である人魚たちは、大抵美しい容姿を持ち神秘的な生き物と称される。
 美しさだけなら吸血鬼たちも負けてはいないが、吸血鬼はその名の通り人の血を吸うという性質から恐れられている。
 そして。
「嫌な予感がするな」
「人魚と言えば……定番の伝説ですね」
 ローゼンティアの吸血鬼が人の血を吸い己の配下と化すことで人に不老不死を与えると伝えられているように、人魚にも不老不死の伝説はある。
 しかしそれは吸血鬼のように彼らの意志で人に与えるものではなく、人魚の命と引き換えに永遠を得るもの。。
 人魚の生き胆を喰らえば、不老不死になれる――。
 それが真実であるかどうかは関係ない。そう信じられていることが問題なのだ。
 ロゼウスの退位が決定した世界は今、明確な形のない不安に包まれている。
 無数の死と争乱を招くとされる皇帝の代替わりに際し、永遠を求める人間の欲が人魚に向かった?
 永い永い帝国の歴史において、その時々の時節における問題こそあれど人魚たちは概ね平和に暮らしていた。
 だから人々は忘れているのかも知れない。吸血鬼と人狼、その二種族と肩を並べる魔族としての人魚の恐ろしさを――。
 何事もなければいいが、恐らくそう上手くはいかないだろうとロゼウスは陰鬱な溜息をつく。
「いかがなさいますか? ロゼウス様」
 リチャードの問いに答える。
「行くか。人魚の国セラへ」

 ◆◆◆◆◆

「御足労をおかけいたしました、陛下」
「いいや。他の種族ならまだしも、お前たちだからな」
 人魚は海に棲む。下半身が魚なのだから当然だろう。
 魚と違って淡水海水問わず、川でも湖でも水のあるところであれば海と同じように活動できるのだがあまり知られてはいない。
 セラ=ジーネの人魚はそれだけ国外に、彼らの住まう領域の外に出ないからだ。
 ロゼウスは皇帝と言うよりも、帝国における魔族の権力者として事件を解決するためにセラ=ジーネにやってきた。
 まずは「書簡」の差出人であるセラ族の王との謁見だ。人間よりも形式に拘らない魔族の感覚としては、謁見と言うよりも面会と言った方が正しいだろう。身分で言えば普通は相手が訪れるべきところを、こうして皇帝の方から赴いている。
 今いるのは、海上から海中まで聳え立つ大きな岩を削り出して作った城の中だ。人魚の王の玉座部分だけは海水に浸り、訪問者はそのまま濡れずに対応できるという特殊な造りになっている。
 一口に岩でできているとは言っても、内部は真珠と珊瑚で飾られた美しい城だ。しかし海の沖合にあるだけあって常にまとわりつく潮風がロゼウスにはどうにも落ち着かない。
「失踪事件は全てセラ=ジーネ国内で起きているのだろう」
「……ええ」
 さっそく本題に入ると、人魚の王は美しい顔を曇らせる。
 最初に消えた人魚は、もう三か月も行方不明になっていると言う。そうして消えた家族を探しに行った者たちもまた行方不明となる。 失踪者が二桁を超えた辺りで、国内の捜査の進展に痺れを切らした人魚の王はついに皇帝へと依頼をした。
「失踪事件とあったが、誘拐ではないのか?」
 まずは一番大事なところを確認しようとしたロゼウスだが、王の返答はどうにも芳しくなかった。
「先例から考えますと誘拐だと思われますが、残された状況を捜査しても失踪か誘拐か判断がつかないのです」
「捜査の様子は?」
「ジーネの警吏たちは人間たちの事件と同じように真摯に捜査してくれているように私の目には見えました。それ故に、わからないのです」
 人魚と人間が共存するセラ=ジーネ。しかし同族間の争いがほとんどない人魚たちには警察権という考え自体が馴染まない。そのためセラ=ジーネで起きた事件は全て人間の警察が捜査することになっている。
 人間と人魚の間に確執があると捜査の不正など考えられそうなところだが、人魚王の見解としてはそれはないらしい。
「貴族の動きは?」
「私に探れる範囲で探りましたが……。ただ、王家はこの件に関与していないようです。彼らも困惑していましたので。学者を派遣してくれるとまで言っていたので恐らく不正はないかと」
「そうか……それがわかっただけでもまだマシだな」
 警察の捜査に不正がないからと言って、犯人が人間でないとは限らない。権力者が本気になって事態を隠蔽すれば、末端の捜査員たちに気づかせないまま事件を闇に葬る可能性もある。
 今回は事件自体を握りつぶすような動きがないことから、人魚の王は捜査に不正が行われているわけでも、どこかの貴族がそれを隠蔽しようとしているわけでもないと判断したらしい。
 そしてこの国で最も敵に回すと面倒な「人間」――ジーネ王家はこの件には関わっていないと。
 王家が関わっていた場合問題が大きくなりすぎるとロゼウスは危惧する。皇帝としてなんとかできないこともないが、ただでさえ情勢が不安定になっているこの時期にセラ=ジーネ王国そのものと事を構えるのは面倒だ。
 あらゆる可能性を脳内列挙して目まぐるしく計算を働かせながらも、ロゼウスはどこか別の場所で感傷に耽っていた。
 学者という言葉にルルティスのことを思い出し胸が痛む。
 もちろんそれを気にしてばかりもいられないのですぐに思考を立て直した。当たり前だが、そうすると今度は今現在そこに存在する問題と直面しなくてはならない。
「私は魔族として、人間とは違う見解から捜査をするべきか? ……しかし、学者が来るなら私がわざわざ来なくても良かったのではないか?」
 魔族の特性を、最もよく知るのは同じ魔族。しかし人間であっても、学者に関してはこの限りではない。
 短い命であるからこそ知識を詰め込むことに余念のない人間の学者は、時に魔族自身よりも魔族に詳しい。
「申し訳ありません。人間の学者では万が一魔族が関わっていた場合対処を謝るかと……。しかし、杞憂だったようです」
 ぱしゃんと水音を立てて、人魚王の足下の水面から顔を出した側近が報告する。それはこの場に丁度良い報せだったようだ。
「皇帝陛下、学者殿が到着されました」
 いくら学者とはいえ、即座に玉座の前まで通されるとは。
 だが、やってきた「学者と呼ばれた人物」の顔を見てロゼウスも納得した。
「ヴィンセント=セルヴォルファス。お前だったのか」
「お久しぶりです、皇帝陛下」
 そこにいたのは、学者の卵兼セルヴォルファス――魔族の一つ、人狼の国の王子である少年だった。