薔薇の皇帝 25

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 港の汽笛の音と共に夜が来る。
 潮騒の聞こえる海辺近い街はすでに人の姿も疎らだ。
 あと数刻もすれば完全に人気がなくなるだろう。それまでには、海に。
 人間たちの住まう街へ向かう足取りと、海へ向かうその足取りはまるで逆だ。
 顔を隠すフードから白い髪が零れ出している。
 海へ帰る人魚の足取りを、一つの影が追ってきた。
 そして元々の人口密度の低さと夜が更けて人気が絶えたところで、その影は動き出す。
「!」
 足音もなく近づく気配。
 背後から迫る殺気に気づき、ロゼウスは半身振り返った。
「随分あっさりと引っかかってくれたものだな!」
 全身を包むローブを剥ぎながら、歓喜の声で見事引っかかった犯人を迎え撃つ。
 すでに人魚失踪事件は国中の噂として昇り、ここ最近人魚たちが人間の街を訪れる回数は非常に少なくなっている。
 これ見よがしな囮など果たして食いつくのだろうかと自分たちも半信半疑だったのだが――。
「ヴィンセント」
「ここに」
 皇帝の呼びかけに応え、夜の街の気配に同化して後を追ってきていたヴィンセントと青年が姿を現した。
 ごく単純な二重尾行だ。ヴィンセントだけならばともかく、素人の青年を連れているために気配を隠すにも限度がある。相手がもう少し手練れだったならすぐにばれていたことだろう。
 戦力になるかならないかはともかく、青年も加えた三人で、囮に引っかかった追手を包囲する。
 ゆらりと蠢く人型の影が、懐から刃を取り出し構えた。
 ――それを見てロゼウスは顔を顰める。
「え?!」
 青年が驚きの声を上げた。信じられない、と呆然と呟く。
 尖った耳の襲撃者は闇にも浮かび上がる蒼白な肌をし、濡れたような質感の長い髪を振り乱している。
「まさか、人魚が同じ人魚を襲っていたとはな」
 苦い顔でロゼウスは呟く。
 いくらなんでも犯人に関する証言が見つからなさすぎることで、犯人が魔族である可能性は充分にあった。
 ローゼンティアの吸血鬼にしろセルヴォルファスの人狼にしろ、魔族ならば人目を盗んで動くことにも長けている。
 人間と違って幾日も休まずに行動することが可能な魔族であれば、最初から捜索条件を変更しなければならない。
 しかしここ最近ロゼウスとヴィンセント以外の魔族が国外からセラ=ジーネに入国した形跡は表でも裏でも存在しないという。
 もちろんそれだけで魔族が犯人と決まったわけではなく、人間の誘拐組織が巧みに人魚を攫った可能性も十二分に残っている。
 本当に魔族――人魚自身が同胞である人魚を誘拐しては売り払っているなどということは、考えたくはなかった。
 しかし現実に、囮を務めたロゼウスを襲って来た相手は、セラ人特有の容姿を持ち合わせていた。
 動揺する青年を下がらせて、ロゼウスとヴィンセントはそれぞれ戦闘態勢に入る。
 魔族同士の戦いになるということで、二人とも剣は抜いていない。
 人間相手であれば手加減のために型が限定される剣を使うこともあるが、魔族が相手であれば遠慮などいらない。柔な肉など貫ける素手の方が余程強いのが魔族というものだ。
 だが、襲撃者であるはずの人魚と戦闘を開始早々、ロゼウスたちは異変に気付いた。
「陛下、これは……」
「なんだ、この動き……」
 襲撃者である人魚の動きは単調だ。バカの一つ覚えのようにただひたすら短刀を振り回す。
 一般的に吸血鬼や人狼と違い、人魚は陸の上では身体能力が著しく下がるとされている。その代わり海中では無敵とされるが、陸の上の港町では吸血鬼どころか人間にも敵わない。
 嫌な予感は尽きない。
 光を失った目には正気どころか意志の光すら見えず、ただ手足の動く限り攻撃を仕掛けてくるだけだ。
 その姿はとても生ある者には思えない。
「皇帝陛下!」
 月明かりの中でなんとか人魚の相貌を確認した青年が今度こそ悲鳴交じりの声を上げる。
「その人魚は事件の被害者です! 三件目にいなくなったはずの人魚です!」
 恋人が人魚だった若者は次々と同胞がいなくなると言う話を彼女から聞いていた。恋人との繋がりで人魚の知り合いもそれなりにいた。
 ロゼウスは覚悟を決めて攻撃を仕掛ける。
 大して力を込めたわけでもないその一撃で、人魚は地に崩れ落ちた。糸の切れた人形のように。
 力なく横たわる体をそっと抱き起こす。
 当然のように、すでにその身は心の臓を止めていた。

 ◆◆◆◆◆

 被害者であるはずの人魚が襲ってきた。
 だが、襲撃者であり被害者でもあるはずの人魚はすでに死んでいる。
 ロゼウスが今殺した訳ではない。その前からすでに命のない抜け殻は動いて、人魚に変装した囮のロゼウスを襲ってきた。
「ど、どうして」
「……」
 青ざめる青年の隣でヴィンセントが不快そうに鼻を押さえている。
 魔族どころかこの地上に存在する全ての生物の中で最も鼻の良い人狼にはきついのだろう。
 倒れた体から漂う、生臭い微かな腐敗臭が。
 下半身が魚である人魚の死体が生臭いのは仕方ない。その中から更に潮の香りと入り混じる血臭を嗅ぎ分け、ロゼウスは人魚の纏っていた長衣を剥ぐ。
「これは……」
「ええ?!」
 その体からは、肝が抜かれていた。腹部にぽっかりと空いた穴から赤黒い中身が覗いている。
「し、死んでる? 最初から、死んでいたってことですか?!」
「そうとしか考えられないな」
 操り人形が崩れ落ちたその時から予感されていたことが、はっきりと形になる。
 ふいに、ロゼウスは近くにいる「人間」の気配に気づいた。路地裏に潜んでいた男に、吸血鬼の身体能力で飛び掛かる。
「ぎゃっ!」
 人魚に人魚を襲わせる策が失敗して様子を見ていた男は、あっさりと皇帝の手に落ちた。
「貴様が、人魚連続誘拐事件の犯人か?」
 見るからに下っ端だと思いながらも、ロゼウスは一応男に問い質す。こうして追い詰めればすぐに主犯の居所を吐くだろう。
 腕を捻りあげられた男は、痛みに耐えつつも否定する。
「ち、違う!」
「では主犯は誰だ? 屍を動かす魔術など、誰が行った!」
 男はぱくぱくと口を動かしながら、ただ必死で指を指す。ロゼウスはその指が自分に向けられたものだと思い顔を顰める。
 ふいに、その視線が自分を通り越していることに気づいた。
 違う。男が本当に示したかったものは――。
 殺気を感じて振り返る。だが遅い。
「!」
 人間相手ならば躱せたはずの攻撃だが、その「手」はしっかりと脇腹を抉り取って行った。
 刃物の冷たさとは違い、同化しそうな体温がごっそりと肉を持っていく。
「何故……」
 この場でそんなことができるのは一人しかいない。青年は驚きすぎて腰を抜かしている。
「何故?」
 ヴィンセントは――否、彼の顔をした何者かが笑う。
「決まっているじゃないか」
「……お前は誰だ。人魚の屍に禁術を施したのもお前か」
「禁術? 笑わせてくれる。死者を動かすのはお前たちの得意技だろう、ヴァンピル」
 くすくすと笑うヴィンセントの表情はやはりヴィンセントのものではない。
 あのどこか憂いを帯びた王子と、今ここで笑顔を浮かべる相手は違う。
 だがその肉体は間違いなくヴィンセントのものだった。
「どういうことだ……?」
 目の前にいる相手に多少ではない既視感を覚え、ロゼウスは目を眇める。
 少年は笑う。彼ではない別の存在の顔で。
「酷いなぁ、ロゼウス。まだあれから四千年しか経っていないのに、もう僕を忘れたの?」
 淡い茶の髪、薄い灰色の瞳、柔らかな毛の生えた狼の耳と尾。そこまでは何の変哲もないセルヴォルファス人の特徴。
 けれどこの顔、この顔。
 ロゼウスにとってのセルヴォルファス人の印象を作り上げた最初の一人。
「ヴィル……?」
 ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。
「そうだよ、ロゼウス」
 やっと思い出してくれたんだね、と口の端を吊り上げる「ヴィルヘルム」の手のひらから、その鋭い爪で抉り取ったロゼウスの肉片がぼたぼたと落ちた。
「どうして、お前が……」
「ヴィンセントが言っていただろう。セルヴォルファスに穴が開いていると。頑張ったんだよ、この四千年間こつこつと。僕の精神と同化できる同族を見つけてはその穴を広げさせて」
 言っている内容は一見支離滅裂で意味が不明だ。けれどロゼウスが知るヴィルヘルム、彼が死者であるという大前提を元に推測すると、あることが思いつく。
「まさか」
「苦労したよ」

「子孫の肉体を乗っ取って、冥界と地上を繋ぐ風穴を開けさせたのか?!」
「本当に苦労したよ――お前に復讐するために!」

 死者であるヴィルヘルムにとって、地上に生きる者の心も肉体も平穏も日常も、もはや何もかもがどうでもいい。
「この子も代々のセルヴォルファスの子たちも人魚も、とても良い仕事をしてくれた。死霊術はそのほんの礼さ」
「ヴィルヘルム……!」
 容赦なく肉を抉り取られたとはいえ、吸血鬼にとってその程度の負傷は掠り傷のようなものだ。ロゼウスは地を蹴りヴィルヘルム――ヴィンセントの肉体を確保しようと動き出す。
 だが、負傷した吸血鬼と万全の状態の人狼ならば後者の身体能力が当然勝る。
「待っているよ、ロゼウス」
「皇帝陛下」
 少年の唇から零れ落ちる声の抑揚が、ヴィルヘルムのものから切り替わる。
「ヴィンセントか」
「はい……陛下、お待ちしております。どうか、どうかセルヴォルファスへ――」
 ヴィンセントに全てを言わせぬまま、またヴィルヘルムが声を上げた。
「僕を追って来い、ロゼウス。今度こそ貴様を冥府の十字に磔にしてやる」
 狂ったような笑い声をあげて、ヴィンセント――その肉体を乗っ取った四千年前の死者であるヴィルヘルムは、この場から姿を消した。