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慌てる青年を宥めて、ロゼウスはひとまず自分の傷を塞ぐ。
「あの、あの人狼の王子のことは――」
「後だ」
ヴィンセントのこと、彼を操るヴィルヘルムのこと、そしてセルヴォルファスのことは確かに気にかかる。
だが今のロゼウスは、皇帝としてセラ=ジーネの人魚誘拐事件を解決するためにここにいるのだ。
「……でも」
「今は人魚が先だ。そうだろう?」
青年は青褪めながらも頷いた。到底納得した様子ではなかったが、どちらによせ彼にこの状況が何とかできるわけでもない。
「セルヴォルファスが噛んでいたということは、これは単純な誘拐事件ではなさそうだな」
魔族の特性を熟知した人狼が、わざわざ別種族に手を出したことが気にかかる。
そしてここまでした割に、あっさりとヴィルヘルムは引き下がった。
嫌な予感がちりちりと腹の中を焦がす。
すでにヴィンセントの気配はセラ=ジーネ国内から消えている。どんな手を使ったのかという問いは、彼の身を冥界からヴィルヘルムが操っているとわかった今ではただ無意味だ。
無限の時間を持つ死者が練り上げた魔術。人狼は吸血鬼より更に魔術の適性が低い種族だが、四千年もの時間があれば相応に上達するだろう。
ヴィルヘルムの本命はセルヴォルファス国内にあるのは間違いない。セラ=ジーネに手を出したのはロゼウスに自分の存在を知らせる切欠作りに過ぎない。
この事件はこの事件で解かねばならない。
ヴィンセントのことは気になるが、わざわざ追って来いと言ったからには、ヴィルヘルムも彼をすぐに殺すことはないだろう。そんなことをすれば、せっかく地上で活動するために得た肉体を失う。
だからこの事件の解決が先だ。
そこに見える結末が、すでに最悪のものでしかなくとも。
「お前はもう帰れ」
「いいえ、ここまで来たら最後まで。それが、例えどんな結果であっても――」
不穏な空気を感じ取った青年もすでに覚悟を決めているのか、ロゼウスについて行くと言った。
そして人魚の屍を見張っていた男から本拠地を聞きだし、彼らはついに誘拐事件の首謀者と対面する――。
◆◆◆◆◆
捕らえた下っ端の男を皇帝の権威で畏れさせ、ロゼウスたちは首謀者に関する話を聞きだした。
死霊術の見届け人を任されるだけあって、男は事件の首謀者からその根拠地、何から何まで知っていた。それを吐かせ、根拠地までの道案内をさせる。
建物の入り口から通路から全てを塞ぐ連中を薙ぎ払い、最奥へと辿り着いた。
そこで目にしたものは。
「……ヴィンセントが関わっていると知った時から、嫌な予感はしていた」
人狼であるヴィンセント――ヴィルヘルムが協力しているということは、相手は人間でない可能性が高い。
「人狼は帝国に籍を許された三種の魔族の中で最も閉鎖的な種族だ。人間を見下し侮っている。その人狼が、いくら私を罠に嵌めるためとはいえ、人間と手を組むとは思えない」
そう、彼は人間と手を組んだわけではない。
「お前が人魚誘拐事件の犯人か? 美しき人魚の一人よ」
白金の髪に碧い瞳、蒼白な肌。
下半身は光の加減できらきらと色を変える鱗に覆われた魚の尾びれ。
ロゼウスの目の前に待ち受けるのは、一人の人魚だった。
「同胞を売り渡したのか」
「そんな……!」
恋人を攫われた青年が絶句して驚愕する。彼は恋人の身を案じてはいたが、それでも犯人は人間だと疑ってはいなかった。まさか同じ人魚が仲間を売り払うはずなどないと。
皇帝を前にし、もはや裁きを待つしかない事件の首謀者は笑う。
「あなたにはわかりますまい。偉大なる皇帝よ。薔薇の時代は終わると、滅びを前にしたか弱き我らの足掻きなど」
「それが同胞を殺し、その屍を操り罪を重ねる理由になるのか」
人魚は凪いだ微笑みを浮かべている。
その笑みにロゼウスはふと、姉のルースを思い返した。避けられぬ未来を知っていてなお自らの望みのために兄につき従っていた彼女もよくこのような表情を浮かべていた。
「どうせ死ぬのであれば、後も先もないでしょう。彼らの死も私の死も、ほんの少し早いか遅いかの違いでしかない」
血と死でもって支配を重ねてきた殺戮皇帝の治世において、滅びを恐れぬ者程厄介な相手はいない。
「攫ってきた人魚たちはどこだ」
「あなた方も見たはずですよ」
この犯罪組織は、人魚の生き胆を不老不死の妙薬として売り出していた。
肝を抜いた人魚の屍にヴィンセント――その肉体を操るヴィルヘルムの協力を得て、死霊術を施した。
これ程の被害が出るまでに襲われた人魚たちは何故抵抗しなかったのか? できなかったのか? その答がこれだ。
同胞である人魚が自分たちに害を及ぼすなどと思ってもいなければ、その死した肉体が襲撃を仕掛けてくるなど考えもしないだろう。
奥の扉を開ける。腐臭が止まない。
海の死に逝く臭いだと感じた。
手術台のような素っ気ない台の上に幾つも幾つも並ぶ屍――。
「あああ……ああああああ!」
恋人の姿を見つけた青年が泣きながら崩れ落ちる。
最悪の結末を引きつれて、事件は終わった。
◆◆◆◆◆
引き立てられる罪人の狂った哄笑が耳から離れない。
ロゼウスはセラ=ジーネの王族と人魚の王に全てを報告する。
「なんということだ……」
人間が人魚を欲し、その欲望を満たすために人魚が同胞たる人魚を売り払った。
あまりの結末に、どちらの種族の王も言葉を失う。
「……世界は変革期の只中にある」
「……」
変革をもたらすというよりももたらされる側、すでに滅びゆくさだめしかもたぬ古き皇帝は人魚の王の言葉を待つ。
皇帝の代替わりには争乱が付き物だ。そのための犠牲は決して小さなものではない。
四千年の安寧が破られ、次の時代に適合できない一部の者たちは、小さな石がゆっくりと坂を転げ落ちるように破滅へと向かっていく。
ロゼウスの能力が衰えた訳ではない。次の皇帝フェルザードが優れているだけ。
それでも人心揺るがす不安は尽きない。揺らぎの中、数多の欲望が生まれ悲劇を生み出していく。
「魔族の皇帝を超える人間が現れたことは、この世界が魔族を必要としなくなった証なのかも知れませぬ」
「……そうだな」
ロゼウス自身考えていたことだった。高い身体能力と長い寿命を持つ吸血鬼を凌駕する次の皇帝フェルザード。彼の誕生とその意志は、世界の変革の象徴だ。
もはや人間は人間だけの力で世界を導いていける。
そしてその世界に――魔族は必要ないのかもしれない。
この七千年間、人間と魔族の関係はほとんど変わらなかった。セラ=ジーネの人魚と人間の関係もそうだ。そうだと思っていた。
けれど魔族も人間も、変化しないとばかり思っていた中で少しずつ変わり続けていたのだ。もはや人と魔族の境などなく、両者は容赦なくお互いを喰い合う関係に。
「人魚は人間と近づきすぎたのかも知れません。いえ、我らだけでなく、全ての魔族が――」
「……」
歴史の中で揺らぐ魔族の立場。帝国以前の歴史を遡れば、人間が魔族を生み出したこともある。魔族が人間を支配したこともある。
絶対的な力を持つ皇帝が人も魔族も平等に治めることによって、長らく安寧は保たれていた。けれど。
「我らは闇に還りましょう。もう人には近づかない。もう人と共に生きることなどしない」
「人魚王」
「すまない、人間の王よ。だが我らは、あなた方に近づきすぎるべきではなかったのだ」
人が人魚を恐れていれば、人魚が人を忌み嫌ったままでいれば。
少なくともこんな事態にはならなかったかもしれない。
人間と人魚の対等な取引関係。人魚と人狼の裏の協力関係。そのどれもが、人と魔族が、他種族同士が近づきすぎた故のもの。
「さようなら、人間の王。さようなら、皇帝陛下。我らはただ海に――」
――この後、セラ=ジーネの海岸では幾度も高波が人々を襲ったと言う。
不思議なことにその高波は数多の人々を呑み込んだものの、その中の多くの人間は無事に海岸へと戻された。
ただ、街中でも後ろ暗いことをしていると噂の連中だけはいくら経っても波に呑まれたまま帰って来なかったという。
そして高波の被害が無事に収まった頃から、セラ=ジーネに人魚族が出没することはなくなった。
彼らは再び海に還ったのだ。地上を、世界を、この帝国を捨てて。
◆◆◆◆◆
「ヴィルヘルム、お前……何を考えているんだ?」
そして皇帝は一路、人狼の王国セルヴォルファスへと向かう。そこにぽっかりと口を開ける暗い穴――用意された罠の中に飛び込むために。
《続く》