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復讐など意味がない。――それで死んだ人間が帰ってくるわけでもなし。
そんな簡単な、当たり前のことを確認するのに随分と長い時間を費やしてしまった。
「もう……いいのね」
「ええ。姉上。俺たちは地上に戻ります。まだ……やることがあるから」
もう殺し合いどころではなくなった。フェルザードがヴィンセントを抱えなおし、ミザリーを呼んで地上への門を開いてもらう。
「クルス。そう勇んで俺を殺そうとしなくても、第三十三代皇帝の時代はもうすぐ終わる。このフェルザードが次の皇帝となれば、俺の存在は、この世界に必要じゃなくなる」
結局ドラクルたちは、どうしてもロゼウスを殺したいクルスの企みを見物しに来ただけだという。首謀者であるクルスが早々にやる気を失くしたため、最初の一撃以来下手な手出しはせずに場を見守ることとなった。
彼らとも話さなければならないことがあるのだろうが、もう時間がない。それに、どんなに言葉を尽くしても、理解しあえない関係もある。言葉など存在しなくとも分かり合える時があるように。
だから今は素直に地上へと帰るべきだろう。
「そうしたら……俺も改めて、死者としてこのタルタロスにやってくるだろう。その時にまた殴り合おう。だから……少しだけ待っていてくれないか」
「お断りです」
勇気を出して言ったのに、クルスから返ってきたのはすげない答だ。
「なんで僕が、あなたなんかをわざわざ待たなければいけないんですか。わざわざ急いでこちらに来なくても、どうせあなたを待つ人間なんていないのだからゆっくりしてくればいい」
「クルス、お前……」
「僕は……もう、レテの河を渡ります。すでにシェリダン様の生まれ変わりも別人として新しい人生を歩んでいる。ここで僕が喚いたところで、何にもならない」
落ちた剣を拾い直し、クルスはそれを鞘に納める。
剣は武人としての彼の象徴だ。だからこそこんなところにまで持ち込んでいるのだろう。だがそれももう必要なくなるのだと。
「次に会う時は、僕もあなたも転生した後。お互いに相手のことなんてわからないでしょう。それでいいんです」
彼がロゼウスたちに背を向けたまま歩みを進めると、竜骨のある白い砂漠に唐突に広い河の流れが生まれた。その河を渡ると全てを忘却するというレテの河だ。近くにラダマンテュスの姿も見える。
「最後は望む通りではなかったけれど、僕は僕の人生を愛していました。シェリダン様に出会えたことを、後悔などしません。あの人を殺した自分を憎むあまりに、生まれて来なければ良かったなんて泣き言を言うあなたと一緒にしないでください」
「お前は本当に俺に対して厳しいな」
「当たり前です」
――これで本当に終わりだ。
魂でも転生後でももう関係ない。
ロゼウスがクルスと会うことは二度とない。ドラクルやジュダとも。
本当ならこの別れは四千年前に済ませておくべきものだった。結局彼らを引きとめてしまったのは、ロゼウス自身なのかもしれない。
でもそれももう終わる。
「私たちもついでに行くとするか。もうこの景色も見飽きたしな」
「じゃあな、ロゼウス」
アンリがにこりと笑って手を振り、ルースがドレスの裾を引いて丁寧に頭を下げる。
彼らが骸骨の渡し守の促すまま、渡し船に足をかけようとしたその時――。
「「!!」」
突き上げるような大きな地震が起きた。
地震?
ここは冥府、タルタロス。つまり名目上は大地の奥底と呼ばれているが、本来は地上の物理現象が遠く及ばぬ精神世界だ。だからこそクルスが転生を受け入れた瞬間にレテの河が目の前に現れた。ここが死者の望む世界だからだ。
ロゼウスたちがラダマンテュスやミザリーと言った案内を必要とするのは、彼らが生者だからだ。タルタロスは死者の世界。生者はここでは自由に動けない。
その場所に、明らかに外部の力が影響したと思われる地震が起きる?
――この世界を支えているのは、「皇帝」という存在だ。
「陛下!」
ロゼウスがその場で崩れ落ちた。唇から血を吐いて。
「ごふっ」
「ロゼウス?! 一体どうしたの?!」
駆け寄ってくるミザリーを制しながら、ロゼウスも目まぐるしく頭を働かせていた。
これはもちろん、ただの地震ではない。自然現象とは明らかに状況が違いすぎる。
タルタロスに影響があるということは、皇帝の力が損なわれたということ。もともと代替わりを控えてロゼウスの力が弱まっていたのは事実だ。だがこの場所でクルスに刺されたことぐらい、ロゼウスにとってはなんともない。皇帝ではないただのヴァンピルだった時代でもあれぐらいならばかすり傷のようなものだろう。
ならば一体、この地震の原因はなんだ?
ロゼウスではない「皇帝」という機構の一部に一体何があった?
――何かが自分から切り離された。皇統に繋がる何かが。
「フェザー、お前は何ともないか?」
「ええ。私はまだ正式に即位していませんし、即位していない以上選定者であるあなたの影響も――あっ!」
話しながら思考をまとめようとしたフェルザードの言葉で、ロゼウスもその答らしきものに辿り着いた。皇帝と選定者は魂で連動している。そして現在の皇帝はいまだロゼウスであり、その選定者は――。
「ジャスパー!!」
胸に痛みが走る。
大事な何かが切り取られ剥がれ落ちた、その痛み――。
不安定な現状の影響を受けて、レテの河が一時的に目の前から消え去った。ミザリーが咄嗟に地上への門を開く。
早く、早く帰らなければ。
ロゼウスはその門をくぐった。
◆◆◆◆◆
この止まった時間を動かすことを、どうして人は望むのだろう。時がすぎれば得られるのは、ただ朽ちた砂の屍だけだというのに。
永遠に静止し続けていたかった。
もう何も喪うまいと――これ以上喪うものなどありはしないと思っていた。
◆◆◆◆◆
「ジャスパー!」
無我夢中で地上に跳びだす。馴染みのある気配を追って現れたロゼウスには、そこがどの国かもわからなかった。
ただ、彼が冥府から戻り姿を現した場所はどこかの教会の内部らしいことだけはわかった。割れかけたステンドグラスの中で聖母が微笑む廃教会だ。
濃い血の臭いがする。
気配が追えたということは、まだジャスパーには息があるということだ。
「お兄様……」
祭壇の前に血を流して倒れていた人影を抱き起す。震える瞼が重たげにゆっくりと開き、ロゼウスの双眸を捉えて微笑んだ。
「来て……くれたんですね」
ジャスパーはすでに虫の息だった。こうして話している間にも命が零れ落ちていく。すぐに治療しなければと、傷口を診たロゼウスは息を呑んだ。
「治さなくて……いいです。無駄……ですから」
ヴァンピル殺しの刃物がある。ローゼンティアで罪人の処刑に使われる刃物だ。それはヴァンピルの残った寿命も頑強さも関係なく、確実に命を絶つ処刑刀だ。
それを使われたヴァンピルを救う術はない。そしてジャスパーの傷口は、その処刑刀によってつけられた傷だった。
「誰が……誰がこんなことを」
聞かなくてもわかるようなことを口にする。
この教会に入ってきた時から、犯人の伝言は派手すぎる程派手に目についていたのだ。
紅い血に濡れたフィルメリアの国旗が、祭壇の上に王族が使う剣で貫かれている。
なんてあからさまな犯行声明。
「ルルティス、が……」
絶望するロゼウスの囁きを聞いて、ジャスパーは静かに微笑んだ。