薔薇の皇帝 26

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「ランシェット先生を責めないでくださいね。あの人は僕の望みを叶えてくれただけですから」
「どうして……どうして」
 ロゼウスは震える手で弟の手を握りしめた。ぬるりと血の感触がする。いつも冷たい吸血鬼の肌が、今はそれこそ氷のようだ。
「どんなに愛している、と叫んでも」
 紙のような顔色で、弟は花のように笑う。窓から落ちる光の鮮やかさも、その死相をくっきりと浮かび上がらせるくらいの役目しかない。
「あなたの中では、絶対に一番になれない。シェリダン=エヴェルシードがいる限り」
 それはジャスパーだけではなく、ロゼウスに対して想いを抱く誰もが何度も繰り返していた言葉だ。
 ある者はそれ故にロゼウスから離れ、あるものはそれ故にロゼウスを諦めた。誰も自分が彼の一番になれないのであれば、自分が彼を諦めるしかないと考えていた。
 ただ一人を除いて。
「永遠に届かぬ遠くを見ている。あなたは過去しか見つめていない。あの人を一瞬でも超えるには、だから――」
 喪われることでしかロゼウスの一番になれないのなら。
 こうするしかなかった。生きている限り、シェリダンを超えられることはない。
「約束、破ってごめんなさい。お兄様」
 ぽつりと涙の滴のように落ちた声は、今まで聞いたどんな言葉よりも寂しそうだった。
「それでも。ただ一度でいい、一瞬でいい、あなたに誰よりも、一番愛されたかった」
 身を斬るような言葉。ジャスパーは自分が決して、ロゼウスの一番になれないことを知っている。
 誰よりも傍にいて、ロゼウスのために生きている。それでも彼は、決してロゼウスの一番にはなれない。
 いっそ諦められるならば良かったのだ。自分の人生を自分のために生きるのに、報われぬ想いなど捨ててしまえれば。
 だがジャスパーにとっては、ロゼウスのために生きることこそが人生そのもの。
「愛している! 愛している! そんな言葉が欲しいなら、何度でも叫んでやる! だから、死ぬな……――死ぬな!!」
 瀕死の弟に向けて、ロゼウスは叫ぶ。
 薄っぺらな言葉。今までどれほど感情のままに嬲り虐げてきたのかを振り返ることもない言葉。それでもロゼウスの本心。

 ――まだ、僕がいます。僕はお兄様の弟で、選定者。最期まであなたの傍にいます。

 こんな結末、考えたこともなかった。
 選定者は皇帝と一蓮托生。代替わりによって皇帝が死すとき、選定者も共に死ぬ。ハデスとデメテルのような反則技はロゼウスには使えない。だからこそジャスパーだけは、何があっても、他の誰に見捨てられても傍にいると――。
「逝くなっ!! お前が、お前がいなくなったら俺は――!」
 こんなの絶対おかしいだろう。
 ずっと傍にいるのではなかったか。他の誰に憎まれ見捨てられたとしても、共に生きて共に死んでくれるのではなかったか。
 それなのに。
「愛している」
 涙が零れ落ち、血に濡れた手を洗い流す。
「だから――だから死ぬな」
 ジャスパーは最期ににっこりと、心の底から幸せそうに笑った。
「お兄様」
 大好きです――。唇が動くが、囁く声はもう音にならなかった。
 さぁっと砂が舞うようにその姿が灰となり宙に消える。
 吸血鬼は死ぬとき灰になる。その躯の一片さえも残さない。
 最期まで一緒にいると誓ったのに、もう――この手の永遠に届かぬ遠くへと逝ってしまった。
「ああああああああっ!!」
 手のひらから脆く崩れ風に乗って逃げて行きそうなその一粒一粒をロゼウスは抱きしめる。胎児のように体を丸めても、ほんの僅かな隙間から零れて行ってしまう。
 かつて弟であったものが、今は儚い砂粒にすぎない。
「皇帝陛下」
 教会の入り口にフェルザードが立っていた。彼はその惨状を見て全てを悟ったようだった。そして続くロゼウスの宣言を聞いたのも彼だけだった。
「……さない」
 剣によって祭壇に縫い付けられた国旗に向けて叫ぶ。
「赦さない。――ルルティス=ランシェット!」
 これですべてがルルティスの思惑通り。

 ◆◆◆◆◆

 処刑刀についた血を拭い、ルルティスは廃教会を後にした。
「おかえり、ランシェット先生」
「ハデス卿。これでいいのですか?」
 転移陣を用意してもらったルルティスは、ロゼウスがやってくる前に現場から消えることができた。部屋の中で待ち構えていたのは、その転移陣を用意したハデスである。
 もともと今回真意を教えろというジャスパーの誘いに乗って廃教会に赴いたのは、ルルティス自身もジャスパーに用があったため。
 その用の一つとは、選定者殺害による皇帝への宣戦布告。
 そしてもう一つ。
「ああ、うん。充分だ。これを術の媒介にするよ」
 ルルティスの手からハデスの手に、紅い髪飾りが落とされる。宝石王子との異名を持つジャスパーがいつも身に着けていたものだ。
 魔術に疎いロゼウスと違い、弟のジャスパーは純粋な肉弾での戦闘力よりも魔術の小技に優れていた。蝙蝠に変身して相手を偵察したり、傷を治したりといったものだ。それをする補助具が、彼自身の魔力を貯めたこの髪飾りである。
「……本当にいいんだね」
「かまいません」
 今回皇帝領との一戦を起こすにあたり、ルルティスは「あること」をハデスに頼み込んでいた。ジャスパーの髪飾りはそれをするのに必要な道具だという。最終確認の言葉に、ルルティスは笑って答えた。
「人生で一度くらい、人は命を懸けて欲しいものを手に入れるべきでしょう。私やジャスパー様にとっては、それが今なのです。そうしなければ、手に入らないのです」
「……君とジャスパー王子の願いが近いところにあるなんて意外だな」
「案外似た者同士だったようですよ」
「シェリダンとジャスパー王子はあんなに気が合わなかったのに」
「私はシェリダン=エヴェルシードではありません」
「……そうだったね」
「だからこそ彼は私の望みに賛同し、私は彼の望みを叶える」

 ロゼウスは知らない。ジャスパーが最期に何をルルティスに願ったのか。その取引を。

「あなたにしか頼めないことです」
 と、彼は言った。
 代わりに彼が自分の望みのものをくれるというので、ルルティスはその頼みを快く引き受けた。
 振り上げた刃が鮮やかな薔薇色に染まる。磨かれた鏡面のような刀身に、少年の微笑みが映った。
 血を吐く唇が虫の息ながら、甘く囁き懇願する。

「シェリダン=エヴェルシードを殺して」

 耳の奥に焼き付いた声を脳内で再生し、ルルティスは返事を口にする。

「叶えましょう。その願い」

 滅びへと向かう時計の針は、今、再び時を刻み始めた。

 《続く》