薔薇の皇帝 26

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 結局、ロゼウスはセラ=ジーネでの事件を解決したとは言い難い。
 確かに事件の犯人は見つかった。だが皇帝は、被害者たちを誰一人として救えなかったのだ。
 次代皇帝の発見と共に、現帝の力は衰える。次の皇帝が前の皇帝を追いやる帝国の仕組み上、半年前からすでにロゼウスの衰退は決まっていた。だが彼に事件解決の一縷の望みをかけていた者たちの気持ちはそんな言葉では慰められるはずもない。
 失意を向けられるままにセラ=ジーネを去り、ロゼウスは次はセルヴォルファスに足を向ける。
 そこは人狼の国。かつてロゼウスとシェリダンの運命に大きく関与した、ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファスの領土だ。

 ◆◆◆◆◆

「……やはり来てしまったのですね。皇帝陛下」
 セルヴォルファスの王子ヴィンセントは、報告を受けた皇帝の訪問に悲しげな顔を見せた。
 今回の皇帝の訪れに対する不穏な空気は国全体が感じ取っているらしく、他に出迎えの者の姿は見当たらなかった。形式を優先して歓迎の用意をしようとした者たちも、ヴィンセントが全員下がらせたのかもしれない。現在のロゼウスは、それを笑って受けられる気分でもないと。
 セラ=ジーネでの事件の折に皇帝へと同行した王子。だがそれすら、彼の意志ではない。
 ヴィンセントの意志は今もその昏い穴を通じて、冥府の亡者に操られている。
「それが例の風穴か、ヴィンセント」
「ええ、そうです」
 謁見の間とはまた別の広く豪奢で、そして空虚なその部屋でヴィンセントはロゼウスたちを迎えた。岩壁に掘り込むように作られたセルヴォルファス王城の地下でも、最奥部にあたる区画だ。
 彼が「風穴」と呼ぶそれは、深く深く暗い穴だった。まるで底がないかのごとく暗く、そして実際に底はない。石や何かを落としたところで反響音の一つさえしないだろう。
 それは死者の国、冥府へと通じる深淵だった。
 ロゼウスは部屋の入り口側、ヴィンセントは部屋の奥にその風穴を挟んで向かい合うように立っている。お互いを隔てる昏い穴は、まさしく生と死を分ける川のようだ。
 ローゼンティアの吸血鬼、セラ=ジーネの人魚と同じく、永い永い歴史を持つ魔族の国、人狼の王国セルヴォルファス。
 しかしこの国がもう数百年も前から、何千年も前に死せる一人の亡者の手によって操られていたなど誰が想像しようか。
 皇帝の目をも欺いたその手腕は、たかだか数十年潜伏生活を続けたカースフールの狡猾さをも遥かに凌ぐ。
 それもそのはずだ。その存在は、現在この世界に「いるはずのない」人間なのだから。
 ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。
 四千年前、ロゼウスの手により殺害されたはずのセルヴォルファス王。
 現在ロゼウスの目の前にいるヴィンセントは、容姿だけならヴィルヘルムに生き写しだ。淡い茶色の髪に、どこか幸薄い印象を与える薄い灰色の瞳もよく似ている。何よりその顔立ち。けれど浮かべる表情は闊達だったヴィルヘルムとは違い、どこまでも儚げで優しい。
 彼がセラ=ジーネで見せた驚異的な二面性の異常さにロゼウスが気づいた時にはもう遅かった。
 ヴィンセントはシェリダンとルルティスのように前世とその生まれ変わりというような関係ではない。確かにセルヴォルファス王家の血筋ではあるからごく薄くその血は引いているだろうが、四千年も代を重ねればまったくの他人とさえ言えるだろう。
 ヴィンセントがヴィルヘルムに似ているのは、例えばフェルザードがシェリダンとよく似た容姿を持つのと同じような理由だ。帝国の祖たるシュルト大陸の民族は王家の血が強く、何千年の時を隔ててたまたま先祖と似た容姿の者が生まれたに過ぎない。
 しかしヴィンセントの場合は、その容姿が彼の人生にとって仇となった。
 万象はあらゆる意味を持つ。ものの姿もその一つ。一つのものに対する相似形は、それだけで意味を持つ。ロゼウスたちがフェルザードやルルティスの容姿からシェリダンを連想せざるを得ないように、生前のヴィルヘルムを想起させるヴィンセントの容姿を、ヴィルヘルムは利用した。
 冥府にて力を蓄え、自国の地下へ繋ぐ風穴を空けたヴィルヘルムはロゼウスへの復讐の機会を虎視眈々と待ち続けた。それこそすでにこの世の生物の理を外れた執念深さで、何百年も何代にも渡り自らの血を引く者たちを支配し続けたのだ。
 若くして死んだヴィルヘルムには子どもがいなかった。そもそも第二十六王子だった彼が玉座に着いたのだって、一族の者たちのほとんどが死に絶えたのが理由だ。最後の頼みの綱であったヴィルヘルムが死んだ四千年前に、セルヴォルファスと言う国は一度滅びている。
 トドメを刺したのはその頃即位したてのカミラ女王が率いるエヴェルシードだったが、真にセルヴォルファス王家の血に終焉を与えたのはロゼウスだ。
 正統なる王の血筋を失って混乱したセルヴォルファスは、永く立ち直ることができなかった。
 ローゼンティアの吸血鬼が、セラ=ジーネの人魚がそうであるように、魔族は人間よりも遥かに王家の正当性というものに弱い。
 それは彼らが人間よりもずっと強く、己の中の魔力という法に支配される種族だからだ。初代皇帝は彼らのそんな性質を知っていたために、魔族の血を支配する楔を打ち込んだという。それが彼の愛する者の望みでもあった故に。
 だからこそ、ロゼウスによって王家を奪われたセルヴォルファスには辛い時代が続いた。なんとか元王族の遠縁から後継者を見つけてはきたものの、かつてのような威光を取り戻すこともできない。彼らをそんな目に追いやったロゼウスとその出身国であるローゼンティアは、当代皇帝とその故国として発展を遂げているにも関わらず。
 冥府の風穴から囁かれた甘言に乗せられた者がいたとしても、それを責める資格はロゼウスにはない。他の誰にあっても、ロゼウスにだけはないのだ。
 その資格は彼の過ちの犠牲となった現セルヴォルファス王家の者だけがもつものだ。たとえば今目の前にいて、人生の大半をヴィルヘルムに利用されることとなったヴィンセントのような――。
「でも私は、陛下を恨んではおりませぬ」
 ヴィンセントは言った。
「例えこの国が永い間陛下への復讐のためにヴィルヘルム王に利用されていたのだとしても、過去の王の言うがままに国を振る采配を手放したのは、確かに我らの罪なのですから。過去は過去、今は今、彼は彼、僕らは僕らとして、邪悪な妄執の死者の誘いを、毅然と跳ね除ければ良かったのです」
「ヴィンセント」
「それができなかったのは、僕らセルヴォルファスの弱さです」
 目の前に立つのは、これから間違いなくセルヴォルファスの玉座に座るはずの王子。ロゼウスの治世の時代にはまだ実権を握ってはいないが、これからフェルザードが帝国を新たに改革していく上で、なくてはならない存在だ。
 彼は一歩、前に足を踏み出した。
 それはロゼウスの方に来るように見せて、実際の立ち位置としては風穴へと近づく行為だ。
 彼が何をしようとしているのか、ヴィルヘルムが彼に何をさせようとしているのか、ロゼウスにもわかった。自分にそれが止められないことも、自分がその策に乗ってしまうだろうことも。
 わかっていて止められないのだ。
「ヴィンセント、私は四千年前、確かにヴィルヘルムに恨まれるようなことをした。今の結果は全て私が責を負うべきこと。お前が気に病む必要もなければ、ヴィルヘルムに乗っ取られたことをすまなく思う必要もない。だから――」
「陛下!」
 その時、二人の聞き知った声が部屋に飛び込んできた。
「ああ、間に合った! 良かった! まだここにいらっしゃったんですね!」
「フェルザード?!」
「新皇帝陛下」
 別れたばかりの愛人の登場に、さすがのロゼウスも狼狽える。別にそういう意味でヴィンセントと顔を合わせていたわけではないが、フェルザードが今この時にここにいることは、ロゼウスの計画ではないからだ。
「なんで来た! お前は今私に代わって帝国の足場固めをする重要な時期だろう!」
 冥府へと繋がる風穴を開いたヴィルヘルムの目的はわかりすぎるほどにわかりきっている。彼はロゼウスを冥府へと呼び寄せたいのだ。
 今更タルタロスに落ちたところでロゼウスには畏れるものなど何もない。だが、世界や周囲はそうはいかないだろう。
 第一に――冥府と地上では、時間の流れの速さが違う。フィルメリアで両親を殺して即位した新国王ルルティスが薔薇皇帝ロゼウスへの叛意を標榜しているこの時期に、皇帝が永く玉座を空ければどうなるか。
 考えなくても結果は火を見るより明らかだ。だからこそロゼウスは、その間に次代皇帝であるフェルザードに次の自分の治世へ向けて準備を始めるよう言い置いた。
「私があなたの仰ることに唯々諾々と従う人間とでもお思いか。そしてあなたは、私があなたが力の減退しはじめた今の状況で自ら不利な地に飛び込むことを、黙って見過ごす次期皇帝だとでもお思いか!」
 あまりにも当然と言い切るフェルザードの自信に溢れた様子に、さしものロゼウスも呆気にとられる。
 この自信こそが何よりもロゼウスにないものであり、そして彼とほとんど同じ顔をしていたシェリダンにもないものだった。
 人はどれほど姿かたちが似ていても、そのうちに宿る魂で人格や人生はまったく別のものとなる。
 魂が同じであってさえ、その人の生き様を決めるのはその人自身の性格や行動だ。
 だからルルティスはロゼウスに牙を剥くのだし、フェルザードはこうしてロゼウスの人生史上最も不利な戦いにも当然のように同行しようとしている。
 ロゼウスは覚悟を決めた。
「ヴィルヘルム! もうその子を解放しろ! お前の望みは何だ? 私の死か」
 ヴィンセントを通し、その内側に寄生するヴィルヘルムの精神に語りかける。
 先程まで不安げな悲しげな様子だったヴィンセントの表情が一瞬にして変わる。かつての無邪気さを残酷さに、明るい尊大さを皮肉気な高慢さに変えたヴィルヘルムが顔を出す。
「自らの死など、今更お前には何の意味もないだろう? ロゼウス。俺の望みは、お前が生きたままタルタロスに堕ちることだよ」
 そして彼は四千年もの時を隔てた子孫の肉体を操る。最後の仕上げとばかりに、ヴィンセント自らの足でその身を冥府へ続く風穴へ飛び込ませた。
「!」
 追ってこいとヴィルヘルムは言う。
 追わなくていいとヴィンセントは言った。
 そしてロゼウスは――。
「フェルザード。巻き込んですまない」
「今更そんなこと言いあうような間柄ですか。さ。手遅れにならないうちに我々も出発しましょう。こんな七面倒なこと、さっさと終わらせてしまうに限ります」
 ヴィルヘルムの四千年をかけた復讐を面倒の一言でぶった切り、フェルザードは一瞬の躊躇いもなく風穴の縁を蹴る。
「ああ――そうだな」
 ロゼウスも同時に頷いて、二人は大地の奥底へと続くその穴の中へと飛び込んだ。