155
恐怖が近づいてくる。
「早く隠せ! あの新国王がやってくる前に! 持ち運べないものはいっそ燃やせ!!」
「もー手遅れですよ。お粗末な証拠隠滅ご苦労様です」
「!」
あらゆる不正の証拠をもみ消して雲隠れしようとしていた貴族の一人は、背後からかけられた少年の声に凍てついた。
「バートン卿、あなたもですか。まったく、いけない人ですねぇ。国民から巻き上げたお金を、国に収めず自分の懐に入れてしまうなんて」
「る、ルルティス陛下……」
醜く肥え太った男は、今やフィルメリアにおいて死と恐怖の代名詞となった少年国王を見上げる。
先代国王である父親とその愛妾であった母親を殺害し玉座についた若き王ルルティス=ランシェット=フィルメリア。彼は王冠を戴いたその日から、まさしく雷鳴のような速さで国内の改革を推し進めていった。
特に彼は自らが率先して、貴族の不正を暴き粛清していった。それにより前国王の周囲を固めて行った人材の層が薄くなり、役職に空きができたほどである。
フィルメリアというこの古王国がどれほど堕落していたかを暴くと共に、ルルティスは空いた椅子にどんどん自分の信用できる人材を座らせていった。
もともと王城内に一職員として入り込んで城中の人々の動向を把握していたルルティスである。信頼できる人間の心当たりも十分にあった。フィルメリア出身の神学者グウィンの協力も得て、学院関連はすでに掌握している。
彼は着々と城内に自分の陣営を築きながら、一方では不正を許さず民のことを考える王として一般市民たちに支持されていた。
腐りかけた果実のように甘いだけの腐臭をまき散らして滅びる間際の王国に吹き込む一陣の風――。新王ルルティスの存在は、フィルメリア国民にはそのように受け取られていた。
「はいはい。これが例のあれの証拠ですね。わざわざ家探しする手間が省けましたよ。本当にご苦労様でした」
にこにこといっそ人懐こいような顔で笑いながら、ルルティスは不正を行った貴族を追い詰めていく。
「ここまで証拠が揃っているならいつまでも私がここにいなくても大丈夫でしょうね。さぁ、次はどこに行こうかな、と」
王家の権力が強いフィルメリアでは、逆に王がその場で一言発すれば大概の無茶は通るということだ。ルルティスはその伝統を逆手にとり、とにかく自分がまず第一に駆け込んで相手の罪を暴く。事態の収束は信用できる部下たちに任せ、証拠が断片でも見つかった時点ですぐに次の反逆者のもとへと赴くのだ。それ故に行動が素早く、電光石火の速さで証拠の隠滅も許さず貴族たちの不正を暴くことができた。
「さてさて、でもバートン卿。あなたの罪はこれだけじゃありませんよね? こんなものは氷山の一角です。そもそも私たちがあなたの不正に気付いたきっかけとなる事件がありますからね」
爽やかな笑顔だ。
その表情を崩さないまま、ルルティスは腰の剣をすらりと抜く。
「ま、待て! 待ってくれ!! やめてくれ! 死にたくない!!」
突きつけられる切っ先の理由に在りすぎるほど心当たりのある貴族は叫んだ。
「あなたに買われ弄ばれ、腕や脚を次々に斬りおとされ玩具として殺されていった子どもたちもそう言ったことでしょうね」
金銭的な不正だけではなく、昨今のフィルメリアでは唾棄すべき悪趣味が当然のごとく流行り見逃されていた。あたかもかつて美の国として知られるシルヴァーニの人々が、飢饉の際に奴隷として他国に買われていったように。
そもそももう十何年前か、ルルティス自身だとてレッセンフェルに囚われた。そのような罪はいつの時代も、いくらでもある。撲滅することは難しい。だがルルティスは妥協をしなかった。
疑わしきは罰せよ。確たる証拠などなくとも、国王なら不敬罪とでもなんとでも理由をつけて首を刎ねることもできる。黒い噂のある貴族たちを次々に粛清するルルティスは、まるで正義の王であるかのように民衆には受け止められている。
淀んだ空気を打ち払う風? とんでもない。
ルルティスを近く知る者たちは思う。
「私の願う理想の国に、貴様のようなクズはいらない。――死ね」
彼の存在は炎だ。己自身を燃やして全てを滅ぼし尽くす死の炎。
◆◆◆◆◆
――しかし陛下、いいのですか? そんな簡単に地上と冥界を行き来したりして。
短い白昼夢のようだった。天から地の底へ落下する、ほんの束の間に見る四千年間。
ロゼウスの脳裏に浮かんだのは、何故か現状とは最も程遠い人物に関する断片的な出来事だった。
幾つもの過去が残像のように目の前をよぎり、消えていく。目まぐるしく移り変わる。
(お兄様)
薄曇りの空の下、儚く微笑む弟の姿。
四千年前の、ロゼウスが皇帝になるまでの道程で男兄弟は彼以外全て死に絶えた。ロザリーやメアリー、エリサなど妹は残ったが、最終決戦まで付き合って生き残った弟は彼一人だ。
これは、つい最近の記憶だ。最近と言っても一年前だが、四千年を生きるロゼウスにとっては一年前などまるで昨日の出来事のよう。
場所は確かウィスタリア、この景色は、ミシェルの治めるエァルドレット領だ。――ああ、そうか。だからか、とロゼウスは思った。
今とは全く状況が違うが、ロゼウスはあの時も冥府に赴いた。その理由は、ノヴァンゼルの吸血鬼に攫われたジャスパーを取り戻すためだったのだ。ということを今更思い出す。
(まだ、僕がいます。僕はお兄様の弟で、選定者。最期まであなたの傍にいます)
ミカエラとウィルの生まれ変わりである少年たち、ミシェルとウィリアムに別れを告げ、これで本当に皇帝になる前の家族との縁が終わりを迎えたのだと沈むロゼウスに、ジャスパーがその手を取りながら誓った言葉だ。
あの頃――四千年前。
ロゼウスは兄であるドラクルに愛されたかった。自分にそっくりな異母妹のロザリーとは双子のように仲が良く、病弱なミカエラのことは半ば心配のような愛情を注ぎ、明朗快活なウィルや天真爛漫なエリサは見ているだけで幸せだった。同母姉のルースにはロザリーとは別の意味でずっと近しいものを感じていたし、穏やかで庶民的だと言われていたメアリーも可愛かった。芸術家肌だが姐御気質な第一王女、長姉アンにはいつでも目を開かされる言葉をかけられたし、美しき姉ミザリーと生真面目で潔癖な兄ヘンリーは近寄りがたかったが、それでも家族としての絆は感じていた。そして第二王子である異母兄のアンリは、曲者ぞろいの兄姉の中で唯一ロゼウスを裏表なく心の底から甘えさせてくれる人物だった。
懐かしく、輝かしき、もう取り戻せない日々――。
彼らの内の幾人かは、他でもないロゼウスのその手で冥界送りにしてしまった。ウィルとミカエラ、そしてヘンリーに関しては無事に転生を果たしたようだが、他の兄妹の行方は知れない。
否、そもそもロゼウスに恨みを持つドラクルたちのような人物が、あっさりと転生を受け入れるとは思えない。
それに転生をすることができない人物もいる。まだ皇帝としての力に目覚めていなかったロゼウスたちを地上に戻すため、地底と地上の門を繋ぐ生贄として冥府に身を捧げたミザリーは、今もこの大地の奥底で眠っているはずだ。
前回はラダマンテュスに聞くまでもなく、すぐにノヴァンゼルの吸血鬼の居所を探り当てることができた。けれど今回は、そううまく行くだろうか。
否――そもそも彼らを冥府へおびき寄せたのは四千年前に死んだはずのヴィルヘルムだった。ならば同じようにロゼウスに対し深い恨みを持つドラクルたちも、間違いなく冥府に存在しているに違いない。
何千年経ってもロゼウスの後悔が消えないように、彼らの恨みも恐らく何千年経っても続くのだろう。
そして昔とは違い、今のロゼウスの隣に立つ者は誰もいない。フェルザードは力を貸してくれるしそれはとてもありがたいのだが、やはりあの時代を生き抜いた者でないと理解できない領域がある。
兄弟というくくりで言えば先程思い出したようにジャスパーがまだ残っている。だが、彼は……。
――なぁ、ロゼウス、お前はどうしてジャスパー王子にだけそんなに厳しいんだよ。
――私が言えることじゃありませんけど、もう弟君を赦して差し上げては?
今に始まったことではないが、ロゼウスはジャスパーに対して優しく接することがない。
――ロゼウス様は、あんなに献身的にあなたに仕えるジャスパー殿下の何がそんなに気に入らないのですか?
――お父様は、叔父様のこと嫌いなの?
本当の本当に昔、まだ、ドラクルが実の兄だと信じていたような頃はジャスパーのことも他の弟たちと同じように愛していたのだ。彼自身が自分から積極的にロゼウスに近寄ってくることが少なかったのでミカエラやウィルに比べてよそよそしい付き合いに見えたかもしれないが、それでもロゼウスなりにあの控えめな弟を愛していた。
けれどジャスパーは、ロゼウスが皇帝として選ばれると同時に彼自身も選定者としての使命に目覚め始めた。そして彼ら兄妹を裏切り、破滅への引き金を引く手助けをしたのだ。
それが赦せない。赦したくない。今でも。
永遠に憎み続ける。自分でも何故あの弟に対してはそこまでするのかと思うほどに、黒い気持ちが沸きあがって消えない。
ロゼウスを裏切り貶めたという存在なら、何もジャスパーに限らない。裏切り者の最たる存在は兄であるドラクルだろうし、そもそもシェリダンだって最初は敵としてロゼウスの前に現れたのだ。両親は最初から嘘偽りの中で彼らを育てたのだし、今も昔も臣下と支配者が本心をさらけ出さずにやりあうのは変わらない。
選定者とは皇帝のために生まれて来る存在。ジャスパーはロゼウスを皇帝という存在に昇華するための踏み台として存在していた。
そしてそれは、自分自身が三十四代皇帝フェルザードの選定者として生まれたロゼウスにも当てはまる。ロゼウスの悲哀も苦痛も、その全てはフェルザードのために存在していた。
その事実を知った時、全ての悲痛な過去の原因となったフェルザードのことは恨むこともなく、むしろ彼の為にこの生があったならば良かったと言えるほどに受け入れることができたのに、自分のために生まれてきたジャスパーの行った数々の行為は許すことができない。
どうして……? 普通、逆ではないのか。ロゼウスとしては自分の屍を踏みつける存在であるフェルザードを恨み、自分のために生まれたジャスパーを愛で憐れむべきではないのか。
けれど実際の感情として、ロゼウスはフェルザードには感謝を抱くことこそあれど、恨むはずもない。そしてジャスパーのことは、恨んでいると言えるのかも、知れない。
――あなたにとって、選定者……いえ、ジャスパー様とは何なのです?
――あなたは一見ジャスパー様に冷たくあたっているように見える。けれど裏を返せば、あなたの中でジャスパー様に対してだけ態度が“特別”だ。
赦さない。赦さない。永遠に赦さない。
だから手放すこともない。その言葉通り、ずっと傍にいてもらおうではないか。我が身が破滅するその時でさえも傍に。
だってお前は、俺のために生まれた、俺だけの選定者なのだから。
――過去ばかり見つめても、取り戻せるものは僅かなもの。何かを得ようとすれば、何かを失いますよ。
かつて冥府へ訪れた際にかけられた言葉を、ロゼウスはこの事件の後に思い返すことになる。
この時の彼はまだ、それでもこれ以上自分に喪うものはないと、信じていた。