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淡い紫色の空。見事な翡翠色の大きな湖の前に巨大な門と貴族のものらしき屋敷がある。
生きとし生ける者全てにとっての恵みである太陽の光の届かぬ大地の奥底タルタロス。
ここは死者と罪人のための国だからこそ、太陽の光など届かなくても良いのだろう。
「ほほうこれが冥府ですか。いやー、変わった風景ですねぇ」
「……フェザー、気が削がれるんだけど」
観光気分のフェルザードの一言に、これから過去の因縁と対峙しにいく決意を深めたロゼウスの緊張感が見事に霧散していく。次代皇帝はロゼウスと違い、世界の終わりが訪れた程度では動揺する顔の一つも見せなさそうだ。こうして自ら赴くのではなく何かの手違いで冥府に迷い込んだとしても、裁判官たちをぶっとばして地上に帰還するに違いない。
「何を仰る皇帝陛下。たかだかセルヴォルファスの狼っ子一人取り戻すのに、緊張感など要りませんでしょう。私たちはさっさとヴィンセント坊やを回収してさっさと地上に戻らなくてはならないのですよ」
「それはそうだが」
「ちなみに私どもが二人して留守にするという説明書きにおおよその帰還日時を記しておきました。地上と冥府の時間の流れを計算し、坊やを取り戻すのに最短でも三時間くらいはかかるかなーという推測のもとで算出した日付ですので、それを過ぎたら問答無用で引きずっていきますよ」
「手回しが良すぎる!」
先程の発言から察せられるとおり、フェルザードは冥府に来たことはないはずだ。彼なら自力で冥界くらいやって来れそうな気もするが、とりあえずハデスを除けば唯一行き来できるロゼウスは連れてきた覚えなどない。
ただ地上と冥府では時間の流れが違うということは以前から話しており、彼はその話から帰還予定日時を算出したのだろう。
「ですから何を仰る皇帝陛下。このぐらいは当然です。で、最初はどこに行くんですか? ぐずぐずしてる暇はありませんよ」
「……とりあえず、冥府の管理者に顔を見せに行こう。俺に何かあった時、お前だけでも地上に戻してもらわねばならない」
「私が戻るときは、陛下も一緒に戻るんですよ」
当たり前だと堂々宣言するフェルザードに、ロゼウスもそっと微笑みを返す。
「そうだな……だが、どちらにしろラダマンテュスのところには寄らなければ」
「何故です?」
「死者の管理はラダマンテュスの仕事だ。運がよければ、そこでヴィルヘルムの動向を知ることもできるだろう」
冥府から遠い遠い血縁であるヴィンセントを操ったヴィルヘルム。
彼の行動の裏側には、必ずラダマンテュスの存在がある。
何度もここでやりとりをしたのにそんな様子をおくびも出さなかった食わせ者の冥府の管理者の顔を思い浮かべながら、ロゼウスは忌々しげに呟いた。
◆◆◆◆◆
冥府の管理者の住居は、地上のような物理法則に縛られない。以前来た時とは全く違う内装の屋敷内部に突入し、ロゼウスとフェルザードはその主たるラダマンテュスの姿を探した。
長い廊下の脇にいくつも並ぶ無個性な扉の向こうに人の気配はない。誰かがいそうなのは、捩じれた通路の最奥にある一際巨大な扉の向こうだ。
そして扉の開く音に、中にいた獣の尾と耳を持つ少年がゆっくりと振り返る。
「ヴィンセント=セルヴォルファス!!」
フェルザードがその名を叫ぶ。だが呼ばれた瞬間、その少年はニィと唇の端を吊り上げ、ヴィンセントには決してできない禍々しい笑みを浮かべたのだ。
「違う……お前、ヴィルヘルム!」
淡い色の髪に灰色の瞳の少年は、ロゼウスの呼び声に応えてにっこりと無垢を装うような笑顔を「作り」言った。
「そうだよ、ロゼウス。久しぶりだね。冥府へようこそ。――ゆっくりしていきなよ。なんなら永遠に――ね」
「貴様!」
咄嗟に剣を抜きかけるフェルザードを制止し、ロゼウスはヴィルヘルムの姿を見て気づいたあることを指摘した。
「久しぶりも何も、先程地上で会ったばかりだろう。だが、ヴィルヘルム……お前。その体は霊体だな。ヴィンセントはどうした?!」
ヴィルヘルムが地上に現れた時、死者であるその身はセルヴォルファス王族であるヴィンセントの肉体に憑依することで自由を得ていた。
だが、今のヴィルヘルムは誰にも憑依していない彼自身の姿をなぞった霊体のままだ。ならば、生身のままこのタルタロスに連れ去られたヴィンセントはどこに行ってしまった?
「あの子ならもう“彼ら”のところに送ったよ」
「彼ら?」
「俺の役目はこれで終わりだ。あとはお前を殺したいほど恨んでる他の連中に任せることにするさ」
そう言うとヴィルヘルムは狼に姿を変え、部屋の奥に備え付けられた椅子の一つへと駆け寄る。
椅子に座る青年の足下で、飼い犬のように丸くなって眠り込む。
「――これはこれは地上の皇帝陛下よ、ご機嫌麗しゅう」
「ラダマンテュス……」
灰色の肌に紫の髪をした、冥界の裁判官だ。今はタルタロスの管理人でもある男、ラダマンテュス。もともと人間ではない彼に地上の時間の流れは関係なく、皇帝であるロゼウスもまた四千年前から姿かたちが変わっていない。あの時とまったく同じままに、二人は対峙した。
――ここは時の止まった死者の世界。
恨みも嘆きも琥珀の中の蝶のように、閉ざされ、凍り付いている。この場所に居続ける限り、血を流す傷口が癒えることはない。
そんな世界でヴィルヘルムは、ロゼウスへの憎悪をずっと抱えてきたのだ。
「……お前たち、いつ知り合ったんだ。どうして俺に教えなかった」
ラダマンテュスの足下に侍るヴィルヘルムを見ながら、ロゼウスが問いかける。
「おやおや、皇帝陛下ともあろう方がわざわざそれを口にされるとは。当然のごとくおわかりでしょう。私は死者の裁判を行う魔族ですよ。そのことに関して、あなたに報告する義務もない」
四千年前、ロゼウスがヴィルヘルムを殺したその瞬間にヴィルヘルムとラダマンテュスの繋がりができたのだ。ヴィルヘルムだけではない。ロゼウス自身の手にかけた数多の死者とラダマンテュスの繋がりが。
「ラダマンテュス。――お前は何を企んでいる?」
「何も」
事態を攪乱するだけ攪乱した男は罪のない表情で微笑んだ。
無垢で無邪気故に残酷な子どものような顔だ。
「この世界では時はいつも止まったまま。皇帝陛下。私はね、退屈なのですよ。永遠に退屈なのです」
冥界の裁判官であり、エリュシオンの管理人でもあるラダマンテュスがその座を放棄すれば、地上はすぐに死者で溢れかえることとなる。だからこそ彼は、その退屈によって永遠にタルタロスに繋ぎとめられている。
「ですが何万年とこの虚無の世界で過ごしていると、たまには刺激が欲しくなるのですよ。皇帝陛下、あなたはとても面白い。この世界がアケロンティス帝制になってまだ七千年程ですが、四千年も地上を支配した皇帝は貴方の他にはいない」
ラダマンテュスの生気のない肌がまるで人間のように紅潮し、瞳が爛々と輝く。
「だからこそ見せてほしい。あなたの答を」
「私の答ということは、私以外にも何人もここにこうやって来た人間がいるということか。お前は何人の死者をそうして弄んできたんだ?」
「弄ぶなどと人聞きの悪い。彼らはね、所詮は死者なのですよ、地上の皇帝よ。死者に時間など存在しない。死して新たに傷つくこともない。彼らが嘆き苦しむのは、あくまでもその生前に受けた傷の痛み。――このヴィルヘルムがいい証拠でしょう?」
そう言って彼は、足元の狼の毛並を撫でる。若狼はラダマンテュスに懐くようにその指先をぺろぺろと舐めている。
幼い仕草。懐かしい姿。ヴィルヘルムはあの頃と何一つ変わっていない。
「もしもこの子を救いたいと言うのであれば、それは皇帝陛下、他の誰でもないあなたの役目だ」
ヴィルヘルムが憎み続けたのは、その心を四千年前にずたずたに引き裂いたロゼウスなのだから。
タルタロスの死者の傷はそれを与えたものにしか癒せない。
「さあ、陛下。――答を」
「……そうだな」
ロゼウスはヴィルヘルムに視線を向けた。
◆◆◆◆◆
昏い昏い夢を見ている。
それでも、起きていても視界に映るのは闇ばかりだから、目を閉じて眠りに逃げ込む方がマシだった。
大地の奥底はいつも昏い。空は青くない。真っ逆さまに落ちてきそうな紫色だ。水も植物もあるにはあるが、そのどれからも生きている匂いがしない。――静寂した死の世界。
だから夢に逃げ込んだ。眠りの中で見る夢は全く良いものではない。自分をこのタルタロスに突き落とした原因である憎悪の記憶を無限に反芻するだけだ。それこそ気が狂いそうなほどに。
実際に、もう気が狂っているのだろう。
あまりにも泣くもので、せめて他の人間とでも話せば気分転換になるかとラダマンテュスに引き連れられて屋敷の外へ出た。
彼らがいた。
懐かしい顔ぶれの中には、生前に敵だった者も味方だった者もいる。優しくしてくれた人も自分を利用しただけの人も。
その全員が大なり小なり「彼」に関わったことを理由としてここにいるのだと。
だから彼らと協力して――復讐の計画を練った。
自分の役目は「彼」をここまで連れてくること。連れてきた後は他の連中の仕事だ。
この手で復讐を遂げる快感と地上の空気を束の間の夢であっても味わうこと、その二つを天秤にかけて自分は後者を選んだのだ。
ああ、青い空が懐かしい。緑の森が懐かしい。埃っぽい岩壁が――ああ。
何故俺は昏い世界にいるんだろう?
その昔兄たちが皆いなくなってしまった王国で一人玉座を継ぐのが怖くて震えていた頃を思い出す。
でも今はもう、自分に手を差し伸べてくれる人は誰もいない。もういない――。
「ヴィルヘルム」
目を開く。
目の前にロゼウスが立っている。髪の長さが違うけれど、それ以外はまるで昨日と同じような姿で。
昨日?
昨日とはいつだったか。思い出せない。けれど目の前の男に対する憎しみを自分が抱き続けているのだけは確かだ。
断絶しながら繰り返し続ける記憶の中でヴィルヘルムが殺意を思い出しそれを実行するのよりもはやく、ロゼウスの手がヴィルヘルムの体に伸びた。
「なっ……!!」
狼姿のヴィルヘルムを、赤子でも包み込むように抱き上げたのだ。
「すまなかった」
「――」
落ちてきた囁きに、ヴィルヘルムは息を止める。
「迎えに来たよ。ヴィルヘルム」
「迎えに……お前が迎えに来たのはヴィンセントの方だろう」
うつらうつらしていた先程とは違い、今日の日の記憶が一気に押し寄せてくる。否、今日だけではない。ここに来るまで、何年も何代もセルヴォルファス王族を操り続けてこと。
そこまでしたのは、ロゼウスをおびき寄せるためだ。人質となる人物が必要で、ヴィンセントはそれに叶う人材だった。
ヴィルヘルム自身とは違って。
「いいや。ちがうよ。ヴィンセントはまだ地上の住人だ。“私”は皇帝として一臣民を取戻しに来た。けれど――“俺”は、お前を迎えに来たんだよ」
ロゼウスはきつくヴィルヘルムを抱きしめる。
「ごめん。ごめんね。ヴィル。俺は自分がお前にしたことの責任もとらぬまま、ずっとお前を大地の奥底にとどめていた」
その言葉に、ヴィルヘルムの中の何かが音を立ててキレた。
「……勝手なことを! さんざん甘やかす振りをして、お前は最後に俺を裏切り、殺したくせに!」
自分を抱くロゼウスの肩や胸に爪を立てる。ぎゅうぎゅうと骨ごと握りつぶそうかと思うほどに力を入れても、ロゼウスは顔色一つ変えない。
「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな――!!」
「皇帝陛下!!」
駆け寄ろうとするフェルザードを、ロゼウスが仕草だけで押しとどめる。
「ああ。そうだ。俺はあの時――シェスラートの意識に勝てなかった。結果、お前をこの手で殺した。だからお前は、俺を憎めばいい」
憎んでいる。恨んでいる。殺したいほどに。
「暗闇の底で自分を呪うくらいなら、私を呪え。ヴィルヘルム。お前はもう冥界から解き放たれるべきだ」
「勝手なことを……」
憎み続ける。恨み続ける。お前を殺すまで。
俺は死者でお前は生者。――お前が死ななければ、共にはいられない。
そう、憎んでいる。
それでも誰より会いたかった。
「お前はいつだって……勝手だ!」
優しくするのも冷たくするのも気分次第。けれど惹かれずにはいられない。なんて酷い。
そして本当はわかっている。あなたは結局、本当には“誰のものにもならない”。
「次は俺を選んで。また生まれ変わったら、俺を見つけて」
「ああ――来世で会おう。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス」
相変わらずの酷い嘘吐きだ。来世なんて、本当は信じていないくせに。例え転生が実在したって、お前は本当は誰のことも愛していないくせに。
それでも。
「約束だ」
ヴィルヘルムの悪夢はようやく終わる。