薔薇の皇帝 26

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「やれやれ。行ってしまいましたか」
 ラダマンテュスは永いこと自らの手の中にあった魂が、彼の管轄を離れたことを知った。
「あとは他の奴らに任せましょうか。せめて彼の先行きに幸福があらんことを」
 そして冥界の裁判官はロゼウスたちの方を振り返る。
「結局彼は、なんだかんだいったところであなたに会いたかっただけなんでしょう。置いて行かれることを極端に恐れる魂は、あなたが“迎えに来た”ことで救われた」
 四千年間その眼からヴィルヘルムを隠し続けてきた冥府の管理者は、今ロゼウスと対峙しながら言う。
「でも彼の言うとおり酷い人だ。あなたはそれを、彼自身の思考から読み取って反射しただけ。それをさも本心かのように演出して。まったく、酷い人だ」
 皇帝であるロゼウスは、この世の全てを記録した図書館で過去の記録や人々の魂の記憶の全てを読むことができる。ラダマンテュスが言っているのはそのことだ。
 ヴィルヘルムはその悲しみや寂しさを、ロゼウス自身に気づいて欲しかったに違いない。だがロゼウスはあやふやな推測でヴィルヘルムと向き合うよりも、“神”の力という反則技を使った。
「ま――いいでしょう」
「いいのか。お前はヴィルヘルムを可愛がっていたんだろう?」
 先程の屋敷にすっかり慣れている様子のヴィルヘルムの姿を思い出して問いかけたロゼウスに、ラダマンテュスは意味深な笑みを返す。
「愛している振りと実際に愛していることの違いを、あなたは説明できますか? 皇帝陛下」
「そんなの……」
「本人の中での違いは明確? 人間の心とは、生憎とそうわかりやすくはできていませんよ。そして相手を愛している人間がすることも愛している振りをする人間していることも結局は同じであるのならば、愛する振りは愛しているのと同じことなのではないですか?」
「それは……」
 反射的に否定しようとしたロゼウスだが、それでも一瞬、ラダマンテュスの言葉に意表を衝かれた。
 愛していることと、愛している振りをしているのは同じこと?
 憎んでいるからこそ愛する振りをするのだと思っていた。だからそれは偽りだと。だけどその憎しみでさえ、もとを辿れば感情の根底に愛情があるのではないか。
 愛する振りをさせるような複雑な憎しみは、それこそ相手に某かの感情がないと抱けないものだろう。強盗や親の仇など単純な憎悪を向けるべき相手には、そんな小細工をする必要もないのだから。
 愛すると言う言葉は、常にその背に憎むと言う言葉を隠している。ならば憎しみもまた――。
「だからいいんです。――“あなたの”答は確かに見せていただきましたから」
 そこでようやくロゼウスは気付いた。ラダマンテュスが語っているのは、彼自身ではなく「ロゼウスの」感情だったということに。
 そう――そうなのかもしれない。
 憎んでいたけれど、愛してもいたのかもしれない。それはヴィルヘルムも同じだったのかもしれない。
 生前のヴィルヘルムにはロゼウスも相当苦汁を舐めさせられた。だがもとはといえば彼の人生を歪め、利用したのはドラクルの仕業だ。セルヴォルファスで時折見せたヴィルヘルムの本当の顔は、身内を喪って愛に飢えたただの子どもだった。
 ロゼウスは彼を憎み、自らの手で殺してしまったことで憐れむようになり――そして、ほんの少しは愛していたのかもしれない。
「さて。でもこれで憂いは一つ消え去ったわけですね。余計な幽霊がくっついてこないとわかったなら、さっさと人質を奪還しに行きましょう」
 冥界に長居はできない。フェルザードが気分を切り替えるためにと言葉をかける。
「あのヴィルヘルムとやらが駒ならば、首謀者はやはり四千年前に陛下に殺されたお身内ですか? ドラクル王子という兄君?」
「ドラクル殿下が首謀者?」
 事前に話した情報を確認するために口にしたフェルザードの言葉に、ラダマンテュスが不思議そうな顔をした。
「ああ、なるほど。あなた方の目からものごとを見るとそのように考えられるのか」
「その反応は、違うということですか」
「うーん。私も人間の心の機微はわかりませんからねぇ。ドラクル殿下が関わっているのはヴィルを通じて知っていますが」
 ドラクルが首謀者ではない。ロゼウスはその言葉を聞いて、ようやく冥界に来る前から感じ続けていたものの正体を知った。
 この違和感の正体は、そう、計画の首謀者がドラクルではないことに起因するのだろう。兄らしくない。それがロゼウスの判断を些細な場面ごとに狂わせてきたのだ。
 そしてドラクルでないならば、他の兄妹である可能性も薄いだろう。アンリやルースを始め、彼らは基本的にドラクルに従う。
 ヴィルヘルムを使ったことからも考えて、四千年前の関係者であることは間違いない。そして四千年間ロゼウスを恨み、場合によってはドラクルやヴィルヘルムを使ってでも復讐を遂げようとする人物。
 そんな相手は一人しかいないだろう。少なくともロゼウスには考え付かない。
「そうか。そういうことだったんだな……」
「陛下?」
 ロゼウスは再びラダマンテュスに詰め寄った。
「案内してくれ。四千年前に死んだ男、クルス=ユージーン侯爵のもとへ」

 ◆◆◆◆◆

「まずいわね」
「まずいですね」
 ロゼウスたちが冥府へ赴いてから、地上ではすでに二カ月が経過していた。
 帝国宰相リチャードや狂王妃ローラ、碧の騎士エチエンヌと皇帝の娘アルジャンティアは、帝国領で主の不在を守っていた。
 折悪しく現在の帝国の情勢は、これまでロゼウスが治めていた四千年で最も悪化の様子を見せていた。とは言っても各地で紛争や内乱が勃発したり凶悪犯罪が増加しているということではない。
 ないが――その兆しを見せているのも事実だった。それも狭い範囲ではなく、この帝国の全て、全世界的に。
「フェルザード殿下は最大で半年ほどと仰っていました。あの方のことですから、その時期になればロゼウスの後頭部をどついてでも連れて帰ってきてくれるとは思うけど……」
 現在エヴェルシードのゼファード王子と連絡をとるために席を外しているアルジャンティアを除き、現在の帝国領を支える三人が顔を合わせていた。
 そろそろ皇帝不在の影響が深刻になりはじめる頃合いだ。報告と相談のためにやってきた治安維持担当のエチエンヌは表情を歪める。
「ルルティス先生が王として力をつける速度が、当初の予想より早い」
 今現在、まるでこの帝国を内側から食い尽くそうとでもいうように各国に働きかけて反皇帝の意志をまとめ上げているのは、フィルメリア王となった元歴史学者こと、ルルティス=ランシェット=フィルメリアだ。
 元よりロゼウスから離反してフィルメリアへ赴き、実の両親を殺害して玉座に着いた若き国王は、国内外に積極的に働きかけて反皇帝の気運を高めている。
 離反も何も、彼はもともと皇帝に傾倒していたわけではない。ただ伝記を書くためという常人には共感しがたい理由で悪名高い名君という矛盾した評価を持つ薔薇皇帝のもとに単身乗り込んできたのだ。そんなルルティスにとっては、両親を殺すことも国王として国を変革することも、各国に帝政打倒のために働きかけることも造作ないのかもしれない。
 フィルメリアはルルティスが王になってから急速に変化し、皇帝への反逆を宣言していた。エチエンヌはルルティスの動向を逐一見張っているのだが、その驚異的な影響力には舌を巻くばかりだ。
「内容を見る限り、円満なやりとりではないようだけれど少なくとも作業は円滑みたいね」
 ローラが不機嫌な表情で告げる。彼女にもルルティスの行動の報告は届いている。国内貴族の粛清をしまくっているその様子は、かつての「誰か」を髣髴とさせる。それが内心複雑だ。
「ランシェット先生の心酔者は多いですが、それと同時に反対派も多い。……これから、どうなってしまうのでしょう」
 リチャードが心配するのは帝国のことではない。それは彼らがこれから何とかすべき問題だ。だがルルティスのことは――。
 一体誰が、彼を救ってくれるというのだろう。
 かつての主君の生まれ変わりである少年。けれど決して主君ではない少年の行く末を思い、リチャードたちは気分を沈ませる。
「まるで四千年前のようね。あの時も肝心な時に冥府へ赴かざるを得なくなって、帰ってきたらエヴェルシードが内乱寸前だった」
 その時はハデスの企みにより、彼らは主君シェリダンと共に冥府へ赴いた。戻ってきた時予想以上に地上では時が経過しており、孤軍奮闘で国を支えていたカミラの努力も虚しく、エヴェルシードは崩壊寸前だった。
 そしてエヴェルシードを救うために、その民の心を一丸とするためにシェリダンは自ら「悪役」を演じて国を去った。共通の敵がいれば人心はまとまる。敵がいなければ作ればいい。そう言って彼は自らを国に捧げることを躊躇わなかった。
 悪名高き四ヶ月王シェリダン。その名は今もエヴェルシードの歴史書に残っている。
 冥府の記憶は、彼らに主君の死の次に憂鬱なその事件のことを思い出せた。
「――いいえ。でも四千年前とは違います。少なくとも今は、ロゼウス様の傍にはフェザー殿下がいます。そして皇帝領には、他でもない私たちが残っている。支えましょう。お二人が帰ってくるまで」
「リチャードさん……」
 エチエンヌがくしゃりと顔を歪めた。自らの頬を叩いて気合いを入れ直すと、二人に頷いて自分の役目へと戻る。
「ええ。そうですね!」
「どうせ今度の相手はロゼウス様だもの、シェリダン様みたいなことにはなるはずもないし、杞憂に頭を悩ませるよりも実際に体を動かしていた方がいいわね」
 ローラも微笑み、リチャードと別れ自らの仕事に戻る。
 リチャードは双子の背を見送り、表情を引き締めて執務室へと戻った。皇帝不在で仕事の量が一気に増えた煽りを喰らうのはリチャードだ。もともと多少の不在はなんとかなるような機構を作ってはいたが、半年はあまりに長丁場である。
 それでもこんなところで音を上げるわけにはいかない。
「早くお戻りください。皇帝陛下――」
 滅びに向かう世界も、今この瞬間だけは、皇帝を待ち望んでいた。