薔薇の皇帝 26

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 案内役を用意するとラダマンテュスに言われて屋敷の外に出たロゼウスが見たのは、やはり知った顔だった。
「ミザリー姉上!」
「久しぶりね、ロゼウス」
 艶やかな白い薔薇が綻ぶような美しくも柔らかい笑みを見せたのは、ロゼウスの姉の一人、当時のローゼンティア第三王女ミザリー姫である。
 ミザリーはその時世界で最も美しいとされていた王女である。そして皇帝として四千年間地上に存在していたロゼウスも、いまだかつてこの姉以上に美しい女を見たことはない。ロゼウスの個人的な女の好みとは若干外れるが、美しさでいえばやはりミザリーが群を抜いている。
 そしてそんな美しい姉は、白く細い指先をロゼウスの頬に伸ばし――容赦なく抓りあげた。美しい笑顔を崩さないままにその意味だけをがらりと変えて、四千年ぶりに再会した弟にまずは一言。
「死んでからもこのお姉様に面倒をかけるだなんて、ロゼウスのくせにいい度胸じゃない」
「ご……めんなさい、お姉様。いたた、痛い痛い、ちょ、手離して」
 頬を抓られながらも皇帝は謝った。いや、もはやここにいるのは帝国世界の最高権力者ではない。ただの姉に頭の上がらない情けない弟だ。
 ようやく手を離されてほっと息をつくロゼウスに対し、ミザリーはこれみよがしに溜息をつく。
「まったく、私の旦那様が寛容な方だから良いようなものの、お役目を離れてこんなところまで男同士の暑苦しい戦いを見届けて来いなんて、あんたがただの一亡者の訴えだったらタンタロスの浸かってる沼に突き落とすところよ」
「う、うん。ミザリー姉様が冥界の妃になったことを今日ほど喜んだ日はないよ」
 四千年前、その美貌で知られたミザリーはとある策略によって命を落とした。当時はただの王子である皇帝としての力も何もない、無力な人間でしかなかったロゼウスを地上に戻すために、冥界と地上を繋ぐ門に命を捧げたのだ。
 しかしその行為と彼女の美しさに、冥界の王がミザリーを妻に迎えたいと言い出した。皇帝になってから冥界に打診を受けたロゼウスは仰天しながらも承諾し、その後冥界の妃となった姉とは会うこともなかったのだが……。
「私が変わってないのは死人だから当然として、あんたも見事に見た目が変わらないわね」
 ちなみに冥界の王とは、ハデスのことではない。ハデスと言う名前は確かに「冥界の王」の名だが、ロゼウスたちの知る黒の末裔の魔術師はたまたまそういう名前と性質を持っているだけで、ミザリーの旦那とは別の存在である。
 もちろんハデス自身も冥府の王と呼ばれているくらいなので無関係ではない。彼が冥界を支配しているのは本当だ。
 ただ、ミザリーの夫はそもそも「人」という概念で語れるような存在ではないのである。それ故に彼女は皇帝となった弟相手にも変わらず偉そうな態度をとれるわけだ。冥界の妃は地上では意味のない称号だが、この大地の奥底では地上の皇帝以上の権力を持つ。
 もっともそこはミザリーなので、例え相手が皇帝となった弟で自分が何の権力もない一市民に生まれ変わったところでも同じ態度かもしれないが。
「ところでそちらは? シェリダン王――ではないのよね?」
 彼女はそのまま、ロゼウスの後ろでこれまで一言も発さず突っ立っていたフェルザードに視線を向ける。
 ミザリーにとってはいくら美しくとも面識のある男と同じ顔にしか見えないので、フェルザードに対しても平静でいられた。だがフェルザードの方はこれまでただ無言でいたわけではない。彼はミザリーを見て、実に十数年ぶりの驚きを味わっていた。
「……フェルザード=エヴェルシードと申します。偉大なる冥界の妃よ」
「ミザリー=ローゼンティアよ。噂では聞いていたけれど、本当にシェリダン王にそっくりね。もっとも、実際に並べてみたらあなたの方がいい男みたいだけど」
「当然ですね。ですが妃殿下の美貌には私も驚きましたよ。地上ではこれほど美しい女性を見たことはなかったもので、てっきり私以上に美しい女性は世界に存在しないものとばかり。初めて皇帝陛下とお会いした時以来の衝撃です」
「まぁ、お上手ね。私なんてロゼウスとたいした違いのある顔でもないでしょうに」
 どことなくおかしいというか、この二人は一体自分をどの位置に置いているのかと突っ込みたくなる会話が終了し、ロゼウスたちはクルスの居場所に関してミザリーに案内を求めた。
「ロゼウス、あんたにとっては懐かしい顔ぶれが並んでいるでしょうね」
 三つの首を持つ獣の背に横座りしたミザリーの先導で、一行は冥府の荒れた道を進んだ。

 ◆◆◆◆◆

 知りたいことがあった。
 そのために何を引き換えにしても、誰を犠牲にしても、全てを差し出しても――構わないと。
 教会のステンドグラスから光が射しこむ。
 確か四千年前、ロゼウスが前世の人格であるシェスラートを退け覚醒を果たしたのも舞台は廃教会だった。
 この四千年間、シェリダン=エヴェルシードの遺体を安置していたのも皇帝領の聖堂の地下だ。
 兄は神には何かと縁がある。皇帝は神の代理人だと言う。
 自身がその代理人そのものとなった今でも、彼はまだ、神を信じているのだろうか。
 ジャスパーにはわからない。
 そしてそんなものは、どうでもいいことだ。
 神を信じていようといなかろうと、神に縋ってでもできないことがあると知っているのであれば答は変わらない。
 ジャスパーという存在にとって、この世の全てはどうでもよかった。
 ただ、兄だけがいればよかった。それは別段おかしいことでもなんでもない。選定者とはそういうものだ。
 もともと重要性の低い六番目の王子として生まれたジャスパーは、欲望や野心とは無縁で自己主張もしない大人しい少年として見られていた。
 だが実際は違う。選定者としての自覚を得るまでのジャスパーには、そもそも欲しいものなど何もなかったのだ。欲望が希薄だからこそ何物にも執着しないでいられた。そしていざそれを知った時、誰よりも容易く狂った。
 そう、狂ってしまった。あの時からずっと狂っている。
 なのに――そうまでしてもまだ、欲しいものは手に入らない。
「急に私を呼び出して、一体どういうおつもりです?」
 待ち人来りて彼は振り返る。綺麗なだけのステンドグラスにも十字架にも用はない。この場所はただ人気がなく待ち合わせに便利だっただけ。
 相手もそうだろう。もともと歴史学者などやっていたわりに、浪漫や芸術を解すような男ではないのだ。いや、学者だったからこそ、というべきか。人の世の移り変わりは権力や政治体制の移行が主筋で芸術はそれを反映させただけのものだと。
 何の感慨もなく振りかえり、現在世界を真っ二つに分ける騒乱の種と言葉を交わす。
「久しぶりですね、ルルティス=ランシェット」
「ええ。お久しぶりです。ジャスパー王子。早速ですが本題に入ってもらえませんかね。御存知でしょうが、私は今――この帝国を転覆させる下準備で忙しいのです」
 にっこりと笑みながら言うが、その内容は只事ではない。
 呼び出しに応えてやってきたルルティスに、ジャスパーは単刀直入ならこちらも望むところだとばかりに口を開いた。
「僕が知りたいのはただ一つです」
 今も昔もジャスパーの願いは変わらない。兄を手に入れること。彼に愛されること。ただそれだけだ。
 けれど昔からロゼウスの周囲には彼に惹かれて寄ってくる羽虫が多く、いつまで経っても彼はジャスパーのものにはならなかった。否、それどころかジャスパーはロゼウスに嫌われ憎まれているのかもしれない。
 それでも。
「ルルティス=ランシェット。あなたの真の目的」
「真の目的」
 ルルティスはちょっと考え込むようなそぶりを見せた。さて、どこまで話そうかと言うように。だがジャスパーは彼の半生とその思想を全て語ってもらいたいわけではない。
 知りたいのはただ一つだ。
「何を考えてこんなことをしたのかなど、興味はありません。ですが、“何のために”今動いているのかを教えてください」
 昔、ジャスパーとルルティスの前世たるシェリダンはロゼウスを巡って敵対関係にあった。当事者であるロゼウスの方からすれば彼を巡る関係の上でジャスパーは舞台に上がってすらいないのだろうが、また別の人間の認識は違った。
 シェリダンはある意味では、誰よりもジャスパーを敵視していた。ドラクルやそれ以外の男も嫌っていたようだが、ジャスパーに対する敵意とはまた違う。
 彼が嫌ったのは、ジャスパーのロゼウスに対する執着の深さだ。まったく似通ったところのない二人だが、その想いの深さだけはドラクルやヴィルヘルムのような他の男など問題にもならぬほど似通っていた。
「それを聞いてどうするおつもりですか?」
 だからこそ、とは言わないが、今生でのルルティスとの間にも、ジャスパーとは何か通じるものがあった。
 だがそれは彼の前世での縁のような敵対関係ではない。ある意味では、今はルルティスもジャスパーと同じ立場だからだ。
 決して勝てない相手がいる。
 二人の立場は、今はほとんど同じだった。性格が違うのでそれに対する反応はもちろん変わるが、通じるところは、ある。
「僕は、僕のしたいようにします」
 皇帝の一の臣下たるべき選定者とも思えぬ言葉に、ルルティスは薄く微笑んだ。
「あなたも私と同じだ。死者に囚われている。眼前にあの男の背を見ている限り、決して欲しいものは手に入らない」
「ええ。ですから、取引をしませんか?」
「取引?」
「あなたが望むなら、僕はあなたが望むものを全て差し出しましょう。だからあなたは、あなたにしか叶えられない僕の望みを叶えてください」
「――その望みとは?」
 そして彼は薄い唇に笑みを刻み、この世ではないどこかを覗きこみながら囁いた。

「シェリダン=エヴェルシードを殺して」