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クルス=ユージーン侯爵。
かつて彼は、穏やかな性格の青年として知られていた。
国中でも五指に入りその頂点さえ争った剣聖は、その腕前とは裏腹に穏やかな性格と可愛らしい見た目で知られていた。下手をすれば二つ年下のシェリダンよりも幼く見えるような童顔で、好戦的な周囲に比べて平穏を好む人物だった。
だがその一方で、彼は誰より芯の強い青年だったと言える。シェリダンに捧げた忠誠は一度主君を裏切ったジュダなどとは比べ物にならない。男色家でありほとんどの部下と肉体関係があったようなシェリダンの部下の中で、そういった非公式の見返りを求めずただただ純粋に主君を崇拝していたのはクルスだけだった。誰よりも強く、そして純粋にシェリダンに忠誠を誓っていた。シェリダンのためならば誰を殺すことも陥れることも構わない程に。
ロゼウスがクルスと知り合った頃はまだ十代の少年らしさを遺していた。彼が死んだのはその三年後だが、少年らしさは最期まで失われなかった。彼もまた主君であるシェリダンが死んだ時に、自分の中の時間を止めてしまったからだろう。
忠義を哀切と殺意で彩る永遠の少年侯爵。シェリダンの死後、ロゼウスの最も手ごわい敵となったのは他でもないクルスだった。
四千年前、帝国の反逆者となったクルス討伐をロゼウスはジュダに命じ、ジュダはその命令に従った。剣士としては及ばずともクルスよりも貴族として軍隊を動かすことに慣れていた上、国家の後ろ盾もあったジュダはその命令から三年後、ついにクルスを追い詰めることに成功した。
そして追い詰めたクルスを実際にその手にかけたのは皇帝として即位するロゼウスだった。ロゼウスは反逆者たるクルスの首級を上げることによってようやく皇帝を名乗る資格を得たのだ。
ロゼウスはクルスを殺し――最も貢献した武将であるジュダをも殺した。それがジュダの望みだったからだ。
主従としての関係以外を望んでいなかったクルスと違い、ジュダはシェリダンに恋愛感情を抱いていた。そのためにシェリダンを策略によって貶め手に入れようとしたことさえある。だから彼はロゼウスに従った。シェリダンが愛した相手というのはジュダにとってはそれだけ重い存在だ。
だが、新皇帝に反逆した者と恭順した者、追い詰められた者と追い詰めた者として正反対の立場に立った彼らの行く道は別れても、辿り着いた先は結果的に同じところだったのだ。ジュダは死を望み、ロゼウスはそれを叶える。クルスを殺した直後にロゼウスはジュダをも殺したのだ。
――そうしてこの冥界で、やはり彼らは生前、反逆者と裏切り者という関係に別れる前のように一緒にいるのだ。
「クルス君……」
「イスカリオット伯は黙っていてください」
生前、反逆者として立つ前は年上のジュダに頭の上がらないところがあったクルスも、今では逆の立場だ。ジュダは二重三重の意味で裏切り者の自覚があるためか、今のクルスには強く言えないようである。
「お久しぶりですね。ロゼウス王子」
「ああ、久しぶりだ」
「とは言っても、ここにいる限り僕らには四千年前の戦いも昨日のことのように感じられるわけですが」
クルスは竜骨の上から降りてきた。真っ直ぐにロゼウスの前に立つ。
生前からローゼンティア王子とエヴェルシードの貴族という身分の隔たりはあったが、今はそれ以上。だが、クルスの方に謙る様子はない。
彼にとって、ロゼウスはあくまでも敵なのだ。シェリダンの敵はクルスの敵。主君の敵に下げるような頭はないと。
例えシェリダン自身が自分を殺したロゼウスを赦しても。
クルスはロゼウスを赦さない。決して――赦さない。
「ヴィンセントを返してもらいにきた。これはお前の計画だそうだな。目的はなんだ?」
尋ねても詮無いことを、それでもロゼウスは尋ねる。
「無論、あなたへの復讐ですよ。今年はようやくあなたの力が弱る年だと聞いたもので」
誰に聞いたのかは尋ねずともわかる。そんなことがわかる者、地上と通じているものは限られているからだ。ラダマンテュスはまったくろくなことをしない。
「皇帝陛下」
これまでのどこか不安定で弱々しいところもある死者とは違い、クルスは復讐という目的がはっきりしている分他の者たちには感じない手強さを感じる。フェルザードの呼びかけに、ロゼウスはこう返事をした。
「フェルザード。……これから何があっても、そこを動くなよ」
「え?」
「ヴィンセントを頼む。私は――」
ロゼウスは一度フェルザードを振り返る。
「私は決着をつけてくる」
生きている間に分かり合えなかった。ただひたすら、敵対することしかできなかった。
形や方法は違えと、同じ人物を愛していたのに。否、だからこそ、同じ人物を同じ深さで愛しながらその立場が異なるからこそ、分かり合えなかったのか。
「クルス」
「ようやくその気になりましたか」
「ああ」
禍々しくも嬉しそうに笑うクルスに、ロゼウスも中空から取り出した剣を構えながら答えた。
◆◆◆◆◆
争いの気配を感じて近寄ってきた魔獣が、フェルザードの剣と炎の魔術によって焼き殺される。
「存分にやってください、陛下」
こうなれば露払いに徹するのみと、フェルザードは近寄ってくる魔物・魔獣を片っ端から叩き斬っている。
ただのエヴェルシード人が当たり前のように魔術を使う姿に、ローゼンティア勢は度肝を抜かれた。四千年前は魔術は黒の末裔か魔族の専売特許だった。それも一握りの人間のものだ。エヴェルシード人が魔術を使うなど、彼らの常識ではありえない。
「ちょっとフェルザード王子、むやみやたらとタルタロスの住人を傷つけないでちょうだい。あんなのでも冥界を構成する要素の一つなんだから」
空中から降りてきたミザリーが苦情を言うも、フェルザードの態度は変わらない。
「ご心配なく、冥王の妃よ。その辺の調整は、私が皇帝になったら後日しっかりやりますよ」
「ならいいのだけれど」
「そう言う問題か! 何なんだ貴様は!」
フェルザードの言葉で一応の納得を見せたミザリーとは裏腹に、ドラクルたちの動揺は抜けない。容姿がシェリダンに似ているだけでも驚かされるというのに、この男は一体何者なのかと、フェルザードを睨み付ける。
「私は三十四代皇帝となるべき男、フェルザード=エヴェルシード」
「三十四代皇帝?」
「あなた方だって、だから今この時期に皇帝陛下をお呼びしたのでしょう。代替わり前の皇帝の力が最も弱くなることを見越して」
剣についたまやかしの魔獣の血を振り払いながら、次期皇帝は言った。
「けれど残念でしたね。この先例え何があろうと、私はあの方を決して死なせはしない。私が陛下から帝国を継ぐまで、薔薇の皇帝は決して死んではならないのですよ」
そもそもフェルザードにはドラクルたちの目論見など最初から無意味なものにしか思えなかった。ロゼウスが皇帝だからこそヴィンセントのことも助けに来たが、これがフェルザード自身の代であればわざわざ王子の一人取り戻すために冥界まで降りてきたりはしない。
そもそも自身の力が弱っている時期に、自身を恨んでいる亡者たちが巣食う冥界に赴く方が異様なのだ。そして弱っていてさえ、ロゼウスの方がドラクルたちより力は上だ。
フェルザードにとっては、今のこの状況は茶番だ。まったく無駄なことをしているとしか思えない。だが。
「――わかっているさ。そんなことは」
最初の一言以来ロゼウスに攻撃をしかける気もないドラクルが冷笑的に頷く。
わかっている。これが茶番だということは最初からすべて。
「すでに我らは皆、ロゼウスに負けたのだ。死者が今更どうあがいたところで、地上の生者に勝てるわけがない」
その顔は冷たそうに見えるのと同時に、どこか寂しげにも思えた。
「ならば何故こんな馬鹿げたことに手を貸したのです?」
言葉通りに事の展開がわかっているのならば、どうしてこんな騒ぎを引き起こしたのか。
フェルザードにもわからないことはある。理性を凌駕する感情から最も縁遠い男は、かつての挫折者に問いかける。
「収まりがつかないからだ」
「全ての死者が納得ずくで冥界に行くわけではありません」
「それもわかっている」
人の命は呆気なく奪われる。事故や事件。自ら命を絶つこともできる。そうして死んだ者たちが如何ほどの無念を遺したからといって、全ての魂に死を納得させられるはずもない。例え傲慢と呼ばれようと、勝者で生者であるものは、死者という敗者を諦めさせねばならないのだ。
「だがあなたがロゼウスと深い関係ならば、知っているはずだ。死は全て物事の結果ではあるが、そこが終わりではないことを。ロゼウスの方だって、いまだ死者を想っているだろう?」
「!」
そう――そうなのだ。
死は全ての終焉。だが、その変えることのできない絶対的な結果ですら、人の想いに終止符を打ってはくれない。
彼はまだ、彼を愛している。ロゼウスとクルスを繋ぐのはシェリダンという「死者」の存在だ。
だからこそ彼らはロゼウスを呼び寄せることができた。ロゼウス自身が、まだ、死を越えた想いの終止符を望んでいるからだ。
「あなた方の望む決着とは、一体何なのです?」
「それは――」
「ロゼウス!」
ミザリーの悲鳴に、全員が一点を振り返った。