薔薇の皇帝 26

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 クルスはロゼウスを赦さない、決して許さない。
 そしてロゼウスも――赦されることを望みはしない。
「何の真似です?」
 ロゼウスは構えた剣を動かすことなく、そのままクルスの切っ先に貫かれた。
 あまりにもやすやすと突き刺さった薄い肉の感触に、クルスが目を瞠る。
 ロゼウスの手からカランと音を立てて剣が落ちる。そして空いた両手で彼は――クルスを抱きしめた。
「ありがとう」
 呼吸が止まる。時間がとまる。世界が静止する。
「――ッ!」
 その静寂を乱したのは、この場でロゼウスを除き唯一生きているフェルザードの声なき声。ヴィンセントはまだ意識を取り戻していないので、地上の目撃者は彼だけだ。
 だが彼は先の約束通り動かない。ぎりぎりと噛みきりそうなほどに唇を噛みしめて耐える。
 他の者たちに至っては、あまりの驚愕に動くことができない。
 ロゼウスの腹に刃を埋め込んだまま抱きしめられて棒立ちになったクルス。肩口に顎が乗せられ、喋る度に震動が伝わるような状態でロゼウスは更に囁いた。
「ありがとう、クルス」
「なんで……」
「あいつを――シェリダンを忘れないでいてくれて」
 赦すことは大変だなどと世間は言うが、人を憎み続けるのも大変なことだ。
 憎悪などという負の感情は、健康的な日常を送る上では不要なものだろう。恨みなど、憎しみなど、ない方が幸せに生きていける。憎悪を抱く経験自体ないに越したことはないが、それでも人は人を憎まずにはいられない。
 けれどその憎しみさえ、いつかは忘れて生きていく。
 「赦す」という綺麗な言葉で飾って、その日その時の恨みつらみの重さを捨ててしまう。
 今生きている者が幸せになる方が大切だと。――では殺された者の想いはどうなるのか。
「俺は俺を赦せない。それでも俺はこの四千年間、皇帝として生きて行かねばならなかった。だからみんな――俺を赦した」
 口では赦さないと言いながら、ローラもエチエンヌもリチャードも、本当はロゼウスを赦していた。
 彼らはシェリダンの最も傍にいた者たち。そして同時に、エヴェルシードの人間の中では誰よりもロゼウスの傍にいた者たちでもある。だから最初から誰より知っていた。ロゼウスの苦しみを。
 それにローラたちはこの四千年間、誰よりも近くでロゼウスを見てきた。そんな彼らに、ロゼウスを憎み続けて赦すなという方が無理なのだ。
 そしてフェルザードやゼファード、アルジャンティアにルルティス。シェリダン=エヴェルシード本人を知らない、薔薇の皇帝の時代に生まれた者たち。
 彼らの憎しみはロゼウスよりも、殺されたシェリダンの方へと向かう。彼らが個人的にロゼウスに対して憎しみを抱く場面もあろうが、それはシェリダンのこととは関係ない。それよりも、四千年の経った今になってもその心を縛り続けるシェリダンの方を糾弾する。
 けれど、ロゼウスは。

「俺はまだ、シェリダンを愛している」

 ――違う! こんな結末が欲しかったわけじゃない! こんな未来が欲しかったわけじゃない! 違う!! こんなことをするために、生まれてきたわけじゃない!!
 ――お願い、誰か殺して! 俺を殺して! お願いだから死なせて!

 エチエンヌに諌められてから表面上は大人しくなったものの、破滅を願う意識はまだロゼウスの中にある。
 こんな命に何の意味があるのか。
 どれほど世界を治めても、悪を裁いても、人を救っても。
 シェリダンがいない。彼が、いない。
 ただそれだけで、ロゼウスの人生は全て色と光を失うのに。
「殺したくなかった。自分が生きるために他者の血を啜る吸血鬼の本能に絶望した。でも殺したのは俺なんだ――そうと知っていれば、最初から生まれてきたりしなかったのに」
 自分が犯す罪を知っていれば、生れ落ちたその瞬間に母の胎内を切り裂いてでもその中に戻ったのに。
 お願い、赦さないで。
 この命も存在も人生も、価値なんて何一つない。
 未来はいらない。過去だけを見ている。止まった時間の中でいい。
 彼のいない世界で呼吸を繰り返すだけの時間など、どれほど積み上げても無意味だ。
「だから俺を赦さないで。永遠に憎み続けて。魂から否定して」
 お願い殺して。もう、死なせて。
 そう思わなかった日はない。
 生きなければという思いはいつも、死にたいという願いの裏返し。
 この四千年間が無意味だったとは思わない。生きて来たからこそ会えた人がいた。心を通わせることはなくとも、肩触れあってすれ違う人々が何人もいた。
「俺はフェルザードの選定者。そのために生きてきた。そのために生きなければならなかった」
 四千年苦しみ続けて、ロゼウスはようやく自分を救ってくれる自分以上の皇に出会った。そのためにこの人生があったのならば、だらだらと無意味に生き続けてきたことも仕方がないのだと納得もできた。
「でも……それでも、シェリダンを愛している」
 それでも――。
 皇帝として認められるのはフェルザードでも、人としての自分は、まだシェリダンを愛しているのだ。
 フェルザードのために自分の苦しみがあったのならば仕方がないけれど、彼のために生きる自分のために、シェリダンが死なねばならないというのは違う。
 例え神が世界がそうだと言っても、ロゼウスはそれだけは認めるわけにはいかないのだ。
 だからフェルザードの手をとることはできない。彼が未来を紡ぐ皇帝となるその時代、過去にしか存在しないシェリダンを愛しているロゼウスは、止まった時の中に残る。
 凍りついた時間が動き出してしまえば、ただ一つ息をする罪深さにも自分が耐え切れないから。
 だから。
「クルス、お前が俺を憎んでいることが、お前がまだシェリダンを愛していることが――俺の救いだった」
 お願い、誰も俺を赦さないで。
 殺したのだ、シェリダンを。あの人を殺したのだ。そんな自分が、赦されていいはずがない。
 それではまるで、シェリダンの命よりも自分の命の方が重いようだ。
 そんなのは赦せない。絶対に認めない。
「俺を憎んで、蔑んで。永遠の苦しみを願って。そうでなければ――」
 一瞬の痛みにロゼウスが言葉を止める。
「あなたは馬鹿だ。本当に愚かだ。話にならない」
 クルスが剣先を引き抜くために、乱暴にロゼウスを突き飛ばしたのだ。白い肌と白い服と地面の白い砂に紅い血が散る。
「皇帝陛下!」
 フェルザードがクルスを睨む。だが彼はかつての主君に瓜二つの次代皇帝には目もくれず、ただロゼウスだけを見つめていた。
 その炎色の瞳には、涙が浮かんでいる。
「クルス君」
 ジュダが歩み寄ってきたクルスの肩を掴む。その手を振り払い、尚更彼は叫んだ。
「何故僕が、あなたを救わなければならないんです? 赦されたくないくせに救われたいのですか。だから、これだからあなたなんて――!!」
 激しい感情の発露に、もう肉体もないのに涙が滑り落ちる。
「あなたはずるい! あなたは誰よりも醜い! 僕には何故シェリダン様があなたを愛したのか、まったく理解できない!」
 そうだ、ロゼウスは誰よりもずるい。まったくクルスの言うとおりだ。反論のしようもない。
 そのずるさの形を、今までは誰もうまく言葉にすることができなかった。けれど今彼がはっきりと言った。
 赦されたくないくせに救われたい。
 ああ、そうだ。

 それでも救われたいのだ。

「僕は……最初からあなたが怖かった。あなたをローゼンティアから攫ってきたのはシェリダン様なのに、いつかあなたがあの方を僕たちの手の届かない場所に連れていってしまいそうで」
 クルスにしか理解できないシェリダンの一部があるように、ロゼウスにしか理解できないシェリダンの一部がある。そしてクルスとロゼウスがそれぞれ理解するシェリダン像は、まったくの別物なのだ。
 ロゼウスが理解したシェリダンの一部とは、彼の最も暗い心の闇。それは当初シェリダンと敵対関係にあったロゼウスだからこそ理解できたもの。
 主君の闇を全て理解するには、クルスは潔癖すぎたのだ。
 一方のロゼウスはシェリダンの潔癖な部分を理解できない。国のために名を汚す覚悟など、考えたこともなかった。
 クルスとロゼウスは、同じ人物を通しても最初から最後まで別のものを見ていた。
「ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア!! 僕はあなたが、大っ嫌いです!!」
 子どものようなその言い様に、ロゼウスは微かに笑った。
 彼らの悲しみは決して共有できない。ただお互いに悲しんでいることだけはわかるから、他にどうにもできない。
 相手を完全に理解することはできない。そもそもロゼウスとシェリダンだって、相互理解には程遠かった。お互いの望みを思惑を押し付けて、いくど相手を傷つけ苦しめてきたかわからない。
 それでも、確かに心が触れ合った瞬間はその時、その場所にあったのだ。
 この止まった時間を動かすことを、どうして人は望むのだろう。時がすぎれば得られるのは、ただ朽ちた砂の屍だけだというのに。
 すでにロゼウスとクルスは、クルスの死後にも関わらず再び道を交えてしまった。人は自分一人で生きるのならば停滞した日常を送れるのかもしれないが、ひとたび外部の刺激を受けてはそうもいかない。歯車は他の歯車と噛みあって初めて時計の針を動かすのだ。
 それが滅びに続く道だとしても。

 答は出た。

「あなたには殺す価値もない! さっさと地上に帰ればいい!!」