薔薇の皇帝 27

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 舞台はフィルメリア王国。時間は、数か月ほど前に遡る。
「やっほー。グウィンさん」
「ああ、ルルティスさん。お久しぶりで――え? ええっ?! ルルティスさんですか?!」
「うん。すみません。しばらくグウィンさんの家に泊めてください」
「ええええええええっ!!」
 自らの研究を進める傍ら学院で講師として働いていた神学者グウィンのもとに、既知の学者ルルティスが転がりこんできた。有無を言わさず職場に押しかけ、当然のように家に世話になったのである。
「別に食事をたかりに来たわけじゃなくてですね、グウィンさんにいくつか紹介してほしい場所があるんですよ」
「そ、それは構いませんが、ルルティスさんはあの……」
 グウィンはかつてルルティスと皇帝に命を救われて以来、大変な恩を感じている。それにルルティスとは学者仲間で意気も合う。今までも何度か手紙のやり取りはしていたが、前触れもなく尋ねてこられたのは初めてだ。
 しかしこの奇天烈な少年学者が、他でもないこの国の王と第二王妃の息子、すなわち王子なのではないかという噂はグウィンも聞き知っている。それどころか昨年の学者会議で直接国王夫妻の顔を見ているため、グウィンは噂を信じるどころの話ではなく、それが真実なのだと確信している。
 国王の愛人から第二王妃となった女性とルルティスの顔立ちはそっくりだ。まさしく生き写しと言っていい。これで血縁ではないという方が不自然だろう。そもそもフィルメリアにチェスアトール人がそう何人もいることの方が珍しいのである。
「ああ、ええ、そうですよ。王の息子らしいんですよ」
「ですよって、そんな簡単に。あああ、でも俺の方もこんな言葉遣いで! 王子様とお呼びするべきでしょうか?!」
「気にしないでください。というかむしろ今はその方が好都合ですから、今まで通りにしていてください。そんで畏まった方が演出的にはいいなーって場面ではちゃんと畏まってくださいね」
 意味ありげな頼みごと、それも一朝一夕では到底終わらなさそうな内容に、グウィンは嫌な予感を覚える。ただでさえ変人だらけの学者業界でも、このルルティス=ランシェットはチェスアトール学院きっての問題児だったというのだ。
「……何か企んでます? ルルティスさん」
「もちろん」
 妹のフィオナ手製の料理を平らげて、ルルティスはにんまりと怪しい笑みを浮かべた。
「――世界を変えてみたいとは思いませんか? グウィンさん」
 妹や幼馴染のライスに言わせれば、それで話に乗ってしまうグウィンもグウィンだということなのだった。

 ◆◆◆◆◆

「確かにその瞳の色ならばバレにくいでしょうが、本当に大丈夫なんですか?」
「いいからいいから」
 フィルメリア人は浅葱色の髪に榛色の瞳をしている。一方、チェスアトール人、正確にはチェスアトールとフィルメリアのハーフであるルルティスはチェスアトール人の特性が強く出て、亜麻色の髪に琥珀の瞳をしている。
 茶色は光の加減によって琥珀にも見えるし、そもそも明るい茶色を琥珀色と言うこともある。だが髪の方は緑と茶髪では誤魔化しようがなく、そのためにルルティスは染粉を使って髪の色を変えた。
 これで浅葱色の髪に琥珀の瞳の、何の変哲もないフィルメリア人となったわけである。
「で、学院と王城と……あとはどことどこでしたっけ?」
「あとは騎士団と病院とそれぞれの農工商組合なんかと……地図ってあります?」
 そもそもルルティスが染粉を使って髪の色を変えたのには訳がある。
「あることにはありますが……どこに行く気なんです?」
「可能であれば全部」
「……本気ですか?」
「本気ですとも」
 ルルティスは本気だった。
 髪の色まで変えて純正フィルメリア人になりきったルルティスは、王城に入る前にこのグウィンの家に寄り、彼の伝手を可能な限り利用して、国内の隅々まで見て回った。
 学院に病院、農家の組合に商人の連盟、工業地帯、王城にわざわざ下働きとして入り込んで使用人たちの様子や騎士団まで見て回った。
 ルルティスはフィルメリアの国王によって、招かれてこの国にやってきた。次の王となるために。グウィンはルルティスのこの奇行は全て、将来的に国王となってから国内を改革するための下準備だろうと認識していた。
 それはある意味間違っていて、ある意味では間違っていない。
 フィルメリアはかつて知の王国と呼ばれるほど学問に精通した先進国だった。しかしその栄華はすでに過ぎ去り、今は頭の凝り固まった老人のような国だと言われる。技術も経済も何ら新しいことを生み出さず、ただ淡々と同じ毎日を繰り返す、時の止まった王国――。
 ルルティスの存在は、そんな伝統的な王国にとっては一陣の風などというものではなかった。彼は嵐、台風そのものだ。あらゆるものをなぎ倒し屈服させる暴風。
 外見からフィルメリア人とは思えない見た目であり、王城育ちではない王子。頭脳は学者として磨き抜かれたのだからもちろん、武術にも秀でている。おまけにフィルメリアにやってくるまで皇帝領にいて皇帝にも面識がある。
 どこをどうやっても問題を引き起こしそうな経歴だ。彼を御せる人間がいるのであれば、フィルメリアはそもそも零落していないだろうというほどに。
 グウィンはルルティスの将来に一抹の不安を感じながらも、それ以上に多大な期待をかけていた。
 何と言っても彼と皇帝は、グウィンにとって恩人である。かつて自分を救ったように、この国も救ってくれるだろうと――。
 けれどルルティス=ランシェットという人物は、そんなグウィンの予想を遥かに超えたとんでもない人物だったのである。

 ◆◆◆◆◆

 ところでフィルメリア王室は、ルルティスがやってくる以前から揉めに揉めていた。
 理由は次の王位継承者である正妃の子、第一王女セリカレンディエーナが永く病に伏していることにある。
 彼女は別段病弱に生まれついたわけでもないのだが、ある日を境に体調を崩し、今ではろくに身を起こすこともできないという。
 フィルメリア王には政略結婚で得た正妃とこの第一王女、そして踊り子として働いていたところを王が見初めて妃にした第二王妃しかいない。王女が死ねば、直系の王族にこの国を継ぐ者がいなくなってしまう。
 だからこそその昔攫われた王子ルルティス――もともとの名はベルンスタインという――が国外で発見された際、フィルメリアの議会は揺れに揺れた。
 病で先のない王女しかいない以上、例え帝王学を受けておらずともその王子を次の国王として迎え入れるべきだという一派。
 そして、それでも正当な王の血統を優先するべきだという一派の争いである。
 ルルティスは正妃ではなくもともとは妾であった第二王妃の息子。公式に存在した王子ではあるが、十年以上前に死んだと目されていた王子だ。ルルティス自身マンフリート誘拐事件の際にこの国の貴族と関わったものの、過去の記憶は実感を伴わないまるで他人のもののような記録としか思えない。
 王家の血筋の正統性で言うならば、ルルティスは異母姉のセリカレンディエーナに敵わない。それでも国王の希望が通り、ルルティスがこの国に招き入れられたのは他でもない彼女が死に瀕していたからだ。
 そして問題の渦中の人物――ルルティス自身がフィルメリアに訪れたのには、彼の個人的な理由からだ。
 実の両親に招かれたからだとか、王子としての義務感からだとか、そんな理由ではない。
 フィルメリアの人間はその時まで、誰一人としてそれを理解していなかった。