薔薇の皇帝 28

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 迫りくるはフィルメリアの軍勢。迎え撃つは皇帝のしもべ。
 過去七千年の歴史の中で、これほど大掛かりな反逆が存在しただろうか。この世界に無数の小国がひしめき、黒の大国ゼルアータがそれを踏みにじり、そのゼルアータを始皇帝が打倒して帝国を打ち立てたその日から、皇帝とは神のごとき絶対の君臨者であった。
 今はそれも過去の話、お伽噺に等しいような歴史と成り果て、帝国の民はその頸木から今まさに解放されようと鬨の声を上げる。
「ロゼウス!」
「ゼファードか。お前、エヴェルシードの方はいいのか?」
「人の心配してる場合かよ! お前、お前の方こそ大丈夫なのか?!」
 ついに名実共に次のエヴェルシード王としての道を歩み始めた少年は、しかし彼の命ほどに大事な国を離れて皇帝領へとやってきた。各国の王は皇帝に忠誠を誓う者。皇帝が倒れては帝国の保証する王の座など意味はない。
 もっとも、ゼファードはそんな風に考えてわざわざこんなところまでやってきたわけではないだろうが。
「大丈夫に決まっている。次の皇帝はお前の自慢の兄だろう。あのフェルザードが、万に一つでも自分の納得の行かぬ結末を許すと思うのか?」
「そういうことじゃないだろ! お前が……お前がどうだって言ってるんだよ!」
 怨嗟の声は鳴り響く。フィルメリア王の呼びかけに、他国の民も応えて出陣した。
 この世界にもはや皇帝などいらないと。
 七千年の歴史に存在する全ての皇帝を否定するわけではない。
 だが薔薇の皇帝――ロゼウス=ローゼンティアのごとき暴虐の君主はもはや自分たちに必要ないのだと。
「俺は別に思うことなどないさ。これまで四千年も、飽きる程好き勝手やってきたんだ。今更悔いも何もない」
「そんなわけ――」
「さぁ、もう行け、ゼファード。次の皇帝の時代にエヴェルシードの立場を守るためには、実績が必要だ」
 まだ何か言いたげにしていたゼファードは、部下が彼を呼びに来たことを契機として去っていく。
 ――戦いが始まるのだ。

 ◆◆◆◆◆

 大人たちは淡々とまるでいつもの業務の続きのように自らがなすべきことを話し合い、それぞれの戦いの現場へと赴いて行った。独り残されたアルジャンティアは、彼女とはまったく別の意味でこの場所に残った唯一の人間に話しかける。
「フェザー王子」
「アルジャンティア姫。あなたは早くどこかへ避難した方が良いですよ」
「避難なんて……どこにすればいいのよ。この世界は帝国よ。どこへ逃げたってそこは帝国なのに」
 少女は自らの運命をすでに受け入れて、静かに微笑んだ。
 父や母を置いて逃げるなどという選択肢は毛頭ない。
「皇帝なんて不自由なものだわ。王様なら役目を追われたら自分の国から逃げ出せばいいだけだけれど、お父様は皇帝だから、こんな時に逃げる場所もないのね」
「まぁそうやって亡命途中で死亡する王族の数を考えたら一概に逃げればいいとは言えませんが……そうですね。外の連中はこれまで陛下がいかに恩恵を与えてきたかも忘れて、この世界に皇帝は不要だなどとぬかしている」
「あなたはどうするの? 次の皇帝なんでしょう?」
「そうですよ。だけれど私は所詮、焔帝フェルザード。決して薔薇の皇帝にはなれない」
 フェルザードはロゼウスよりも能力の高い次期皇帝だ。
 だがそれは、彼がロゼウスと同じ存在になることとは違うのだ。
 偉大なる薔薇の皇帝。四千年の永きに渡り帝国を支え続けた存在には、決してなれない。
 現在人々の憎しみはフィルメリア王ルルティスの思惑通り、薔薇の皇帝ロゼウスに集中している。ここでフェルザードが何もせずに傍観し、全てに決着がついてから出て行ったところで彼の不利になるようなことは何一つないだろう。
「無駄に焦らすのは好きではないので、一つだけ教えて差し上げましょう。アルジャンティア姫」
「何?」
「この戦い、普通に戦えばまず我々が勝ちます」
「……え?」
 世界中を敵に回してなおそれをねじ伏せることができる。
 それが皇帝という存在だ。
「ランシェットは、負けるとわかっていて戦を仕掛けてきているのですよ」
「どういうこと? 私、てっきり――」
「ええ。世間の大多数の人間はそう思っていることでしょう。そして陛下も――その思惑に乗るつもりなのですよ」
 民に必要とされない皇など無意味だ。だからロゼウスは、あえてここで玉座を降りる。
「もともと潮時だったんでしょうけどね。いい機会です。ここで死んだことにすれば、穏便に皇位を捨てることができる。あの方はもう表舞台に立つ気はないのでしょう。生きているのに選定者として私の傍にいないと、周囲に探されてしまうでしょう」
「そ――」
 与えられた情報が一瞬で錯綜して混乱するアルジャンティアは、もはや何を言っていいのかわからない。
「それじゃあ……こんなのただの茶番じゃない」
 ようやく絞り出した言葉はそんなものだった。そしてそれは極当然のように肯定される。
「茶番ですよ」
 フェルザードはあっさり言い切った。
「どんな大事件も過ぎ去ってしまえばただの記録です。帝国の変革。それがなんだと言うのでしょう。私たちの時代より百年前に生きた人々は、果たしてすべてみんな不幸だったのですか? 私たちの時代より百年後に生きる人々は、すべてみんな幸福になれますか? ――いいえ、そんなはずはないのです」
 どんな時代のどんな場所だって、そこに生まれた者の多くはそれなりの人生を送る。
 世界が平穏でも不幸な者はいるだろう。乱世に生きて幸福を掴む者はいるだろう。
 誰もが皆平等に幸せな世の中などありえないのだ。
「じゃあ、今この戦いに何の意味があるの? 百年後に歴史家が何を言ったって、今の私たちには何の意味もないじゃない」
「そんなことはありませんよ」
「でもさっき」
「アルジャンティア様。人は必ずいつか死にます。でもやがて死ぬのだからと、生まれてくることは不幸だと思いますか?」
 アルジャンティアは目を見開いた。
「百年前も百年後も、私たちには関係ありません。千年の歴史を積み重ねることも千年後に滅びが来ることも――私たちには何の関係もありません」
 次の皇帝は厳かに言い放つ。
「人は結局、今を生きるしかないのです。今、ここにこうしていること。それが生きているということなのです」
 この城の外、皇帝領に押しかけて薔薇の皇帝の廃位を望む人々はだからそうしている。四千年を治めた皇帝にやすやすと従うのではなく、自らの意志で自らがどう生きるかを選び取った。その答がロゼウスの廃位だったというだけ。
 時を動かすこと。時を積み重ねること。未来を見つめ、前に進み、手探りでも一歩を踏み出すこと。それが生きるということならば。
「この世界に変わらないものはないの? 永遠はないの?」
 過去を見つめる薔薇の皇帝。あなたはこの四千年間、ずっと死につづけていた。
 ――皇帝よ、あなたはだからこの世界を見捨てるのですか?
 アルジャンティアは両手で顔を覆い蹲る。
「その答は、これからあなたが出すのですよ、薔薇の皇帝の娘君」
 フェルザードはマントの裾を翻して歩き出す。アルジャンティアは飛び起きてはっしとその揺れる裾を掴んだ。
「待って! 私も行く! 行くからね!」
「げ。……どうしてよりによって、私と一緒に来るのです?」
「私は生きたいからよ!!」
 うんざりした顔のフェルザードにも負けず、アルジャンティアは叫んだ。
「世界がお父様を見捨てても、お父様が世界を見捨て続けていたのだとしても――私は薔薇の皇帝の娘として、この時代に生まれて幸せだった! 最後までそう言い続けて生きていきたい! だから私を歴史の変わるその場所に連れて行って!」
「そんなことは私じゃなく、あなたの王子様ってか我が弟陛下に頼んでくださいよ」
「だ・め・よ! ゼファードでは駄目! だって次の皇帝はあなたなんだもの! フェルザード=エヴェルシード!!」
 これだけは譲れないとばかりに、彼女はぎゅうぎゅうとフェルザードのマントの裾を絞る勢いで掴む。
「仕方ありませんねぇ」
 いいからマントを雑巾のように絞るのはやめてくれと、フェルザードはアルジャンティアの手を引き離す。そのまま彼女を引っ張り上げるように立たせて、後ろを半分振り返りながらゆっくりと歩き出す。
「――それでは、一つの時代の節目を一緒に見届けましょうか。冠なき姫よ」

 ◆◆◆◆◆

 丸一年を過ごした場所だ。
「本当にお一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫も何も、一人で行くほかないでしょう? こんな通路、大勢で歩いたら気配でバレますよ」
 自他ともに認める悪童だった自分は、数々の抜け道にも精通していた。悪戯が過ぎて洒落にならない事態に陥ったこともあるくらいだ。人目をかいくぐって侵入することなど容易い。
 そして、抜け道を知られていることを知られている。だから相手が待ちかまえている可能性もあるのだが、目的の人物はその性格上、侵入者が出た先に大勢の兵士を配置するような真似はしないと断言できる。
 待ち構えているのなら恐らく本人だろう。彼の望みは、こちらの望みと似ている。
 持ち込むのは一騎打ちの体だ。
 それで全てが終わる。
「こんなところから失礼いたしますよ、薔薇の皇帝陛下」
 聖堂の中で居眠りでもするかのように壁にもたれていたロゼウスが、ぱちりと目を開いて微笑む。
「待ちくたびれたぞ、ルルティス=フィルメリア」
 遅くなってすみませんね。では、殺し合いを始めましょうか。