薔薇の皇帝 28

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 歴史の変革者たちは相対する。
 精緻な細工のステンドグラスから差し込んだ光が七色の影を地面に落とす。硝子の加工技術は上がっているが、この聖堂に使われている硝子は昔ながらの技術で作られていた。単純に古いからではなく、その方が味のある美しさだからだという。
「ルルティス……」
 皇帝は――否ロゼウスは、どこか悲しげに問いかけた。
「何故、ジャスパーを殺した」
「それが必要なことだったからです」
「必要なこと?」
「必要なことだったのです――私にとって、どうしても」
 ルルティスは重ねて言った。ロゼウスには理解できなかった。
 つまるところロゼウスが聞きたいのはそれだけだ。ルルティスが言いたくないことも。どこまで言っても平行線だ。そして二人相対した時から、外の世界のことなどどうでもよくなってしまった。
 酷い話だ。フィルメリア勢はルルティスの、それ以外の国々はロゼウスの意志に従ってこの戦を始めたというのに。
「何故――」
 ロゼウスは問いかけてばかりだった。
 全知全能、神の力を持つと言われる皇帝でありながら、ロゼウスには何もわからない。何も変えられない。
 上っ面の理屈、その人の表層上の動機は理解できても、その心の深い部分までは――わからない。
 そしてそんなロゼウスの心情を、ルルティスの方は的確に見抜いている。
「私が何を想い何を考えて行動したか、そんな理由などもうどうでもいいことでしょう」
「ルルティス」
「だって皇帝陛下、あなたはフェルザードに玉座を譲った後、死ぬ気なんでしょう?」
「それは……」
 それは、事実だ。
 衰え始める前からフェルザードの力がロゼウスを凌ぐ以上、彼には選定者が必要ないということになる。別段先代と当代の皇帝が共存しても構わなかろうが、この世界は今現在滅亡の危機に瀕しているわけでもない。ロゼウス一人で四千年間治めていた世界だ。ロゼウスよりも力の強い皇帝であるフェルザードが即位する時、そこにロゼウスの存在は必要ない。
 否、いっそいない方がいい存在と言うべきかもしれない。
 フェルザードの目指すところはロゼウスとは真逆で、それはむしろ今回フィルメリア勢を率いて蜂起したルルティスの主張に近い。
 そんなフェルザードの傍にかつてより僅かに弱まるとはいえ四千年間も皇帝を勤めあげたロゼウスがいればどうなるか。
 フェルザードの治世下でありながら、それはロゼウスの影響の範囲内になってしまう。それでは何にもならない。世界を新しくする意味がない。
 もはや皇帝としてのロゼウスの最後の役目は、この世界から綺麗さっぱり消え去ること。フェルザードという新帝が新たな時代を作り、人々がその時代を受け入れ過去を振り払うためには、否定されるべき悪役が必要なのだ。――そのための殺戮皇帝。
 だからルルティスのこの反逆は、ロゼウスにとっては都合よく姿を消すための好機だったと言ってもいい。
 だがそれも、ジャスパーのことがなければだ。どうせ弟はロゼウスの選定者。ロゼウスが死ねば命運を共にするはずだったのだ。わざわざ一人だけ先に殺す必要なんてない。
「ルルティス、お前はジャスパーを、俺の選定者を殺した。俺が死ぬその時、運命を共にするべき弟を」
 最期まで傍にいると誓ったのに、ジャスパーはロゼウスを置いて行った。
 自分は今、独りだ。
「だから俺はお前を殺す。俺の道連れを殺したんだ。お前が俺の道連れになれ」
「お断りします。あなたを殺すのもあなたに殺されるのも構いませんが、あなたと心中なんて御免ですね。共に生きるの反対は、共に死ぬことなんかじゃない」
 ルルティスはすっと目を細める。
「あなたこそ、どうせ死ぬのならその命、私にくださいよ」
「何?」
「だっていらないんでしょう? シェリダン=エヴェルシードを殺した自分の存在を罪だと感じ、裁かれたくて地獄に落ちたくて仕方がないんでしょう? ならば私が叶えて差し上げます」
「……」
「一生大切にしてあげますよ。鎖で繋いで、何も見ないようその眼を抉り、何も言えないよう舌を抜き、死ぬまで私の囁く愛と憎しみだけを聞き続けていればいい。そうすればあなたはもう誰のものにもならない」
「……いくらエチエンヌに自虐的だと叱られる俺でも、そんな痛そうなのは御免被る」
「それは残念」
 唇を歪めて眉を下げ、本当に残念そうにルルティスは言う。
「あなたに愛されないならせめて、あなたを手に入れたい。憎まれても恨まれてもいい。私はただ――」
「愛しているよ」
 ルルティスが最後までその望みを口にする前に、ロゼウスはそれよりも強い彼の望みを口にした。
 だがそれは、やはりルルティスの望む形ではなかったのだ。
「シェリダンとは違う形でだけど、お前のことも愛している」
 だから口ではルルティスを殺しシェリダンを取り戻すなどと言いながら、彼がジュスティーヌに毒を盛られたと聞いて本当に心配した。シェリダンの復活を望む気持ちは強いが、ルルティスを殺すくらいなら、そんな望みは叶わなくていいと思えた。
 ――なのに今はまた、そうして一番殺したくない相手と、避けられない命のやりとりをしている。
「そんなの意味ない。そんな言葉で何もかも誤魔化す気ですか。あなたは四千年もの昔、シェリダン=エヴェルシードを殺したことを気も狂わんばかりに後悔した。その口でよくも、私を殺すなんて言えますね!」
 シェリダンは殺せない。ルルティスは殺せる。ならばその優先順位はどうやっても覆らないと。
「所詮あなたにとって、私の存在はそれだけの価値しかないということでしょう!」
「違う!」
 叫ばれて叫び返す。打てば響くように返ってくる声は高まり、悲鳴のようだ。否、これはまさしくルルティスの悲鳴なのだろう。ロゼウスの無情さに翻弄されて血を流した心の悲鳴だ。
「違わない! あなたの一番はいつだってシェリダン=エヴェルシードだ! この期に及んで御為倒しなんて聞きたくない!!」
「――俺の最上の相手がシェリダンであることは否定しない」
 永い時を生きた皇帝。四千年物間地上を治めた支配者。当然関わった人間の数も多く、その誰もが様々な意味でロゼウスに影響を与え、感情を残した。それでもロゼウスの、シェリダンが誰より大事だと言う想いは変わらなかった。
「だけど、俺がシェリダンを殺したことの意味と、これからお前を殺そうとすることの意味ならばまったく別だ」
 それでもルルティスが大切ではない、ということではないのだ。
「シェリダンを殺した時、そこに俺の意志はなかった。ただ浅ましい本能が、自分を生かすためにその場で一番近くにいた相手に食らいついただけ」
 思い出したくもない過去を脳裏に蘇らせながら、重ねようともせずともぴたりと重なる面影を見つめた。そしてその上で、あえて面影と重ならない『ルルティス』の部分に告げるのだ。
「だけどルルティス、お前を殺すのは、俺の理性だ」
 どんなにルルティスが望んでも、彼がシェリダンの位置に来ることはない。シェリダンへの愛し方とルルティスへの愛し方には、明らかな違いがあるのだ。ロゼウス自身にとっても不思議なことに、それは自分でもどうしようもならない。
「お前は俺を裏切り、俺の為の選定者を傷つけ、帝国に仇なした。どうあっても殺さなければならないのなら、いっそ俺の手で殺す。誰にも渡さない。絶対に許さない」
 シェリダンは殺したくなかった。でもルルティスは殺したいのだ。それがロゼウスがルルティスに向ける愛情なのだ。
「俺は永遠にお前のものにはならない。お前が死んで俺のものになれ」
「――愚かな人」
 ルルティスは憐れむような眼差しを浮かべる。ロゼウス本人にそんな自覚はないというのに、彼の目に移るロゼウスは、どうしていつもそんなに悲しそうにしているのだろう。
「そうやって四千年前にシェリダン=エヴェルシードを殺して後悔したのでしょう。囚われるのは私ではない、あなただ」
「それでもいい」
 この戦いには始まる前から勝者も敗者もいない。
 ロゼウスもルルティスも、皇帝領で戦う人々も、戦況を見守る帝国の民も、誰もが皆明確な敵がいるようでいて、その実打ち砕くのは鏡の中の自分だ。
「俺は所詮止まった時の中にいる皇帝らしいからな。だからお前も――『永遠』にしてやるよ」
「お断りしますよ。我が皇帝。私はあなたの反逆者なのですから、あなたの思い通りになんてなりません」
 ルルティスはロゼウスを見据え、堂々と宣言した。

「ルルティス=ランシェットは、人として生き、人として死にます」

 ――私は人として生き、人として死ぬ!

「そうか……やはりそれが、お前の答なのか」
 いつだって永遠を望むのはロゼウスの方だけだ。
 琥珀の瞳はもう朱金に輝くことはない。けれどその瞳が宿す光は、生まれ変わっても失われたりはしなかった。それでも彼は――シェリダンではない。
「ならばやはり――殺し合おう。さぁ、来い。『ルルティス=ランシェット』!!」