薔薇の皇帝 28

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 その日、冥府にあるラダマンテュスの屋敷は大勢の客が詰めかけて大盛況だった。
「……なぁお前たち、この前もうレテの河を渡るとか言ってなかったか」
 とはいえ今日になって地上でいつもより大量の死人が出たとかいうわけではない。詰めかけたのは、もはやこのタルタロスの定住人と呼べるほどに長居をしていた昔の死者たちだった。先日この場所を訪れた皇帝ロゼウス縁の者たちである。
「いくらなんでもこの前の訣別があんな形じゃあ、気になって仕方がないってものでしょう」
「その気持ちはわかるが、だからって何故私の館に押しかける。ヴィルヘルムはもういないぞ」
「用があるのは貴様だ、ラダマンテュス。お前が地上を覗き見している鏡をさっさと出すがいい」
「人使いの荒い人たちだ」
 迷惑そうに溜息をつきながらも、ラダマンテュスは求めに応じて呪具を顕現させる。
「今地上は佳境だよ」
 この騒動が無事に解決するまでは、自分たちも転生など選べない。クルスやドラクル、集まった者たちは食い入るように鏡面に見入った。

 ◆◆◆◆◆

 お互いの勢力の首魁が一騎打ちを名目に姿を眩ましたので、戦いの行方はそれぞれの代表者であり、代弁者であるフェルザードとセリカレンディエーナに託された。
 他の場所ではもうローラやリチャードが戦いを始めているのだろう。剣戟や地響きが遠く聞こえる。
 フェルザードの指示で、ゼファードもエヴェルシード軍を率いて、これ以上余計な勢力を皇帝領に入れないよう大陸間を繋ぐ橋で戦闘を繰り広げている。
 ここにいるフェルザードの手勢とセリカレンディエーナ率いるフィルメリア勢だけが静かだった。膠着状態と言ってよいのか、戦いを始める気配もなく、両者の代表が睨み合っている。
 フェルザードの一歩後ろでは、アルジャンティアがその様子を見守っていた。
 動く気配のない代表両者の様子に、背後の騎士や兵士たちは緊張と戸惑いを抱えながらも待機していた。
 幸か不幸か、この場にはまるで戦闘には似つかわしくない格好をした貴婦人が二人もいる。一人はアルジャンティアで、仮にもヴァンピルの血を引く彼女はその姿でも人間同士の闘争に参戦するぐらいわけはない。だが見た目はまだ淑女と評するのさえ年端も行かぬ少女なのだ。戦いに巻き込むのは甲冑を着た屈強な男たちには気が引けた。
 そしてセリカレンディエーナ。彼女は本当にか弱い人間の女性だ。そしてフィルメリアの代表でもある。こちらはアルジャンティアと違い正真正銘の非戦闘員で、フェルザードとの交渉のためだけにここまで赴いたらしい。
 これに関しては間違いなく幸いなことに、そうしてか弱い女性であるセリカレンディエーナが先頭に立つ方が、結果的にフィルメリア側の被害は小さくなる。一騎当千を地で行くどころか万の兵を前にしても魔術剣の一振りで灰にできるフェルザードがいる以上、純粋な戦闘での正面衝突は無謀というものだった。
 フェルザードがここにいることは現皇帝の意志であり次期皇帝である彼自身の立場故だが、フェルザード自身の強さにそれは関係ない。むしろフィルメリア側は、フェルザードが「次期皇帝」という制約の下でしか動けないことを喜ぶべきだろう。
「あなた方はすでに知っているのですか? ルルティス=ランシェットの真の思惑を」
「――」
 フェルザードとその背後のアルジャンティア、そしてセリカレンディエーナと各陣営の兵士たちの間には距離がある。この会話は率いてきた部下たちまでには聞こえていない。
「彼は、皇帝陛下を殺したいのではない。――あの方に殺されたいのでしょう」
 アルジャンティアが目を瞠る。しかしセリカレンディエーナの方は、睫毛の一筋すら揺らさなかった。
「やはりあなたは全て知っているのですね」
「全て、というのがどこまでのことだか。けれどルルティスが話してくれた範囲で、彼の意志は理解しています」
「あなたはそれを許すのですか。それとも彼が死ねば好都合だと思っている?」
「ちょ、ちょっとフェザー王子!」
 アルジャンティアがここにいるのは話を聞くだけのはずで、口を挟む権利はない。だがあまりにもあまりな言葉に口を出さずにはいられなかった。彼女の場合聴覚が人間よりも良いので、他の兵士たちのいる場所まで退がってもどうせ話の内容は聞こえてしまうのだから同じだ。陣の中にいて兵たちに動揺を伝播させるよりはいい。
「私は――正直な気持ちを言えば、あの子に死んでほしくはありません。けれどそもそもルルティスがフィルメリアに来たのは、そのためなのでしょう」
 ルルティスはフィルメリア王が接触してくる以前から、自分がその失われた王子なのだと知っていた。けれど彼はそんな自分の氏素性にまるで無関心だった。
 来たからには王族としての仕事をする気は一応あったらしく、その結果が国王と第二王妃の殺害に繋がった。よどんだ空気を一掃し、フィルメリアに新しい風をもたらす。それがルルティスの考えた王というもの。
 けれどその思考すら、ルルティスがロゼウスという皇帝の傍にいて得たものでしかない。彼は恐らく皇帝に近づかなければ、王としての義務など真剣に考えることはなかった。学者としての自分の生き方に満足していたのだから。
 それを放り出してまでわざわざフィルメリアに赴いたのは、すべて今日この日の為。
 皇帝への反逆という一大事。それも四千年前の反逆の侯爵クルス=ユージーンのようにまだその世界に名を知られていない新しい帝ではなく、すでにこの四千年間世界を治めた実績を持つ最強の皇帝を裏切る。
 でもその裏切りでさえ――ルルティスが誰よりも、ロゼウスのことを想っているからなのだ。
「ならば私は、あの子の意志を尊重します。今この瞬間、フィルメリア王である者の意志を」
「セリカレンディエーナ殿下、あなたは――」
 そこで何かに気づいたように、フェルザードは目を瞠る。言葉にしてくれるなと、王女は首を横に振った。
 これまでセリカレンディエーナの人生にルルティス=ランシェットという存在はいない人間だった。彼女の弟王子はベルンスタインだと考えれば、それも一種の真実ではあろう。それにルルティスと彼女の容姿は似てはいない。――異母とはいえ姉弟という関係を越えて、惹かれる気持ちを否定することはできない。
 だから彼女はルルティスの意志を尊重したのだ。
 フェルザードにはこの二人が姉弟であることがよくわかった。彼らの愛し方は、よく似ている。
「あの子を止めることもせずに国と世界を動かした償いに、私は一生それを背負っていくのです」
「そう……ですか」
 気まずい一瞬の沈黙が訪れる。
 だが次の瞬間、その場にいる全ての者たちが反応せざるを得ない出来事が起き始めた。
 初めに気づいたのは、皇帝領を背にしているフェルザードたちではなく、侵入者であるフィルメリア側の人間だった。セリカレンディエーナの顔色が変わる。フィルメリアの軍勢から伝わってくるざわめきに、思わず皇帝領の騎士たちも敵に背を向けることを忘れて背後を振り返った。
 まず大きかったのは空の変化だ。この四千年間常に白と薄灰の綿のような雲で覆われていた空が、霧が晴れるように青く澄み渡っていく。
 そして、城の影が揺らいだ。漆黒の居城から色が抜け落ち、青く透き通った硝子のような質感でできた建物となる。
 深紅の花畑は解けるように枯れ落ち、地面にはタイルのようなものしか残らない――。
 記録によれば、新帝立つとき、皇帝領は新しい主の心を反映してその姿を変えるという。
 誰もがその眼にした現実に、ここではない場所で繰り広げられていた真の戦いの結末を知った。
「まさか、ルルティス――」
 しかしその結末の意味は、事情をよく知る関係者と、ルルティスが薔薇皇帝を裏切ったという表面的な事実しか知らない者たちによって変わる。
 セリカレンディエーナが両手で顔を多い蹲った。フェルザードも険しい顔をして正式に自らのものとなった居城を睨んでいる。何かを堪えるように。
 一方で皇帝領の騎士たちは絶望し、フィルメリアの兵士たちは歓喜の声を上げる。正答からは遠くとも、間違いなく伝わった現実はここにあるのだ。
 この世界に、薔薇の皇帝はもういない。帝国は今まさに、三十四代フェルザード=エヴェルシードの時代となった。

 ◆◆◆◆◆

「逝くのかい?」
「ええ。これで本当に満足しましたから」
 クルスたちはラダマンテュスの館を辞す。いつの間にか彼の館の門前には、いつかと同じように幅広の河が流れていた。骸骨の渡し守が乗船を待っている。
「この世界と皇帝が出す答を、僕らは見届けました。だからもう、いいんです」
 全てを水鏡に映して見ていたこの世ならざる者たちは、次々に河を渡っていく。彼らが見ていたことなど誰が知るわけでもないが、それでも確かに、一つの時代の終焉を彼らは見届けたのだ。
 一つの時代、一つの想いの終焉。その永遠の結末を。