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十合も打ち合わぬうちに勝敗は決した。
カラン、と虚しい響きを立ててルルティスの剣が落ちる。
足から力が抜け、座り込むように崩れ落ちた。自重で切っ先の抜けた剣を放り出し、ロゼウスがそれを抱き留める。
即死ではなく、心臓を僅かにそれたが胸の中心を貫いた剣。ロゼウスの剣技は武の国エヴェルシードから見ればそれほどの腕前ではないが、貴族的な優雅さを持っていて自分よりも格下の相手には美しさを損なわずに戦うことができる。
「私の負けです」
「……ああ」
血を吐きながら言ったルルティスに、ロゼウスは浅く頷く。じわじわと命の零れ落ちた体が少しでも楽になるような体勢で支えながら、静かに問いかけた。
「最初から、お前の力じゃ俺に一騎打ちで勝てないことなんてわかっていただろう? 何故……こんなことを?」
「あなたに殺されたかったから」
奇怪な行動の理由としてはあまりに簡潔な答に、ロゼウスは息を呑む。
「あなたは自分か自分の近しい者の手で殺した者しか、あなたの中の一番にはしてくれないでしょう。ジャスパー様が私に願ったのも同じ理由ですよ。あの人の気持ちは……私には痛い程よくわかる」
――ただ一度でいい、一瞬でいい、あなたに誰よりも、一番愛されたかった。
弟は確かにそう言った。でも。
「俺が殺しても、四千年間ろくに思い出さなかったような奴だっている」
「私のことは忘れられないでしょう」
「ああ――そうだな」
してやったりと言わんばかりのルルティスの笑みに、ロゼウスはまたしても頷いた。
彼はいつもこんな風に、ロゼウスの思惑の裏をかいては楽しそうに笑っていた。無邪気な悪戯から笑えない冗談まで。素直なようでいてなかなか本心を見せず、感情豊かに見せかけてその奥底は無音の深淵のごとく静かだ。
ここまで来てもまだわからない。彼が何を考えているのか。
「でもわからないよ。ルルティス、お前が何を考えているのか。どうして私を――帝国を裏切った。どうして反逆など引き起こした。どうして」
本当は傍にいて、一緒に生きていたかった。
「……わかってなんてたまるものですか」
「ルルティス」
「私を完全に理解したって、どうせあなたの一番はあの男なんだ。なら、わかってなんてくれなくていい。あなたは私を殺し、私を理解できなかったと苦しみつづければいい……」
唇から漏れる吐息交じりの声に力がなくなる。潤む琥珀の瞳は、そのまま笑みを浮かべた。
ああ、そうだ。この表情だ、とロゼウスは思う。
ルルティスはシェリダンの生まれ変わり。けれどシェリダンとはまったく違うところがある。
彼は泣きながら笑うのだ。
「愛している。愛している。でも、誰よりも憎い……」
血に濡れた指先を伸ばされる。ロゼウスの白い頬に紅い指の痕が残る。ヴァンピルの自分よりも冷たくなったその手を上から押さえるように握りしめた。
ルルティスがどんなに願っても、ロゼウスは彼を見ない。
愛している。弟のように。ペットのように。――ジャスパーの、ように。でもルルティスが欲しい立場はそれではない。
成り代わりたいのはシェリダンの位置。だがそれは不可能だ。ルルティスはルルティスであり、シェリダンではないのだから。
彼が彼として生きる限り、シェリダンになってはいけないのだ。
そしてロゼウスはルルティスのことも大切に思ってはいるが、シェリダンのような激しく切ない感情を抱いているわけではない。
「あなたを殺したい――だから、あなたに殺されたい。一緒になんて生きられない」
一緒に生きたかった。傍にいてほしかった。――だがお前に殺される気はない。
シェリダンのことはどうしても殺せないと思いつつも殺してしまった。一方のルルティスは、自らの意志で殺すことを選んだ。
でも本当は――ルルティスを殺す気もなかった。あの時までは。ジャスパーが殺されるまでは。
何故そんなことをしたの?
ジャスパーがそれを望んでいたことは聞いた。だがルルティスが何故その求めに応じたのかはロゼウスにはわからない。皇帝への宣戦布告のためとは言うものの、なんだかしっくり来ない。
ルルティスは力なく微笑む。
「私はあなたの胸に残る醜い傷跡になりたい」
ただ死んだだけ、誰かに殺されただけではすぐに忘れられてしまう。そのぐらいならば、憎まれてでもその胸にこの存在を刻みこんで欲しかったのだと。
「――……それでも、愛しているよ」
シェリダンのようにではなくとも。
弟のようなものでも。
愛していた。間違いなく、愛していたのに。
「最初に拒絶したのは、あなたの方でしょう――」
どうしてもわかりあえない。共に生きることは、叶わないというのか。
「そうか……そうだったな。裏切ったのは、俺の方だったのか」
どこかで聞いたような台詞だ。
永い間、置き去りにしてきた想い。道を違えたわけではないのに、歩き出さずに前に行くのに任せて、結局は独りで歩かせたのと同じこと。
「ええ、それでも私は……」
何度も酷い言葉をぶつけ、その気持ちを踏みにじり、それでも手放せずに翻弄した。恨まれても憎まれても仕方がない。
弱まる呼吸。その声はもはや囁きに近い。花弁のような唇が虹色の光の中、吐息と共に零したのは――。
「それでも、愛していました。愛しています。――私の薔薇皇帝――……」
睫毛の端に残った涙が、閉じる瞼に押し出されて滑り落ちた。
事切れた身体をロゼウスはきつく抱きしめる。
もしも四千年前だったならば、こんな結論出せなかったに違いない。愛しい者は全て生きていてほしかった。小鳥の羽根を斬って籠に閉じ込めておくようなやり方でも愛した。
この四千年間で、自分は変わったということだろうか。それともルルティスが変えたのか。シェリダンを愛している。だから過去に拘泥して決して変わることを自分自身に許さなかったロゼウス自身を。
けれどルルティスにとって、ロゼウスは最後まで皇帝だった。
世界の色が青く塗り替えられていく。この聖堂内の――否、この皇帝領そのものの景色が変わっているのだ。
愛している。それでも愛している。けれどロゼウスが「皇帝」である限り、選定者を殺したルルティスを赦し、受け入れることはできない。
あなたが死者しか愛せないから死んでやるのだと、ルルティスは言った。ロゼウスは死者しか愛せない。ルルティスを本当の意味で愛せるのは――彼が死んでからだった。
そしてルルティスを愛してしまうロゼウスなど、もう全知全能の皇でもなんでもない。
新帝が立つとき、皇帝領は新しい主に合わせてその景色を変える。城の形も花畑の種類も、天候までもが変化する。この聖堂内も例外ではない。
それは同時に、現皇帝の廃位を意味する。
遠くざわめく人の気配が薄れ始めた。戦いが終わるのだろう。
何故なら薔薇の皇帝ロゼウスはもういない。この世界に、すでに憎まれるべき皇帝はいなくなったのだから。
一人の男を手にかけることによって始まったロゼウスの治世は、今また一人の男を手にかけたことによって終わる。
「私を殺すのは、確かにお前だったのだな、ルルティス」