薔薇の皇帝 28

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 深い深い闇の中、大地の奥底、全ての光の届かぬ場所で、彼はまるで祈るように地に跪いていた。
 だが、彼に祈るべき神はいない。光は与えてもらうものではなく、生み出すものであるというのが魔術師の矜持だ。
 ――あなたを世界一の魔術師と見込んで、頼みがあります。
 手の中の紅い宝石を見つめる。足りない魔力を命で補い、それでもまだ足りぬ命を魔力で補う。
 立ち上がった足下から円状に広がる光。無数の紋様が浮かび上がる。魔法陣と呼ばれるその形は、大地の奥底から地上までを光の柱となって貫く。
「さぁ、約束だ」
 あとでゼファードがさんざん怒るだろうなと思いながら、ハデスは命と引き換えの術を完成させるため、最後の呪言を口にした。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝領の、誰もいない城の中。外の聖堂に通じる地下の隠し部屋。
 氷室のように冷え込んだ部屋の奥には、薄青い硝子の棺が在る。それは魔術のかけられた棺だ。中の「人形」は四千年間、朽ちもせずにそこにあった。
 それは本物の遺体ではなく、かつて実在した人物の一部を使い、よく似せて作られた――あくまでも人形だ。
 その人形の頭上に、黒い影が落ちる。
 影は少年の姿をしていた。ゼルアータの名がまるで忘れ去られるようになった今もまだ不吉とされている黒衣を纏い、長い杖を持つ少年の姿。
 影は棺の中に向けて囁いた。
(おはよう)
 その一言を残して、すぅっと柔らかな日差しに溶けるように消えてしまう。後には動くものは何もない――。
 だが。
 影の消えた直後から、棺の中に変化が起こった。
 死んだように眠り続ける人形が――動き出したのだ。
 この近くで瞳を閉じて永遠の眠りについた者と入れ替わるようにゆっくりと瞼を動かし、創られて以来誰にも見せることのなかったその朱金の瞳を開く。
 瞳を飾る藍色の睫毛。同じ色の髪。
 正面に手を伸ばして清冽な白い薔薇で埋もれる棺の蓋を開き、上体を起こす。
 四千年封じられていたにも関わらず乾いてもいない唇を動かし、一つの名を呼んだ。
「ロゼウス――」

 ◆◆◆◆◆

 皇帝領の景色が変わっていく。まるで一枚の絵を上から塗り替えていくように、城も花も空も、何もかもが変わっていく。
 新帝立つとき、皇帝領はその姿を新たなる主のものへと変える。
 噂には聞いていたが、この帝国の民の多くが自分が生きているうちにその光景を目にすることがあるとは思ってなかったに違いない。
 そして皇帝領の「姿」とは、皇帝その人の心を反映したものだという。
 これまでの、漆黒の芸術的な居城に深紅一色の薔薇が取り巻き、永遠に重さも温度もない雪が降り続ける景色はロゼウスの心の有様そのものだった。
 そして今、世界は青く塗り替えられていく。
 これからの皇帝領の姿は、次なる皇帝フェルザードの心の現身なのだ。
 その姿を見て、これは極めて兄らしい姿だとゼファードは思った。
 空は晴れ渡る、雲一つない蒼天。まるで刷毛で塗ったように見事な天空。
 居城となるべき城は硝子でできていた。深みのある青い、水晶にも似た硝子。だがその強度は恐らく本物の硝子とも水晶とも比べ物にならないのだろう、冷たいまでの硬質さを感じさせる青。
 そしてこれまでロゼウスを暗示させる深紅の薔薇が埋まっていた地面には、植物が生えていなかった。
 そこは舗装された地面。完璧に整えられたタイルだ。ただその模様だけが、色とりどりの美しい花だった。地面が氷でできていて、その中に生花を閉じ込めているような、人工的な芸術の香り。
 青く透き通る硝子の城に氷下の花。温もりがなく、ただ――美しい。
 一つの時代の終焉を感じた。ロゼウスの時代は終わったのだ。
 戦闘が終わり、エヴェルシードの兵を引き連れて指揮をしていたゼファードはひとまず城に戻ったところだった。相手方も皇帝領の変化を見て事態の推移を半ば悟ったらしい。一度停戦を申し込まれ、話し合いの時間を設けることになった。代表者はもちろん次期――否、すでに現皇帝となったフェルザードである。
 ゼファードが戻ったのは、彼の役目が今後不要であると同時に、真実を確かめたかったからだ。
 ロゼウスとルルティス、その戦いの決着がどうなったのか。
 この襲撃によってロゼウスが皇帝でなくなったということは、ある意味ではルルティスが勝利したということだろう。
 けれど正直なところ、ルルティスの腕前でいくら弱体化していたとはいえ皇帝ロゼウスを殺せるとは思えない。ゼファードはむしょうに不安だった。大切なものがこの手から滑り落ちていく。
 友人であり勇者業の相棒であったハデスと連絡がつかないのも不安に拍車をかける。最後に会った時、彼の様子はどこかおかしかった。すっきりとしすぎていたのだ。まるで何かを決意して、振り切ったように。
 どこかへ行く用事があるという彼に、ゼファードはついて行くことができなかった。もちろんこの戦いがあったからだ。
 後では駄目なのかと聞いたゼファードに、後では駄目だとハデスははっきり答えた。
「君はそれでいいんだよ。ゼファー。僕は僕のすべきことをする。君も君の行くべき場所に行く。何故なら君は、これから君の兄が皇帝として治める世界で生きていくのだから」
 お前は、とゼファードは聞いた。
 俺は次のエヴェルシード王としてこれからも生きる。ではお前は?
 ハデスは答えずに、ただ笑って消えるのみだった。だから。
 決着を――。
 決着をつけねばならないのだ。この戦いに、この想いに。
 そうでなければロゼウスのように囚われてしまう。過去ではない過去。彼の狂おしい過ぎ去りし日々に。ロゼウスにはそれが必要であったとしても、ゼファードには赦されない。
 だからこそ、決着を。ロゼウスとルルティスの戦いの行く末をきちんとこの目で確認しなければならないのだ。
 その想いで、ゼファードは一人皇帝の城を歩き回っていた。
「あいつら……そもそもどこに行ったんだ?」
「ゼファード?」
「アルジャンティアか! 脅かすなよ」
 城の玄関口である大広間に戻ってきた時、ゼファードに呼びかける声があった。フェルザードと共にフィルメリアの主力勢と対峙していたはずのアルジャンティアだ。幸いにも怪我をしている様子はなく、本当にただ戻ってきただけの様子だ。
 彼女は彼女で、ゼファードの姿を見て目を丸くした。もちろんゼファードにも怪我はないし、妙な格好をしているわけでもない。ただ単にここにいることに驚いたのだろう。
「それはこっちの台詞よ。フェザー王子が行っちゃったから一度戻ってきたらあんたが――何しているのよ?」
「ロゼウスたちを探してたんだよ。あいつらどこに行ったんだ?」
 ゼファードはきょろきょろと左右を見回しながら尋ねる。
「なんでこっちにいるのよ。だってお父様は――」
 アルジャンティアが言いかけたその時だった。

「おい、貴様ら」

 吹き抜けの上階から声が降りてきた。
 それは、今度こそ二人の知らない声だった。

「ロゼウスはどこにいる?」

 声は知らない。彼が生きて喋っているところを見たことがないからだ。だがその容姿、その口調、それは――。

「シェリダン=エヴェルシード?」

 ゼファードは目を丸く見開いて呆然とした。
 答えないその様子に、シェリダンが眉根を寄せる。

「知らないのか?」
「あ、外の聖堂に――」
 アルジャンティアが反射的に告げると、シェリダンは彼らを振り返る素振りもなく駆け出していった。階段を使わず吹き抜けをそのまま飛び降り、堂々とした足取りで城を出て行く。
 ゼファードとアルジャンティアは一拍して、ようやく二人顔を見合わせ声を上げた。

「「ええ?!」」

 ◆◆◆◆◆

 聖堂は閉ざされた蒼い氷の山のようだった。一見入り口がわかりづらく、ただのオブジェのようにも見える。宗教を否定はしないが、信仰とは無縁のフェルザードらしい。
 入口に人の佇む気配を感じ、ロゼウスは振り返らぬままに話しかけた。どうせこんな速さでここに来れるのはフェルザードくらいのものだろう。
 ルルティスの遺体は胸の上で静かに手を組ませて横たえる。残酷なまでの実力差のせいで着衣も僅かな血痕以外はほとんど乱れず、その様は不思議と整って見えた。
「……俺は今まで、きっと誰に対しても不実なことをしていたんだろう。でもそれを、ここまではっきりと指摘してきたのはルルティスが初めてだったんだ」
 ぽつぽつとロゼウスは語りはじめる。場所が場所で、行いが行いだ。それはまるで懺悔のようだった。
「人には皆事情がある。誰かにあるように、俺にも。だから誰もここまで踏み込んでは来れなかった。俺も踏み込ませなかったし、踏み込まなかった。俺自身が人に何かを言えるような立派な存在じゃない」
 皇帝と言えど、人間関係においては一元的に正しさを主張できる立場にはない。契約や取引の上での正しさならいくらでも言える。相手の言葉尻を捕らえて論理的な矛盾の指摘も場合によってはする。けれど――個々人の感情だけはどうにもならないのだ。
「ルルティスはシェリダンの生まれ変わりだ。それが、垣根を取り払った。でもそのせいで、俺は一層ルルティスを傷つけた。それなのにルルティスは、俺と向き合ってくれた」
 せめて当たり前のように生を終えて、生まれ変わり同士として出会ったら――。否、そんな過程は無意味。ロゼウスの方にシェリダンを愛した記憶があるからこその関係だった。
「向き合って――そして俺は、答を出してしまった。彼を、一番にはできない」
 世の中には前世で悲劇的な別れをした恋人たちが生まれ変わって巡り合う物語がいくらでもあるのに、何故自分たちはそうはならないのか。
 ロゼウスはルルティスを「一番」にはできなかった。
 彼よりも愛している者がいる。ただそれだけ。
 そしてそれが一番残酷で――でも至極当たり前のことだ。
「俺は馬鹿だ。そして残酷だ」
「なんだ、今更そんなこと自覚したのか」
 聞こえてきた声はフェルザードのものではなかった。
 それどころか、思いがけないものでありすぎた。ありえないのだ。彼がここにいるはずはない。それなのに。
「貴様が馬鹿で残酷で身勝手など、今更だろう? ロゼウス=ローゼンティア」
 忘れるはずのない声と口調。ロゼウスは弾かれたように振り返った。
「幽霊でも見たような顔だな。もっとも、ここにいる私は、本当に幽霊なのかもしれないが」
「――シェリ、ダン?」
 逆光の中から歩み寄ってくる人影は、藍色の髪と朱金の瞳。
 容姿はフェルザードに瓜二つ。だが身長は違う。髪や瞳の色はゼファードと同じ、いや、若干違うのか?
 その魂はルルティスのものだった――つい、先程までは。でも今は。
「ああ、そうだ」
 駆け寄り、その腕に飛び込んだ。華奢に見えて意外と強靭な体つきの少年は、苦も無くロゼウスを抱き留める。その腕の触れ方さえ懐かしい。
「シェリダン!」