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淡い日差しの下、日傘を差した人物が行く。その影の下の白い肌と尖った耳を見て、道行く者はこんな曇り空の下の日傘の理由に納得した。
「おや、出版社のとこの奥さんだ」
「奥さん? え、ありゃあ男の子だろう?」
「いやいや、そんな馬鹿な。おーい、奥さん。出版社のところの奥さーん」
たまたま行き会った男が呼びかけると、そのローゼンティア人は振り返った。肩口にかかる程度の長さの白銀の髪がさらりと揺れ、真紅の瞳が彼らの姿を認めて微笑む。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。お墓参りかね?」
この道の先には墓地しかない。その人の手に色とりどりの花を連ねた花束が在るのを見て問いかけると、仄かな笑顔が返ってきた。
「ええ。良いお天気なので」
多少の世間話をしてから、男たちと別れた。服装は喪服でもないし、表情が沈んでいるわけでもない。墓地に向かう足取りは慣れているようだった。
「で、ありゃどっちなんだ? やっぱり女だろ」
「男だよ。胸がないし」
「しかしローゼンティア人ってのは綺麗だな」
「亡くなった皇帝っていうのもあんな感じだったよな」
「馬鹿お前、その話は――」
ヴァンピルは五感に優れている。自分の背後でいろいろと噂をする男たちの話を聞くともなしに聞きながら、ロゼウスは静かに笑った。
ああ、空が晴れやかだ。
◆◆◆◆◆
ルルティスは「奇跡」を望んだ。
だがそれは神の力によって天から降ってくるようなものではない。きちんと代償を支払って成される、悪魔的な儀式。
「――そうか。ハデスは死んだか」
あの後、事情を聞かされたシェリダンがぽつりと言った。
彼の記憶は他の者よりも混乱している。そのはずなのだが、恐ろしいことに一見してはまったく平静に見える。
確認してみたところ、シェリダンには前回ルルティスの体で蘇った時の記憶がなかった。だから当然、フェルザードやゼファード、アルジャンティアのことなども知らない。自分の生まれ変わりであるルルティスに関しても、まったく実感が湧かないと言う。
そもそも、記憶があるのないの以前に、ここにいるのは本当にシェリダン=ヴラド=エヴェルシードなのか。
誰もが知りたがったのはそれだ。各国との会合を終えたフェルザードが事情を説明する。
この世界の全てを知る全知はすでにロゼウスの手の中にはない。それはもう、新皇帝フェルザードのものだ。だからこそ、彼だけがその説明役をこなすことができる。訳がわからないのは、ロゼウスも一緒だった。
結局ロゼウスは、ルルティスという人間を理解することができなかったのだから――。
フェルザードが明かしたのは、ルルティスがハデスの力とジャスパーの髪飾りに込められた魔力を使い、蘇りの秘術を望んだということだった。
「……ジャスパーもそのために死んだんだな」
本人の口からはついに明かされることがなかった、ルルティスがわざわざジャスパーに会いに来てまで殺害した理由はそれだった。ハデスの行った死者蘇生は禁術だ。莫大な魔力がいる。
そして蘇りの秘術は、術者の命を削るという。
ハデスは死んだ。シェリダンを蘇らせるために。
聞いた瞬間、ゼファードがその場に崩れ落ちた。今はアルジャンティアに寄り添われて別室で休んでいる。
だがゼファードは酷く落ち込んだ様子ではあっても、心のどこかでそれを覚悟していた風でもあった。
ルルティスは国王になった瞬間、否、国王になるために皇帝領を出た瞬間から、全てを決意していたのだろう。この一年、誰もが終わりに向かう世界の足並みを感じていた。それはゼファードたちも例外ではない。
「あのバカ、俺が悲しむとか考えなかったのかよ」
ゼファードの言葉がロゼウスの胸に突き刺さる。ハデスの姉のデメテルことプロセルピナも、今は行方不明だという。彼女のことだから、弟の死と共に自ら姿を消すことを選んだのだろう。
「全部、俺の責任だな。皆を翻弄し、不幸にして、悲しませた。俺が――」
「陛下……いえ、ロゼウス様」
ロゼウスが皇帝であった頃、フェルザードは滅多にその名を呼ばなかった。だが今は彼こそが皇帝だ。ロゼウスは一応選定者ではあるが、その役職として皇帝領に残るつもりはない。だからだろう、フェルザードはついに彼の名を呼んだ。そしてゆっくりと言い聞かせるように告げる。
「彼は彼の望むように生きた。あなたに憐れまれる謂れはない」
「フェルザード……」
「ルルティス=ランシェットはどこまで行ってもルルティス=ランシェットでしたよ。あれはあれで幸せだったのでしょう。貴方の魂に消えない傷を刻み込んだ」
フェルザードはどこか遠くて近い場所を見るような場所をして言った。
ルルティスはシェリダンを妬んだ。けれどフェルザードからすれば、ルルティスの行動もまた羨望に値するものだと。
ロゼウスの希望、この世界の未来を一手に担う完全なる皇帝には、ロゼウスのために死んでその心に傷を残すことなど、できるはずもないのだから。
「可哀想だとか不幸だとか、そんな言葉はあの男には似合いません。貴方は彼を憐れんではいけない。同情も、共感も、罪悪感も無意味だ。ただ今までのように、見下して蔑んで、そして愛していればいい。――あなたはルルティス=ランシェットの皇帝なのだから」
ルルティスの描いた変革の理想と、これからフェルザードが新たなる皇帝としてやろうとしていることは非常に近いのだと言う。
フェルザード=エヴェルシードの望み。それはこの帝国の解体だ。
皇帝というただ一人の絶対の支配者を戴きひれ伏すのではなく、人々が自らの意志で立ち上がる世界。皇帝どころか、王も貴族も必要としない世界。もっとも一朝一夕に上手く行くはずはないから、まずは教育機関の建設に着手し徐々にその思想を浸透させていくことから始めるらしいが。
ロゼウスの臣下であったフェルザードはロゼウスを守るために戦いや交渉に赴く。だが皇帝領がその様相を変え自らが正式に皇位を継いだ途端、フェルザードはフィルメリア勢を率いるセリカレンディエーナに停戦を申し込んだ。
皇帝フェルザードは、ルルティス王の改革を支持する。ロゼウスがこれまで築き上げた世界を否定していく。
フィルメリア王ルルティス=ランシェットは、薔薇の皇帝への反逆者であり、聖帝フェルザードの理解者。その時代の魁。表向きにはそういうことになる。けれど――。
ルルティスはフェルザードの時代がやってくることを待つのではなく、ロゼウスという皇帝がいるうちに、皇帝ロゼウスに反逆して死んだ。
ルルティスにとって皇帝とは最後までただ一人、ロゼウスのことだった。
フェルザードもわかっている。ルルティスは彼の民ではない。ロゼウスの民だ。それでも今国内に広がる反皇帝の気運を鎮めるために、その名を使う。
セリカレンディエーナによれば、それもルルティスの望みではあったようだ。彼は玉座についてもすぐに死ぬつもりだった。ロゼウスに殺されたがっていた。自分の結末を自ら決めていたから、セリカレンディエーナを生かしたのだ。次の玉座を託す相手として。
何もかもルルティスの思惑通り。
けれどその第二の反逆者たる少年王は、一番欲しかったものだけは手に入れることができなかった――。
「それで、これからどうなさいますか?」
フェルザードが問いかける。ロゼウスと――そしてこれまで共に話を聞いていたシェリダンに。
次のエヴェルシード国王はゼファードだ。もはやシェリダンはエヴェルシード王族ではない。国王でもない。そもそも、まともな人間と呼べるのかどうかさえわからない。
四千年の時を経て生き返るなど、お伽噺の領分だ。お伽噺ならばめでたしめでたしで話を閉じることができるが、現実になってしまったお伽噺に、人々はどのような決着をつけるのだろう。
四千年前、シェリダンはやはり自らのやりたいことをして、その道に満足して死んだ。エヴェルシード王ではない自分というものは想像がつかなかった。人によれば悲劇的と呼ばれる結末でも、本人は意外と平気なものだ。彼は満足して死んだはずで、蘇りたいという思いは欠片も抱いていなかった。
「あなた方はもはや、皇帝でも王でもない。心中したいと言うのであれば勝手ですが、一市民として、市井での生活を選ぶこともできます」
「私は――」
シェリダンはロゼウスを見つめる。ロゼウスもシェリダンを見つめ返し、一度フェルザードに視線を戻した。
「なぁ、フェルザード。そもそも――何故ルルティスは、シェリダンを蘇らせたんだ。ハデスとジャスパー、そして自分自身さえ犠牲にして」
「そんなもの決まっています」
フェルザードの答は簡潔だった。代弁者はその真意の持ち主より雄弁だ。だからこそ代弁者たりえる。彼ははっきりと言い切った。
「あなたを愛しているからでしょう。薔薇の皇帝陛下、ロゼウス=ローゼンティア。あなたに幸せになって欲しいから、あなたの最愛の人を返したのです。これはあなたの望み、あなたが見た夢」
「私の――夢?」
夢、そう夢だ。
まさか現実になるとも思っていなかった夢物語だ。だがそれは現実となった。
シェリダンの元の体自体はすでに肉片と化してロゼウスの腹の中。残っているのはよく似た人形と、別人として転生した彼の魂しかなかった。その中でより完全な形でシェリダンを復活させるには、三人もの命が必要となった。
ルルティスはただ死ぬわけにはいかなかった。シェリダンにその魂を返し、自らは眠り続ける。転生も消滅もせず、限りなく人に近い人形の中で、かつて終わったはずの生の続きを営み続ける装置の一つとなった。
それも全てロゼウスのため。
「ならば、俺は――俺たちは」
ロゼウスは答を出した。シェリダンが小さく微笑んで頷く。その面差しにこれまでとは逆に今は亡き人の面影を重ねる。
「俺は――」
◆◆◆◆◆
第三十四代皇帝フェルザード=エヴェルシード。彼は即位後、聖帝と呼ばれるようになる。
フェルザード帝の即位後、暦がこれまでの皇暦から聖暦に改められた。かつて第二の反逆者と呼ばれたフィルメリア王が提唱した、帝国解体を実現するという意思の表れである。
その聖暦元年、とある書物が出版されて一部の話題を攫って行った。
帝国へ反旗を翻したフィルメリア王ルルティス=ランシェット。彼と相討ちになって崩御した三十三代皇帝ロゼウス=ローゼンティア。すなわち薔薇の皇帝の人生を綴った伝記である。
その名は『薔薇皇帝記』。
著者は他でもないフィルメリア王ルルティス=ランシェットその人。彼が玉座に着く前、歴史学者であった際に書き留めた最初で最後の記録だという。
薔薇の皇帝に魅せられ、近づき、そして皇帝の元を去った在位期間僅か一年のフィルメリア王。彼自身の人生も半ば謎に包まれている。何を想いその書を綴り、何を考え帝国に反逆したのか。
幾つかの推測は成り立つが、答はもはや闇の中だ。どこからか遺稿を入手して『薔薇皇帝記』を出版した会社は、後の度重なる取材にも調査にも応じず、沈黙を守ったからだ。
その出版社の名はヴラド出版。
エヴェルシード人の主人とローゼンティア人の妻という風変わりな二人が経営する、身内ばかりの小さな出版社だったという。