薔薇の皇帝 28

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「それでは行ってまいりますね。シェリダン様」
「ああ。帰りは遅くなるのか」
「ええ。その代わりリチャードとエチエンヌが残りますから。せいぜいこき使ってやってください」
 町はずれの小さな丘の上にこの度できた出版社は、一風変わった家族構成と見られている。
 主人は藍色の髪のエヴェルシード人の少年らしい。その妻らしきローゼンティア人の少女。いや、あれは男の格好をしているところを見たから、少年だと言う声もある。さらには使用人の格好をしたシルヴァーニ人の双子と、エヴェルシード人の執事がいる。また、彼らの家に訪ねてくるのも様々な国籍の、貴族らしき人物だったりあるいは学者風や軍人風だったりと、とにかく様々だった。
 世界は平穏を取り戻し始めている。
 薔薇の皇帝にフィルメリア王が反逆を宣言したその時から、帝国は揺れ動いた。結局、殺戮皇帝は反逆王と相討ちとなり、次なる皇帝として聖帝フェルザードが振った采配の見事さに、動乱の世界は今頃再びの安寧を享受している。
 フェルザード帝が即位した後、各国にも動きがあった。
 まず、王を失ったフィルメリアでは、その姉である正当な王女セリカレンディエーナが女王として騒動の後始末をつけ始めた。
 彼女の意志は弟、そして新帝と同じらしく、王制ではなく国民一人一人が国政に参加できるような形の国を創るべく、今まさに周囲の協力を得ながら模索している最中だ。
 エヴェルシードでは新帝の父親である国王が退位し、ゼファード王子が正式に玉座を継いだ。
 新帝の弟である彼が、兄の片腕として帝国を支えるためにも、エヴェルシードという国を後ろ盾に王としての道を歩み始めた。その隣に、白金の髪と紅翠の瞳を持つ美しい少女を迎えて。
 以前に玉座を巡る争いを繰り広げたルミエスタ、共和制への道を歩むローゼンティア、廃境と蔑称で呼ばれた土地を正式にゼルアータ王国として独立させたかつての黒の末裔。――世界は、それぞれの道を見つけ歩み出していく。
 そして歴史の闇に忘れ去られた存在たちも、また。

 ◆◆◆◆◆

 フェルザードが完璧な皇帝と呼ばれる所以は、彼が選定者を必要としない皇帝であることだ。
 彼の選定者は先代皇帝ロゼウス。だがそれは、最強の皇帝ですら従える実力をフェルザードが有していることと同義語だった。選定者は主にその欠落を補うために生まれるため、身内に多い。だがフェルザードの選定者は先代皇帝であり、フェルザードが皇帝として立つ意志を与えただけの存在である。ロゼウスの役目は、フェルザードが皇帝になる切欠を与えたその瞬間に終わったと言ってもいい。
 元よりロゼウスがフェルザードの傍にいつまでもいることは、薔薇の皇帝の治世が続くことと変わらない。そのために二人は別離を決意し、ロゼウスは退位後に自ら命を絶つつもりだった。
 しかしそれは、他でもない薔薇の皇帝を殺したとされる反逆王ルルティスの存在によって止められた。
 ルルティスが自らの存在そのものと引き換えにこの世に引き戻したのは、かつてシェリダン=エヴェルシードと呼ばれていた存在。だが、今の彼はエヴェルシード王でもなんでもない。突然四千年後という右も左もわからぬ世界に放りだされたただの蘇り者だ。
 そしてだからこそ――今の彼ならば、皇帝でなくなったロゼウスと共に生きることもできる。
 ジャスパーは死んだが、ローラやエチエンヌたちはようやく願い叶って主君に再会できたことを跳び上がって喜んだ。ロゼウスの吸血鬼としての力で不老不死を得ている彼らもまた、ロゼウスの命が尽きぬ限り尽きない。そしてロゼウスの命は、選定者として皇帝フェルザードと連動している。
 フェルザードは人として、人としての力だけで生きると宣言していた。彼はロゼウスのように神の命によって何千年も帝国を統治する気はないと。最も特別な皇帝は、当たり前のただの人間としてその生をまっとうすることを表明した。
 だからロゼウスの寿命もそれに合わせて約百年弱。ヴァンピルではない、普通の人間の寿命程だ。それは人間として、人間であるシェリダンと一緒に生きられるということでもあった。
 そして、戦いの後は死ぬことしか考えていなかったロゼウスやその従者たちに、他でもないシェリダンが一つの提案をした。
 それが、ルルティス=ランシェットの足跡を追うということ。
「ほとんど完成しているのだから、これを世に発表してみないか?」
 出版社をはじめようと言うのは、ルルティスの遺稿を見つけたシェリダンの案だった。

 ◆◆◆◆◆

 薔薇色の表紙に手を置き、そっとその表面に刻まれた題をなぞる。
『薔薇皇帝記』
 伝記の体裁をなされてはいるが、シェリダンからして見ればそれは凄まじい愛の告白だ。
 これはルルティス=ランシェットという人物から、「薔薇の皇帝」への恋文なのだ。
 平静を装って綴られた文章の端々から、ルルティスの切なる感情が伝わってくる。それを読み取れてしまうのはやはり自分と彼が魂を同じくする存在だからか、それとも消えたと思った彼の心が、まだ自分の中に残っているからか。
 残された書は静かに語る。彼の嘆きを。
 彼の幸福を。――そして彼の愛を。
 本来題のみで本文空白とされていた部分の内容にあたるだろう文面を偶然見つけてしまったシェリダンは、それを空白の章に掲載するかどうかを最後まで迷った。
 だが結局、載せるのはやめることにした。
 著者本人の手で無造作に紐で綴られた見本誌。その中の空白の章に挟まれた紙は便箋だった。だからこれは本来世に出されることを想定しない個人的な手紙なのだろう。
 その手紙を恐らく差出人が読ませたいのだろう当人に見せるかどうかは……少し、迷っている。

 ◆◆◆◆◆

 私のこの想いが、いつかあなたに伝わることは果たしてあるのでしょうか
 私にとっては全てであったこの感情は、あなたにとっては何の意味もないものでしょう
 私はあなたを幸福にしたかった
 けれど、本当にあなたを幸福にするのは私ではない
 私はあなたに幸福をもらいたかった
 でもやはり、私を幸福にするのもあなたではなく――私自身なのでしょう
 ただ、人はどんな天命を持って生まれようと、自分一人でそれを開花させることはない
 聖帝フェルザードですら、あなたと出会わなければその冠を戴くことがなかったように
 流れる時の中で、花は咲き、花は散る
 大輪の薔薇を咲かせるため、今までにも多くの蕾が間引かれてきたのでしょう
 そして私もその一つだった
 どれ程言葉を飾ろうと、人の生にも死にも本当は御大層な意味などありません
 運命というほどの意味も価値もないまま、ただ人は出会い、触れ合い、すれ違い
 その一瞬、言葉や形にできない何かを確かに得ていく
 誰も本当に通じ合うことはなく、理解し合うことはできない
 それでも何かを失い、与え、そうして自分自身の花を咲かせる糧としていく
 私を幸福にするのは私自身にしかできないことかもしれない
 けれど、幸せということの意味を私に教えてくれたのは、他の誰でもないあなただった
 だから私は、この時代に生きて、生まれて、幸せでした

 ◆◆◆◆◆

 それは歴史を記す歴史学者が、歴史に残さず封じた恋。

 ◆◆◆◆◆

 その手紙が恐らく入るのだろう空白の次の章は、それこそ「手紙」と題されていた。
 しかもこちらはもうはっきりと「シェリダン=エヴェルシードへの手紙」となっている。
 生まれ変わりから前世の人格へ何を伝えたいことがあるというのだろう。読んでみればそれは大半が冷静を装う恨み言で笑ってしまう。今度はお前が自分の影に苦しむ番だと、そのようなことが書かれている。
 事情を知っている自分ですらそうなのだから、伝記として出版してもこの章は自分の事など知らない人間にはまったく訳が分からないだろう。否、本文中に薔薇皇帝の想い人として一応は記されているか。
 だがその言葉で理解できる人間の像と今ここにいる本人はかけ離れている。
 ――振り返ればそれはなんと鮮やかで激しい日々だったことであるか。自分の愛した世界。彼の憎んだ世界。
 それはロゼウスのいる世界。
 ただひたすらに走り続けた。傷つくことを厭いながら傷つき、傷つけた。どれほど痛みを叫んでも慰めてくれる腕など知らないから、それが当たり前だと思っていたのだ。不幸ではあったが、それを不幸だとは思わなかった。
 自分一人では気づけないことは、自分と似たような境遇ながら、まったく正反対の価値観を持つロゼウスによって教えられた。しかしそれは王と皇帝というお互いの立場をはっきりとさせ、余計に相手を傷つけ合うだけだった。――何があったとしても、シェリダン=エヴェルシードはロゼウス=ローゼンティアのために死ぬことが決まっていたから。
 たとえ何があっても、自分は自分で、ロゼウスはロゼウスだ。自分以外の人間になることはできない。他の誰にもなれない。そう思っていた。
 不幸に生まれついたものは最期まで不幸でいなければならない。罪を持って生まれた者は、最期までその罪を背負っていかなければならない。
 だがそれは違った。
 一人の少年が変えたのだ。王子として生まれ、一度死んで学者として生まれ変わり、そこからまた王へと昇りつめたルルティス=ランシェット。
 彼はその命をかけて証明した。運命は変えられるということを。それは都合の良い魔法でも奇跡でもなく、ただ強い意志と悪魔的なまでの狡猾さが必要になる残酷な計画によって。
 その感情をどう言えばいい。もはや愛しているなどという言葉すらも生温い。ルルティスは彼の全てをロゼウスに捧げていた。
 ただ一つ彼がロゼウスから奪ったものがあるとすれば、それは彼の過去。
 過ぎ去った時間は、忘却という手段以外でも消し去ることができるのだ。
 悲哀であり苦痛であり絶望である「不幸」という記憶を、「幸福」に塗り替えることによって。
 それは止まった時の中にいた薔薇の皇帝ロゼウスにも、未来だけを見つめて過去を斬り捨てる覚悟をした新帝フェルザードにも、ましてや過去の住人シェリダン=エヴェルシードにもできなかったこと。
 過去を知り、今を生き、これからも続いていく未来にそれを遺そうとする者。ルルティス=ランシェットだからできたこと。
 ルルティスが殺したのは自分自身であり、シェリダン=エヴェルシードの幻影だ。美化された過去への憧憬を許さない。その意地を徹底的に貫いた結果が今のこの状況だ。

 そして「悲劇の王」シェリダン=エヴェルシードはロゼウスの中で完全に死に、ありふれた幸福を甘受する、ただの男になった。

 ◆◆◆◆◆

 足音が家路を辿る。
 墓参の残りだろう。花束を抱えたロゼウスが歩いてくる。
 かつて復元したシェリダンの肉体を無機質な硝子の棺に、一切の穢れを否定した作り物のような白い薔薇と共に病的に保管していた狂気の皇帝はもういない。
 彼がルルティスの墓の周りに植えた色とりどりの花々は大地に根付き、命を繋ぎ命を遺すために、より一層鮮やかに咲くだろう。それが生きるということなのだ。
 こちらの姿を見つけた瞬間笑顔で飛び込んできたロゼウスを、シェリダンは軽く抱き留めた。微かに漂う薔薇の香りの中で問いかける。

 「ロゼウス、お前は幸せか?」
 「うん、幸せだよ。これからずっと」

 ――それでは、そろそろこの辺りで筆をおくとしよう。
 絶望と虚無によって生み出された殺戮の皇帝はもういない。
 激動の「薔薇の皇帝」の時代は終わり、ここから始まるのはロゼウスという一人の人間の、ありふれたつまらない幸福の記録なのだから。

 「薔薇の皇帝」 完