薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 01

1.紅い雨

 バロック大陸北東部の王国アストラストは、その日も一日晴天であった。
「アーシェルー!」
「あ、スー」
 背中の方から元気良く届いた少女の声に、アシェル、と呼ばれた少年は足を止めて振り返る。アストラストの王都から少し離れたミルゼアルゼの街の大通りは、朝早くから市が立っていた。収穫の時期によって多少影響はあるが、一年に四回ほど収穫できる作物を人々は朝に世話し、昨日収穫したものを売りに街に出、また午後から畑仕事に戻るという生活が多い、だからこの時間帯を逃すと、良いものは手に入らないのだ。その市で買い物する予定だったアシェルに、少女は編み籠を押し付ける。
「おはよう! はいこれ、うちで作ったパン、余ったからあげるね」
「いいの? ありがとう。凄くおいしそう」
 スーからパンの入った籠を受け取り、かけられた布をはら、とめくって中を見たアシェルの頬に笑みが浮ぶ。綻んだ彼の口元を見て、スーもまた明るい笑顔を浮かべた。
 アストラスト人の容姿は、紅い髪に薄紫の瞳だ。肌の色が白いために、燃える炎のような紅い髪が目立つ。同じ色を持つ容姿をした二人は、誰が見てもわかる友人で、幼馴染でもあった。
「他にも何かあったら、あたしに言ってね。できる限りのことはするよ。このスー様に、なんでも任せなさい」
「ふふ。ありがとう、スー」
 異性の親友の頼もしい言葉に、アシェルは陽だまりのように微笑んで礼を口にする。スーがこう言ってくるのには訳がある。先日、アシェルの両親が事故で亡くなったのだ。
 アストラストは貧しい国ではないが、特別富裕だというわけでもない。市井の人々の暮らしはもちろん余裕があるわけではなく、けれど孤児となったアシェルに、こうして街の人々はいつも良くしてくれる。
 アシェルは今年で十三歳になる少年だ。アストラスト人らしく髪の色は紅、瞳は薄紫。優しげな顔立ちが白い肌の色を際立たせていて、どことなく華奢で儚い印象を与える。下町で育った少年にしては性格は穏やかで、口調も同年代の子どもたちの中では、少し丁寧な部類に入るだろう。服装はその辺りの貧しい子どもたちと同じような、軽い薄手のシャツとズボンに、いつも両手に手袋をはめているのが特徴的と言えば特徴的か。
 両親を亡くしてから、彼は街の人々に助けられながらも自分の力だけで生きてきた。このスーなどが時折様子を見に行く他は誰もいない家で一人、慎ましやかに日々の暮らしを送っている。頼れるような親類もおらず天涯孤独の身なので、この街を出ては生きて行く術もないのだ。
 そのせいか、どこか表情に以前にはなかった翳りのあるような少年を前にし、長い赤い髪を適当に二つに結んだ少女スーは、肩を並べて歩きながら話題を探す。天気や作物の収穫情報、日常の話題でも国王や貴族たちの煌びやかな世界に関する噂でも遠方の国が今年建国何百年、のニュースでも何でもいいのだ。とにかく会話を繋いで、アシェルに自分が一人ではないと思わせることが肝心だ。
 そう思って彼女は口を開いた。
「ねぇ、そう言えば聞いた? ラウザンシスカのこと」
「ラウザンシスカ?」
 スーの口から出た隣国の名前に、アシェルは小首を傾げた。ラウザンシスカは彼らの住むアストラストの隣の国の名前だ。両国の関係は友好的であり、人の行き来も活発だが、その隣国に何があったのだろうか。
「うん。ラウザンシスカに、紅雨が来たんだって」
「こう…う……」
 紅雨(こうう)。
 文字通り紅い雨であるそれは、別名《血の雨》だ。そして比喩ではなく、紅い雨は本当に血の雨であった。
 バロック大陸と、その北に位置するシュルト大陸。更にバロック大陸からマーセルヴィナ諸島を越えて向こうの《皇帝領》薔薇大陸を合わせたアケロンティスには、一定の周期ごとに紅い血の雨が降る。
 その雨は紅雨と呼ばれ、人々に凄惨なる死をもたらすものとして恐れられている。呪いのかかった紅い雨を浴びて、生き残った者はいない。皆例外なく悲惨な死を辿る。
 紅い雨を浴びると、人間の身体は炎で焼け爛れたようになるか、酸を浴びたように解け崩れるか、あるいは槍に降られたように全身創傷だらけの切り刻まれた死体となるか。とにかく犠牲者の死に際の表情は絶望と苦悶に歪み一つの街も国も飲み込み血の雨は、この世の災厄そのものだ。
 今年は運命の二十年目。二十年ごとに世界に降る紅い雨のために、世界はどこか緊張に包まれている。
「そう。ラウザンシスカの、まだ大陸の端の端の町なんだけどね。紅い雨が来たんだって。村人みんな全滅したって……怖いよね」
「う、うん」
 スーの言葉を聞いて、アシェルも緊張したように頷く。
 紅い雨は、呪いでありながら自然災害にも近い。雨という形態をとるそれは、地震や山崩れのように、いつどこで起きるかまったく不明だからだ。
 けれどその災厄の標的がまったく絞れないかというと、そちらに関してはそうでもない。
「早く《贄》が見つかるといいのにね」
 スーの言葉に、アシェルはびくん、と肩を揺らした。
「そう…だね」
「だって被害がラウザンシスカでしょ? 早くしないと、あたしたちだって紅い雨に降られて死んじゃうかもしれないもの」
「うん……」
 一気に沈み込んだような彼の表情に、スーはハッと気づいたような顔をして慌てて彼の肩を両手で掴んで支えた。
「ご、ごめん! アシェル!」
「え? な、何? スー」
「あたし軽はずみに死ぬとか言っちゃって。ごめん。おじさんおばさんのこと、まだ辛いよね」
「スー」
 両親を亡くしたばかりの少年に迂闊なことを言ってしまったと後悔する一つ年上の少女に、アシェルは目をぱちくりとさせる。
 彼女は決して悪い人間ではない。
「あんなこと言ったけど、大丈夫だよ、アシェル。二十年前だって、最初の被害にあった街の人たちは可哀想だけど、すぐに贄が名乗り出て解決したって言ってたもん。ごめんね。もうこの話は終わりにしよう」
「そうだね……」
 話を切り上げ、二人は再び歩き出した。朝の大通りから街の中央にある広場にかけて、市が開かれている。茶色の煉瓦と木造を合わせた地味な景観の街並みにその時ばかりは色とりどりの布が敷かれたりテントが張られたりして、目も音も賑やかである。
 その日の食事を調達する一家の主婦からなけなしの小遣いで菓子を買いに来る子どもたちまで、中央広場は雑多な人々で溢れていた。隣国の訃報を聞いている者はスーの他にもいるのだろうが、たいていの人々はそんなもの関係ないとばかりに、いつもと変わらぬ表情で露店の屋台を見て回っている。アシェルとスーも、すぐにその輪の中に入った。
 アシェルはもらったパンの入った籠を落とさないようにしながら、もう片方の手はスーに引かれて歩いていく。押しの強い少女の案内で、いつもは滅多に訪れない行商人の店などへと連れまわされた。
「おや、アシェル、スー! 今日は早いじゃないか。こっち、寄っていかないかい?」
「あ、レケのおばさーん。おはよう!」
「おはようございます」
「おや、スーちゃん、まーたアシェルを連れまわしてるのかい? ほどほどにしてやりなよー」
「何よ、マシューのおじさん、それじゃあたしがアシェルを無理矢理連れて来たみたいじゃない!」
「違うのかい?」
「もう!」
 店を開いている人々は他国からこの国に訪れた旅人もいるが、大体は街や近くの村に住む者が多い。顔馴染みにいちいち挨拶しながら、活気付いた市を歩く。
 途中、あるものに目を留めたアシェルは小さく声をあげた。
「あれ……?」
「ん? アシェル、どうしたの?」
「あの人、腰に剣を持ってるよ。珍しいね」
「へぇえ、どれどれ? あのエヴェルシード人のおじさん? 本当だ。確かに珍しいわ。でもエヴェルシードって、国民みんなが兵隊の国なんでしょ? 武器を持ってても、おかしくないのかな?」
 アシェルが気づいたのは、長い蒼い髪の男が腰に提げた大振りの得物だった。穏やかで賑やかな市の風景には少し似合わないような、その物騒な姿。けれどくたびれたマントを羽織っているところを見ると、相手はどうやら旅人のようだから、まだ宿が決まっていなくて荷物を置いていないだけなのかもしれない。そしてスーの言うとおり、ここバロック大陸アストラストからは遠いシュルト大陸のエヴェルシード王国は、世界でも他に類を見ない軍事国家だという。遠い国の内情は良く知らないが、アストラストと文化が違えば、護身用にしては大きすぎる剣を慣れた様子で持ち歩くこともあるのかもしれない。
男の蒼い髪も、まったく他の国からの旅人がいないわけではないとはいえ、基本的に紅い髪のアストラスト人の中では目立つ要因だった。
 しかしアシェルの気になった男は、すぐに人込みの中へと消えてしまった。背は高いがたいして大柄でもなかったので、周りの人々に紛れて見えなくなる。
 アシェルはスーの促しに寄り、また市を見る歩みを再開した。
 明けたばかりの早朝の街は爽やかで、水色の空には不安の雲もかからない。もう少しして、買い物を終われば一日の仕事が始まってしまう。短い時間を楽しむように、人々は忙しなく歩き回って、並ぶ店を巡っている。
 その、騒がしくも平穏な一日の始まりが、不意の来訪者によって乱された。
「どけぇ!! 伯爵様のお通りだぞ!」
 先触れ、と言うにはあまりに乱暴な態度の男が、自らは馬に乗ったまま広場の入り口で大声で叫んだ。
「へ?」
「おい、なんだありゃ?」
 周りの者たちはまだ、何がなんだかわからないような顔をしている。けれど彼らの表情も、馬上の男の後からかなりのスピードで広場へと突っ込んでくる一台の馬車の様子を見て慌てたものになった。人々はすぐに声を掛け合って、広場の両脇へと避難する。大通りから広場の中央部分に関してだけは、灰色の石で石畳(いしだたみ)が敷かれているから、馬車はこの上を通るのだ。
 アシェルとスーも、今度は今までとは逆にアシェルの方がスーの服の袖を引いて、素早く広場の片隅に避難した。
「ちょっと、朝っぱらから何なのよ、あれ」
「スー、不敬罪になるといけないから。あの紋章、ディヴァルト伯爵って、あんまり評判の良くない人だよ」
「わかってるわよ。でもこんなの、あんまりにも横暴じゃない」
 確かに、広場には人々がひしめき合う、と言うほどではないが大勢いたのだ。中央付近に屋台を開いていた人々の中には、商品の一部を避難し損ねて泣きを見ている者もいる。裕福だが悪名高くても有名な伯爵家の頑丈な馬車はそれら取り残された屋台を弾き飛ばすのにも構わず、石畳を突っ切ってくる。
 それだけならまだしも、アシェルの眼には、あろうことか馬車の進路の先に飛び出した子どもの姿が映った。
「危ない!」
「アシェル!?」
 急な馬車の登場に驚いて店を片付けていたある夫婦の、まだ歩けるようになったばかりの子ども。家に一人置いてくるわけにも行かなかったのだろうが、こんな場面では面倒を見きれなかったらしい。危うく馬車に轢かれそうになった子どもを助けるために、アシェルは荷物を投捨てて自らも飛び出した。
「何事だッ!?」
 儚げな容姿とは裏腹に、アシェルは運動神経がそこそこ良い。身軽さを活かして間一髪馬車の前に飛び出た子どもを抱え込み、引き返さずに道を転がって向こう側へと避難する。轢かれこそしなかったものの四頭立て馬車の馬たちが驚いて、しばらく走ってから前足を高くあげて立ち止まってしまった。
 そのまま行き過ぎてくれればよいものを、と胸中で思いつつもアシェルは腕の中の子どもの安否を確認した。石畳を派手に転がったのだが、アシェルが抱き込んで庇ったために、腕の中の幼児には大きな傷はない。目を丸くしてアシェルを見上げた後、不安になったのか泣き出したその子を追いかけてきた母親に預けると、アシェルは背後の馬車の方を振り返った。
 案の定、中から身なりのいい男が出てくるところだった。急いでいた様子だったのに、寄り道をする余裕があるとは大層なご身分だ。身なりこそ良いが、紳士とは呼べそうにないその男が、この事態の理由を周囲の従者たちに尋ねている。あまり品の良くない従者の一人が立ち上がったアシェルを指差して何事か言うと、貴族は真っ直ぐに彼へと歩み寄ってきた。
その際に呟かれた愚痴が聞こえる。
「まったく、紅雨のことで国王から呼び出しを受けているというのに、なんということだ……」
 こうして馬車を降りる余裕のある男に対してどのような命令が下っているのかは知らないが、大方呼び出しに慌ててスピードを出していただけで、本当に一刻を争う至急の用事とは違うのだろう。とりあえず、彼がこの場へ飛び込んできた理由は隣国に降ったという血の雨のことのようだった。
 それを聞いた周囲の人々も、小さくざわめき始める。
「紅雨ってあれか?」
「ラウザンシスカで降ったんだろう?」
「ってことは、この事態は呪いのせいかよ」
「なんだ、全部贄のせいじゃないかよ」
 二十年前、そして四十年前にも降った血の雨による被害を思い出して、人々が渋い顔をし始めた。今年もまたその事態のせいで市が潰されて横暴な貴族がやってきたことを考えると、不機嫌にならざるを得ないらしい。
 紅雨に関連して起こされる悲劇の数々は、全て早急に名乗り出ない贄が悪い、と。
貴族は馬車の進行を妨げたアシェルの方へと、歩み寄ってくる。道の向こう側で少女が騒ぐ声が聞こえたが、アシェルはその場を動くわけにはいかなかった。広場中央石畳に停められた馬車を隔てて、スーと引き離されてしまっている。彼女は何とかこちら側へ回ってこようとしているが、今迂闊に言葉を交わせば、彼女までもこの問題に巻き込んでしまう。
「お前か。私の馬車の前に飛び出してきたというのは」
「はい……」
 貴族の言葉に、アシェルは小さく、しかしはっきりと頷いた。
「王命により城へと向かっていたこのディヴァルト伯爵の道を塞ぐとは、良い度胸だ。どのように責任をとるかは決めているかな?」
 王命に従って城へ駆けつける最中ならば、早くそちらへと行け。周囲の市井の人々のそんな視線にも関わらず、貴族の男はアシェルへとゆっくり手を伸ばす。
 白い手袋に包まれた指先がアシェルの顎を捕らえて、自分の方にその顔を向けさせた。じろじろと無遠慮に、少年の容貌を眺め回す。
「ほう。美しい娘だな」
 男だよ。アシェルを知る全員が心の中で指摘した。優面の少年、十三歳の彼は確かに見ようによっては十四、五歳の少女にも見える。けれどアシェルの精神性は間違いなく男であり、貴族の言葉に不穏なものを覚えながらも気丈に言い放った。
「僕は男です……離してください。馬車の前に飛び出したことは謝ります。でも」
 その言葉を、背後から近づいてきた貴族の従者の一人が乱暴に遮る。
「つべこべ言わずに、さっさと来い! 伯爵様の馬車を停めた罪は重いぞ!」
「うわっ」
「アシェル!」
 無理矢理連れて行かれようとするアシェルの様子に、あちこちで悲鳴があがる。スーが迂闊に飛び出さないよう周りの大人たちに抑えられながらも、彼の身を案じて叫ぶのが聞こえた。
「待て!」
 しかしその暴挙を更に制止したのは、他でもないアシェルに絡んだ貴族自身だった。
「伯爵様? いかがなすったんで?」
「その子どもの左手をよく見せろ」
 左手、と言われてアシェルがハッとした。これまでは緊張に強張った顔をしながらも大人しく従っていたのに、いきなり暴れ始める。
 先程とはまた違った意味で突然の事態に、周りの人々も不安に眉を潜めるばかりで手が出せない。しかし死に物狂いでもがきながらも屈強な従者の男に取り押さえられたアシェルの左手を貴族がとり、そこにあるものを貴族が読み上げたときに全ては変わった。
「刻印?」
「……ッ!」
 アシェルがいつも身につけている手袋は、先程子どもを助ける際に石畳を転がったために破れてしまっている。シャツやズボンも擦り切れてはいたが、よりにもよってこの場所が破れるなんて。
 そして貴族が無理矢理外させたアシェルの手袋の下には、紅い紋様がある。
 まるで棘を持つ荊のように複雑な図案。それは、《ノクタンビュールの烙印》と呼ばれる。
「お前、今回の《紅雨》の《贄》か!!」
「――――ッ!!」
 アシェルの細い手首を掴んだまま、叩きつけるような貴族の叫びに一瞬広場が静まり返った。
 市が立っていたために、この街の市井の多くの人々がこの場所に集まっている。貴族の馬車が飛び込んできたこの状況のために一同は彼らを輪を作るように取り囲んで事態が収束するようまで見守っていたのだが、その緊張が貴族の一言にこれまでとはまったく別の意味へと質を変える。
「贄……」
「アシェルが?」
「今回の紅雨の贄って……じゃあ」

「あの子が死ねば、《呪い》は終わるってことか?」

 誰かが言った言葉を起爆剤として、人々が貴族と向かい合わされたアシェルのもとへと押し寄せる。
 怒号があがり、大勢の人間がひしめき合って広場中央へと駆けつけた。貴族はちゃっかりと避難したが、アシェルを取り押さえていた従者は主の命令を待つまでもなく、その手で拘束していた少年を無慈悲なまでに強烈に石畳の地面へと叩きつけ組み敷く。
「うあ!」
「大人しくしやがれ! この人間のクズが! お前のせいで、俺たちまでいつあの雨に降られるかわからねぇんだよ!」
 男の怒鳴り声の下、石に頬を擦ってアシェルは苦痛に呻いた。叩きつけられた胸の辺りは一瞬息がつまり、ついでずきずきとした痛みが襲ってくる。
 そのアシェルにトドメを刺さんと、街の人々も大挙して押し寄せてきた。
「この人でなしが!」
「どうしてさっさと名乗りでないんだ!」
「あたしの弟はラウザンシスカの雨で死んだのよ! この人殺し!」
「ち、が……」
「嘘つき! その薔薇の刻印が何よりの証だろう!」
 少年の儚い抵抗はたやすくねじ伏せられ、その空間一体が憎悪と暴力の荒れ狂う嵐の場となる。目の前に今回の《贄》がいる。その言葉は、人々から理性と良心を呆気なく剥ぎ取った。
紅雨の《贄》。
 それは他に避けることのできない天災のごとき呪いの雨を、唯一、人が封じることのできる手段。
 血の雨が降る年には、必ずその身体のどこかに紅い薔薇のような複雑な紋様の刻印を持って生まれたものが現れる。ノクタンビュールの刻印と呼ばれるそれを持つ者を殺せば、紅雨は止む。
 空を赤く染め黒い雲から降る呪われた紅い雨は、世界から一人生贄を差し出すことで被害を食い止めることができるのだ。
 そのために《贄》と呼ばれる人物は、通常見つかり次第殺される。
 馬車が駆け込んできた時にも荒された広場を、今度は集まった市井の人々が皆して荒らす。屋台は踏み潰され、商品はぼろくずのゴミと化し、色とりどりの布が無惨に引きちぎられて地面に打ち捨てられていた。大人たちは悪魔のごとき形相となり、子どもたちはそんな大人たちの様子に泣き、暴力に参加しない老人らも地面に押さえつけられたアシェルの姿を見て唾棄するように呟く。
「まったく、四十年前の贄と同じ、またもや我が身可愛さに口を閉じる輩が出ようとは……」
 澱を冷ややかに睥睨するような彼らの眼にも、醜悪な濁った光が刻まれている。
 その事態は、混乱の中で誰かがあげた叫び声によって、更に凄惨さを招く。
「見ろ! 空が!」
「紅い雨の前兆よ!」
 この広場の真上ではないが、少し離れた街の上空に不吉な紅い光に包まれた空間と、黒のように濃い灰色の重たげな雲が広がる。それは人々に死と苦痛をもたらす血の雨の前兆だ。
 近隣の土地へと被害を出そうとする空のその様子を見て取って、ますます人々がアシェルに加える暴力が過酷さを増した。
「さっさと死んでしまえよこの人殺し!」
「それが贄の使命だろ!」
 靴を履いた足がそれこそ雨のように、最低限頭だけでも庇うアシェルの小さな身体へと降った。鈍い音が響き続け、人々は暴力の興奮に酔いかけている。瞳には鮮やかなほどはっきりした憎悪と嫌悪の色があった。
 口々にアシェルを罵る言葉を吐きながら広場中央に街の住人たちが詰め掛ける中、人並みに呑まれながら必死で手を伸ばし、少女が泣いていた。
「アシェル……アシェル!! お願い、みんなやめてよ! ねえ何かの間違いでしょ! アシェル!! ……あの子を離してよ!」
 そばかすだらけの顔を涙でぐちゃぐちゃにして、スーが叫ぶ。だが、誰一人彼女の言葉を聞き届ける者はいない。むしろ邪魔な彼女を人込みの中から突き飛ばし、輪の外へと押し出そうとする手ばかりだった。乱暴に放り出されて、スーは地面に打ちつけた足を庇い、解けてしまった髪を揺らしながらそれでも叫んだ。
「アシェル!!」
 その傍らを、一陣の風のように蒼が駆け抜けた。
「どけぇ――――!!」
 大振りの剣を持った一人の男が、贄とされた少年を取り囲む広場の中央へと人々を弾き飛ばすようにかき分けて飛び込んだ。鞘に収めたままの剣の一振りで、彼はアシェルを今にも刺し殺そうとしていた街の人々を軽々と吹っ飛ばす。
「!?」
「な、なんだ?」
「誰だありゃ!?」
 現れたのは、蒼い髪に橙色の瞳、このアストラスト王国が存在するバロック大陸ではないもう一つの大陸、シュルト大陸エヴェルシード王国の人間と一目でわかる容姿の男だった。特に大柄と言うわけではないが、体格は間違いなく良い。鍛え抜かれた軍人もかくやと言った男の雰囲気と鋭い眼光に気圧されて、人々はいったん、その周辺から波のように引く。
 旅装束の異邦人は、明らかにアシェルを庇う様子を見せている。だが、少年は今回の贄だ。そして男はエヴェルシード人だ。
 贄は殺すべき。そういった認識がある人々は、男が何故アシェルを庇うのかわからない。家族や恋人ならば自らの大事な人間が殺されるのを拒み抵抗するかもしれないが、アシェルが孤児であることはもちろん、明らかにエヴェルシード人の男がアストラスト人のアシェルの血縁などでないことは誰が見てもわかる。だからこそ、何故男がアシェルを助けようとしているのか、それが理解できない。
 突然の出来事に、人々は誰もついていけない。世界の贄を殺すのは当然の義務だ。
 そしてそれを覆そうとしている男の登場に、誰よりも驚いたのは庇われている贄本人、アシェルだった。
「だ、誰……?」
 男が周囲からのしかかっていた街の住人を振り払ったおかげで、あちこち痛む身体と石畳で擦られて血みどろの傷をつけた顔をようやく起こすことができるようになったアシェルは、掠れ声で尋ねた。
 それに対する、蒼い長い髪の男の返答は素っ気ない。
「お前を護る者だ」
「僕を……?」
 思いもかけなかったその言葉に目を瞠るアシェルの様子を気にも留めず、男は片手に剣を構えたまま、空いた片手で身を起こしかけていたアシェルの身体を素早く引っさらった。
「わぁ!」
 くの字に身を折るようにしてたくましい肩の上へと軽々抱え上げられた、アシェルは反射的に叫ぶ。しかし男の左の脇越しに上下逆転した視界から自らを憎む人々の様子を目にして、少年の身体からは抵抗を含めた諸々全ての力が抜けた。
 このままこのエヴェルシード人の男に逆らって広場に残されたところで、アシェルに待つ道は怒れる群集に殺されることだけだ。そのぐらいならば、この得体の知れない男にどこか別の場所に連れて行かれた方がまだマシだろう。
 あるいは、この男は贄に個人的な恨みを持っていて、連れて行かれた先では更に酷い拷問が待ち受けているのかも知れないけれど。
 それでも。
 生きていれば逃出すチャンスはある。きちんと話を聞けば納得のできる死もあるかもしれない。一縷の望みに期待をかけて、アシェルは自らを抱え上げた男のすることに身を任せた。
 ……護る者とは、どういう意味だろう?
「突破するぞ! 暴れないでくれよ!」
 アシェルに向かってそれだけ言い聞かせた男は宣言どおり、近づこうとする相手を鞘に収めたままの剣で薙ぎ払いながら民衆の包囲網を突破し始めた。最強の軍事国家、強者の国と名高いエヴェルシード王国人の男の異常な強さに人々は手も足も出せず、アシェルを連れて行くことを男に許してしまう。
 男に薙ぎ払われた街の人々の気絶した身体が山のように折り重なる。死屍累々と化した広場を風のように過ぎる男の背で、息も絶え絶えとなったアシェルの意識が遠のく。
「アシェル!」 
 闇に落ちる前、最後に聞いたのは、遠ざかる広場から呼ぶ、二度と会う事はないだろう幼馴染の少女スーの涙交じりの声だった。