3.生贄の少年
その人は美しかった。
――何故止める?
嫣然と微笑んで、傷ついた男を足蹴にする。傲慢なその笑みが、けれど今まで見た事も、何かこの世界の他のものに例えようもないほどに綺麗だった。
――……ま、まだその人は生きています。やめてください。傷ついた人を、更に傷つけて殺すなんて。
アシェルは酷い怪我をした男を背に庇うように膝をついて、必死にその青年を見上げた。青年は美しかった。美しすぎて恐ろしい。
白銀の髪に紅い瞳。その底冷えがするような眼差しに射抜かれて、動けない。金縛りにあったように重い口を、必死で動かした。
――その男は罪人だぞ。お前が庇う価値が、本当にあるのか?
――価値とか、そういうことじゃないんです。痛いのは辛いし、辛いのは嫌です。誰だって同じです。だから、一人一人が考えねばならないんです。この人は確かに盗みを働きました。でもそれは、この国が貧しくなければ、やらなくてよかった盗みです。ならばその責任は、誰にあるのでしょうか?
今となっては、何故そんな状況になったのかアシェルには思い出せない。ただ、三年前かそこら、何かがあったことだけは確かだ。場所はお馴染みのアストラスト王国ミルゼアルゼの街で、彼は不思議な青年と出会った。
どこの誰とも知らないのに、その妖しい美貌を湛えた笑顔だけをよく覚えている。血のように紅い瞳が、アシェルの知らない光を宿して自分を見つめていた。
アシェルの言葉に興味を覚えたらしきその青年は、それまで甚振っていた罪人の身体から足を退けた。代わりに、彼は男の前で腕を広げてしゃがみこんでいたアシェルへと手を伸ばす。
紙のように白い手の、長い指がアシェルの顎を捕らえて自らの方へと仰のかせた。されるがままに彼の方を見つめるアシェルを、面白そうに青年は見ている。深い、深淵の闇のような紅い瞳がアシェルを射抜いた。
あなたは誰?
問いかけても答は返らない。アシェルはそれを覚えてはいない。
雰囲気と口調、行動から察するにどこかの国の高名な貴族か何かであろうその白銀の髪に血の色の瞳の美しい人は、アシェルと至近距離で見つめあいながら言った。
――お前の助けた男は罪人だ。そこにどんな理由があろうとも、それは変わらない。それにお前のような考えを、世界の誰もが持つものではないぞ。それでもお前は、自らがただ損をするだけのそんなつまらない考えを持ち続けるとでも言うのか?
それともこの場ではただ単に正義感ぶって偽善を振るいたいだけか? 嘲りは吐息が触れる近さで囁かれ、思わずカッとなったアシェルは彼に言い返した。
――僕は、誰が何と言おうとも自分が正しいと信じるものを曲げません! あなたのやっていることは間違っている! だから止めたんです!
身なりといい雰囲気といい青年は貴族のようだった。彼に突っかかるアシェルの大胆で命知らずな行動に、周囲の人々は卒倒しかねない様子。
けれどアシェルの言葉に青年本人は、次の瞬間アシェルの顎から手を伸ばして大笑いし始めた。
――言ってくれるな。私の行動が間違っているとは。では聞くが、本当に『正しい』こととは何だ?
――本当に正しい、こと……。
――そうだ。それを求めるのは、決して楽な道ではないぞ。誰もが幸せになれる未来などありはしない。必ずやどこかで血は流れる。今はこんな小さな街の中にいるが、この先世界に出てそれを痛感することとなったとき、果たしてお前はどうするのかな……?
世界。その時のアシェルには、それは大きすぎて広すぎて、とうてい手の届かない言葉だった。
それをまるで見越したように、青年がまた笑う。先程のように無邪気な大笑ではなく、罪人の男を足蹴にしていた時と同じ、猫が鼠を弄ぶように残酷で、酷薄な強者の笑みだった。その紅い唇に冷たい色香が漂い、再びアシェルへと手を伸ばす。
――見てみたいな。いざ、その時が来たらお前がどんな道を選ぶのか。
彼の言葉は、アシェルにはよくわからないものが多かった。ただ、彼が自分を見つめるときの、硝子箱に閉じ込めた実験動物を眺めるような、その目だけが瞼に強く焼きついている。
――叶わぬ夢を見る者よ。その身に、《――》の紅き祝福を――
美しいのに恐ろしい青年のその笑みで、アシェルは凍りついたように動けず……。
――お前がいつか私のもとへと来るのを、楽しみにしているよ。
◆◆◆◆◆
そして、ある日、身体に薔薇のような紅いノクタンビュールの烙印が浮かび上がった。
◆◆◆◆◆
目が覚めたらそこは知らない場所だったというのは好ましくない。側にいる男が、面識のない相手だと言うのであれば尚更だ。
「気がついたようだな」
救いと言えるのは、見知らぬ場所で見知らぬ相手と一緒にいる状況で目覚めたとは言え、アシェルはれっきとした少年であるということだろうか。若い女性のような、そういう意味での不安は感じない。
だが、別の意味では問題は山積みだった。起きてすぐ、全身に鈍い痛みが走る。
「うぅ……」
「あれだけ街のヤツラに蹴られまくったんだ。すぐに動かないで、もうしばらく大人しくしていろ」
粗末な寝台の上に半身を起こしかけたアシェルを、部屋の片隅で片膝を立てて座っていた男がやってきて押し留める。武骨な手に柔らかく肩を押され、もう一度寝台の中へと戻された。
「……お前、今の状況はどこまでわかっている?」
目は覚めたはずなのにどこかぼんやりとしているようなアシェルの様子に、エヴェルシード人の男は不安そうに尋ねた。部屋の様子は寝台と小さなテーブルと椅子があるだけの簡素な様子で、ここはどこか安宿の一室のようだった。
「わかって……ます」
男の言葉に答え、アシェルはここに至るまでの経緯を頭の中で反芻した。
ミルゼアルゼの広場に突っ込んできた馬車から子どもを助けたことをきっかけに、その貴族に今回の紅雨の贄であることを街中に知らされてしまった。アシェルが贄であると知った途端、穏やかな形相を一変させて殺そうと襲い掛かってきた街の人々。その時、飛び出してきてアシェルを救い出してくれたのが……
「あなたは何者なんですか? どうして、僕を助けてくれたんです……? 僕が……で、あることは、わかっていたんでしょう……? なのにどうして……」
途中で声が掠れ、小さく咳き込む。その様子を見かねたのか、男は寝台に半身を起こしたアシェルに、テーブルの上に置いてあった水差しから水を注いだグラスを渡した。ありがたくそれを受け取って、アシェルはようやく喉を潤す。
そうして一息つくと、これまで頭では理解していた事態に気持ちがようやく追いついてきたアシェルの瞳から、ぽろりと涙が零れた。
「オイッ?!」
いきなり泣き始めたアシェルに、男が焦ったような声を上げる。
「すみません……」
目元を濡らし頬を滑った涙を無理矢理服の袖で拭い、アシェルは男の方へと視線を向けた。
泣いている場合ではない。そんな権利も資格も、自分にはない。
「質問に答えてもらえませんか? 僕には、今のこの状況がわかるようでいてわからない。あなたは僕が贄であることを知っているんでしょうが、僕はあなたが何者なのか知りませんから」
「あ、ああ」
胸中の不安を見せず、しっかりとした様子でそう言い切ったアシェルの様子に先程とは別の意味で呆気にとられて、エヴェルシード人の男は口を開いた。
アシェルが身を起こした寝台の脇に粗末な椅子を一つ引いてきて、そこに腰掛ける。
「俺の名はジェットと言う。見ての通り、ここからちょっと遠いがシュルト大陸のエヴェルシード王国からやってきた、エヴェルシード人だ」
アシェルはまじまじと男の容貌を観察した。エヴェルシード人の特徴は蒼い髪に橙色の瞳。男もその例に漏れず、腰まで届きそうな長い蒼い髪と、夕焼けの空のような瞳をしている。背は普通だが、体格は良い。細身の筋肉質と言った感じで、腰に剣を佩いたその姿に危なげはない。
眼光は鋭く、顔立ちは整っている。重い剣を軽々と振り回す様子は、いかにも美丈夫、という言葉が似合いそうだ。年齢は大体二十代後半から三十代前半と言ったところだろうか。
「お前の名は?」
「……アシェル、です」
「そうか、アシェル……お前が、今回の贄なんだな」
ジェットと名乗った男は、そう言ってアシェルを見ると痛ましそうに声を潜め、アシェルの求めどおりに今回の事態について説明し始めた。
「今年は二十年に一度の紅雨の年。俺は、そのためにお前が他のヤツラから殺されるのを止めに来たんだ」
――お前を護る者だ。
今の言葉と、それからミルゼアルゼの街を抜け出す直前に聞いた言葉。そのどちらの内容もアシェルにとっては信じがたいことで、少年は訝しげにジェットの様子を窺った。
「どうして? ……僕は、今年の贄なんですよ? あなたは、僕に死ねとは言わないんですね」
呪われた紅い雨を止める方法は一つだけ。贄を殺すこと。世界中でただ一人、アシェルが死ねば雨は止む。自らが生きたいがために、他者があの雨に降られるとわかっていて名乗り出なかったアシェルは、すでに人殺しの罪人だ。
目を伏せる少年の口元に、諦観を帯びた笑みがある。眉根を寄せたジェットは、すでに自らの運命を悟った少年を前に、決して大きくはないが力強い声で言った。
「お前は死なない」
「!」
「俺が死なせない。お前を護る」
理由もわからないのに、彼が本気だということは嫌と言うほど伝わってくる。ただただ目を丸くするアシェルに、ジェットは困ったように笑いかけた。この武骨そうな若者が、それは初めて見せた笑みだった。
「別に、お前さんに感謝してもらいたいとか、そういうわけじゃないさ。俺には俺の事情と言うものがある。言い方は悪いが、俺はそのためにお前さんの存在を利用としている」
ジェットの言葉に、アシェルは少しだけ怖気づいた。けれど次の瞬間には意を決して、詳細を尋ねる言葉を自ら口にする。
「あなたが、贄に拘る理由はなんですか?」
アシェルにはジェットと面識はない。彼の方でもそうだろう。顔を知らずとも名前だけ教えられた近親者を相手にするような、そんな親しげな感じも二人の間には欠片もない。そもそも大陸すら違うエヴェルシードとアストラストは遠すぎて、よっぽどの理由でもなければ両国の人間に親交があったりしないだろう。だからアシェルにはわかったのだ。このジェットという男が護りたいのは、「アシェル」という少年ではない。紅雨の《贄》の方なのだ。
含みのあるアシェルの言い方に気づいたのか気づいていないのか、とにかくジェットは淡々と説明を始めた。先程から見ていても思ったのだが、ジェットはそれほど感情豊かな人間ではないようだ。
「俺は、ある人との約束によって、次の贄……今回の紅雨の贄を助けることを誓ったんだ。その贄が、今回はたまたまお前だったに過ぎない」
「その人って……」
「……お前の、前の贄だ。二十年前の紅雨の時、ノクタンビュールの刻印を受けた女性」
そういえば、とアシェルは思い出した。
贄の人種も性別も年齢も、その年によってまちまちだ。今回はアストラスト人の十三歳の少年アシェルだが、二十年前は確かエヴェルシード人の若い女性だと聞いた。
「彼女の名はリーシェン。俺とは……まぁ、親しかったんだ。俺は彼女が贄だと知った時、彼女に逃げてほしいと思った。けれど彼女はわざわざ、自分がノクタンビュールだと名乗り出た」
「ジェットさんは……今、お幾つですか?」
「三十二歳。お前は?」
「十三歳です」
「そうか。リーシェンが贄に選ばれた時、俺はちょうど今のお前くらいの歳だったな……。だが、アシェルと言ったか。お前はあの頃の俺より、ずっと頭が良さそうだ」
今年三十二歳なら、二十年前のジェットは十二歳か。確かにアシェルより少し幼いくらいだ。
「俺はリーシェンに死んでほしくなかったが、彼女は嫌だと言った。自分が名乗り出ないためにこれ以上死者を出すのは嫌だと。二十年前の噂はお前も聞いているか?」
「はい。二十年前の贄だったという女性は、紅雨の歴史の中でも類を見ないほど早く名乗り出た、と……評価されているようです」
言いながら、アシェルはちらりと自分のことを振り返った。
二十年前の贄の女性、ジェットの言うリーシェンと言う女性は、とても立派だったのだと聞いている。初めの雨が降り始めた段階で世界に名乗り出て、彼女が死んですぐに雨は止んだ。けれどアシェルは、自分が贄であることを誰にも伝えようとはしていなかった。
それはおそらく、罪深いことなのだろう……。
「アシェル、単刀直入に聞く」
アシェルの内心の葛藤を知らず、ジェットは淡々と尋ねてくる。けれど抑揚のない口調とは裏腹に。炎の国と言われるエヴェルシード人の夕焼け色の瞳が、それこそ炎のように燃えていた。
「お前は、生きる気があるか?」
「え……?」
「贄として、自分が世界中から死を望まれている自覚はあるのだろう。だけれど、お前はどうなんだ? お前の意志は、望みは」
「どうして、そんなことを聞くんです? 贄に選ばれたら意志など関係ない。ただ、殺されるだけの……」
贄に味方などいない。いるはずがない。
誰よりもアシェル自身がそれを知っている。彼が贄と知った途端に態度を翻した街の人々。それに……
「そうだ。贄は、世界にはそう望まれている。だが、お前はどうなんだ?」
辛抱強く繰り返し問いかけるジェットの言葉に、アシェルは朝焼けの空のような紫色の瞳を見開いた。
「……たい」
先程止めたはずの涙が、またぽろぽろと、後から後から溢れ出してくる。膝の上の毛布の上で握り締めた拳は白くなるほど力がこめられ、小刻みに震えていた。唇を強く噛んで嗚咽を堪える。
「生きたい。僕は、生きていたい……!」
まだジェットの思惑がよくわからない。この全てが罠かもしれない。それは考えてはいたが、アシェルには自分の思いを吐露するのをやめることはできなかった。
ずっと、ずっと、あの日からずっと不安だった。自らの左手に浮かび上がった烙印が何を意味するものかぐらい、アシェルだって気づいていた。それを与えられた瞬間に、自分が人として当然のように生きる権利をなくしたことも。
それでも正直な心は、いつだって生を望んでいた。
どうせ何を言ったところで、この世に味方などいないのだ。だから、誰に何を言っても同じ。
そう思って本音を口にしたアシェルだったが、ジェットの様子はこれまでの贄を憎悪の瞳で睨み付けて来た人々とは全く違った。
「アシェル」
男は少年の手に、自らの手を重ね合わせる。剣だこのできた武人の大きな手が、少年の白い手を包んだ。
「お前は生きたいんだな? 贄として名乗り出ず、隠れ潜みながら生きる事が、どれだけ大変かわかっているか?」
「はい。……たくさんの人を傷つけ、そして敵に回すでしょう。世界中全ての人に恨まれ、嫌われ、知られた瞬間に命を狙われることになるでしょう。僕は……死んだ方が良い人間です」
だけど、生きたい。
それでも、生きていたい。
「ならば俺は、お前を護る」
「ジェットさん……?」
「言っただろう? 俺は二十年前の贄であったリーシェンと約束をしたんだ。彼女の願いはこうだった。自分の後に生まれてくる贄が、もしも生を望むなら、それを護ってやってほしいと」
アシェルはまたまじまじとジェットの顔を見つめた。エヴェルシード人の男の言葉に、嘘の響はない。けれどアシェルには彼が、ひいては彼の知り合いであるというその前の贄である女性が、何を考えているのかはさっぱりわからなかった。
困惑して揺れる幼い瞳を眺め、ジェットは穏やかに問う。
「リーシェンの考えは、俺にもよくわからない。彼女は優しかったが、その一方で常人にはつかめないような不思議な考え方をする人だった。でもあの人が何を考えていたのかはともかく、俺はあの人を信じているし、あの人との約束を守りたい。だからお前が頷いてくれるなら、俺は、俺の命の全てを賭けて、お前を護る」
重ね合わせた手に、ジェットは力をこめる。その温もりに、アシェルはただひたすら戸惑うばかりだ。
贄に味方などいない。いるはずがない。贄とは呪いの雨を引き連れてこの世に災厄をもたらす、ただただ忌まわしい存在だ。けれど。
「ジェットさんは、その贄の方……リーシェンさんがとても好きだったのですね」
「!」
アシェルの言葉に、ジェットは思わず彼から手を離した。そして椅子ごと、ガタリと大きな音を立てて離れる。
「な、ななな何を」
「見ていればわかりますよ」
色男の外見と年齢に見合わず純情な反応を返した男に、アシェルはクス、と悪戯っ子のように笑いかける。
「だからあなたは、僕を護ってくれると言うんですね。好きでもない僕を。僕が次の贄だから、なんでもいいけど僕を助けるんですね。僕がどんな人間かにも関わらず」
「アシェル……」
今度はジェットが目を丸くする番だった。まだ十三歳の少年は年齢や外見の印象よりずっと大人びた瞳で、ジェットの申し出に言葉を返す。
「本当に、本当に護ってくださるのですか? 僕はあなたの大事な方とは違って、自分が贄だと知ったその瞬間に名乗り出ることすらせず、紅い雨が隣国の村を飲み込むのを見捨てた嫌な人間ですよ」
「ああ。……俺の全てで、お前を護る」
そもそもこの世界の仕組みがおかしいのだとジェットは言う。
「世界を救うために、たった一人を犠牲にしてそれでめでたしめでたしなんて、そんなもの本当の正義じゃない。俺は、それをリーシェンの時に知った。少なくとも彼女は罪と呼ばれるようなことは何一つしていないのに、それなのに贄として世界に処刑されてしまった。リーシェンより凶悪な、今すぐにでもぶっ殺した方がいいような悪党なんて、世界に幾らでもいるのにな。何もしていないのにリーシェンは殺されたんだ」
ジェットは当時の悔しさを思い出し、ぎりりと歯噛みした。二十年前、無力な十二歳の少年には何一つできることなどないと知る。自分という存在がどれだけ無力かと思い知ったあの日。
「他の誰がなんと言ったって、世界のために誰か一人を犠牲にするなんて嫌なんだ、俺は。だから……アシェル、俺はリーシェンとの約束のためにも、そして俺自身の意志のためにもお前を護りたい」
ジェットの瞳は真摯だった。研ぎ澄まされた刃のようにアシェルの瞳を射抜く。
「俺は、お前をそう簡単に死なせたくはない。けど……本当は、強制もできないことを知ってる。みんなのために死にたいと、お前がそう言うなら俺には止める権利はない」
贄に対する問題は、当事者でなければわからないほどに複雑だ。彼らは本当に無作為に世界から選ばれ、抗う余地もなく殺される。その悲惨な末路を、世界は正義のためだと言って、喜んで受け入れる。
贄が死なねば、雨はやまず何の関係もない人々が無惨に死んでいく。それを止めるために、贄はどうしても死なねばならない。何百万、何千万にもの死を止めるために、たった一人死を望まれる。
世界から恨まれ憎まれ嫌われるくらいならさっさと死んで良いことをしたと祀り上げられる方がマシ。歴史の中には、そんな思いで血の雨が降りだしてすぐに名乗り出る贄も大勢いたという。
生きる事は戦いの連続だ。贄となる者は特にその運命から逃れられない。だからジェットも、彼にそれを頼んだリーシェンもわかっていたのだ。贄が死を望むなら、それを彼らに拒むことはできないと。
話を聞き終えたアシェルは、静かに目を上げた。ジェットの方へ視線を移す。
「ずっと…この烙印が現れてからずっと、考えていることがあるんです」
しゅるりと破れた手袋を外し、アシェルは左手をジェットに見せた。その白い肌には紛うことなき、ノクタンビュールの深紅の烙印が刻まれている。それこそ彼にかけられた呪いの証だ。
「僕は……できるならば、その答を知りたい。それを知るまでくらいは……生きて、いたいんです」
ジェットが夕焼け色の瞳をゆっくりと瞬かせた。
「それは、俺の申し出を受け取ってもらえたと思っていいんだな?」
「はい。どうか……よろしくお願いします。ジェットさん。僕を護ってください」
改めて口にすると、アシェルは急に不安になり始めた。ジェットの事情は聞いたとはいえ、それが全て本当かなど彼以外にわかりはしない。自分を油断させるための罠かもしれない。自らが贄だと知った時から、アシェルの中にはずっとそんな、他者に対する疑いがある。
でも、ここでジェットの申し出を拒んだところで、どちらにしろ結果は同じなのだ。彼に殺されるか他の人に殺されるか、どちらにしろ意味は同じだ。
だったら、少しでも可能性のある方に賭けた方がいいだろう。
「いいんだな。アシェル。俺ははっきり言って、お前個人に対しては何の感情も持っていない。ただ俺の大事な人との約束を守りたいがためにお前を利用するんだ」
自らは打算的なのだ、と自らでそう口にしながら、ジェットはアシェルの反応を窺う。
「構いません。誰に卑怯と、醜いと、罪だと言われても、僕はまだ、生きていたいんですから」
晴れない翳りを帯びた微笑で、アシェルも静かに頷いた。贄とされたときから運命は定められている。それに抗うことの大変さは今更だ。
それでも抗おうとする。
険しい道だと、自分でわかっている。
「そう言えば……俺はお前を護るとは言ったし、お前も贄としてあの街のヤツラに知られてしまった以上、そのままじゃいられないだろう。しかし、お前はまだ子どもだし、家族がいるよな。その辺りのことはどうする?」
ジェットの何気ない問に、アシェルはハッと目を見開いた。ジェットを一瞥してから、悲しげに目を伏せて窓の方へと視線をやる。
安宿の二階からは、大通りの様子が見えた。親子連れが長閑に道を歩いている。
ジェットの問は当然だ。何と言ってもアシェルはまだ子どもであるし、贄がいるとその家族も場合によっては巻き添えで迫害を受けることを、彼は知っている。
「両親はいません。亡くなりました」
「そ……それは、すまないことを聞いたな」
「いいえ」
恐縮するジェットに、視線を彼へと戻したアシェルは寂しげに微笑みかける。
「ジェットさんにも、関係あることですから。二人が死んだのは、僕が贄だからです」
え、と思わず声を上げるジェットに、アシェルは言った。
「彼らは首をくくったんです。僕が贄だという、そのことに絶望して」
◆◆◆◆◆
あの騒ぎ以来、スーは自室に引き篭もっていた。
「スー、そろそろ出てきなさい」
「でも、お母さん……アシェルが……」
先日のミルゼアルゼの街中央広場での騒動。隣国ラウザンシスカに降ったという紅雨からその存在を探されていた贄が、まさかあの心優しい友人だったなんて。
「アシェル……」
スーの紅い髪はぐしゃぐしゃで、紫の瞳は常に濡れているような状態だ。あれ以来食事も満足にとれず、ひたすら考え込んでいる。
「ねぇ、何か、なんとかしてあの紅い雨を止める方法はないの?」
スーは部屋に閉じこもり、ずっとそのことについて考えていた。だってあの血の雨が止まなければ、いずれアシェルが殺されてしまう。彼の友人であるスーにとって、それは絶対に納得できないことだった。
「ねぇ、なんとかして、雨を止めることはできないの? それか、もしくは雨が降っても人が死なないように対策をとるとか。あの雨にも負けない屋根のある場所を作るとか、なんとかしてあの雨の被害を防ぐ方法が」
「スー」
三日ぶりに部屋から出てきた挙句そんなことを言い出す娘に、母親は渋い顔をする。目の前に食事を出されても、スーは手をつけようとしない。初めに水を飲んだきり、ずっと時折ぶつぶつと何事か口にしながら、考え続けている。
「馬鹿なことを言うのはやめなさい。そんなの、できるわけがないでしょ」
「でも、そうしないとアシェルが!」
「だから、あの子は贄だったのよ。あの子は生きていちゃいけないの。あの子が死ねば、みんなが助かるんじゃない」
「そんなの駄目よ! なんとか雨を止める方法はないの!?」
悲鳴のように叫んだスーに、しかし母親は当然のように答えた。
「だから、贄が死ねばいいのよ」
「お母さん……」
それはつまり、アシェルが死ねばいいということだ。
彼が贄だと知って、でも彼を助けようとしてくれる人間は誰もいない。スーだってアシェルを生かすために、何の罪もない人々が無惨に紅い雨に殺されていいとは思っていない。けれど、これではあまりにも。
「どうして、みんな考えないの? 考えようよ、なんとかしてあの紅い雨を防ごうよ。そうすればもう、贄を殺さなくていいじゃない。なのにどうして、そのための努力を誰もしてくれないの?」
紅い雨で人が死ぬのが良いことだとは思っていない。だけど、アシェルにも死んでほしくないのだ。
だからこそ、あの雨を止めねばならない。それにどれだけの苦労がかかるかは知れないが、それでも。
「無駄なことよ、スー。あんたが考えているより、紅雨の被害は大きいのよ。いつまでも贄が生きていれば、被害はだんだん大きくなるわ。一人のために、何千万もの人が死ぬのよ」
「何千万もの人のために、一人が死ぬのはいいの?」
世界のために贄を殺す。これは正義なのだと人は言う。
いや、人、ではない。他人ではない。スーだってそうだった。まさかアシェルが贄だと知るまでは、贄は世界のために早く死ぬべき存在だと思っていた。彼ら一人のために、世界中の人々を不幸にするのは傲慢だと。
その考えこそ傲慢であることにも気づかずに。
「お願いよ、お母さん、街の人たちとも協力して、何か雨を防ぐ方法を考えようよ。贄を殺さなくても生きていけるなら、それが一番いいはずでしょ!」
「スー」
しかし彼女の母親は、聞く耳を持たない。
「それは無理よ、紅い雨の被害はあんたが思っているより凄まじいわ。あれを止める手段なんてあるわけない」
そして彼女は、娘を抱きしめながら言い聞かせた。
「良かったわ。あんたが無事で。あの時アシェルと一緒にいたっていうから、あんたにまで何かあったらどうしようかと……」
「お母さん……」
「もう、アシェルのことを口に出しては駄目よ。街の人だって、今はまだ知らなかったのだから仕方ないって見逃してくれる。でも、あんたがずっとそんなことを言い続ければどうなるかわからない。贄に関係する者だって同じように酷い目に合うのよ。あんたまでそんなことにならないで」
「でも、だって」
「いいから。絶対に、アシェルを庇ったりしたら駄目よ」
母の腕の力は強く、スーはそれを振り解けなかった。わかっている、彼女は弱い人だ。
そして自分も。世の中の大勢の人々も。
みんな自分のことだけが可愛いのだ。
「ごめん……ごめん、アシェル……」
二度と会えないだろう友人の名を呟いて、スーは泣いた。
彼を見捨てることを決めた、懺悔の涙だった。