薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 01

4.過去からの祈り

 炎の国と呼ばれるエヴェルシードの民は、外見的にはなんら炎を連想させることのない色を持っている。白い肌、蒼い髪、瞳の色は橙色で、夕焼けのように穏やかだ。
 ジェットが覚えている「彼女」に関する記憶は、その見事な蒼い長い髪が風に遊ばれてなびく様子だった。街の景色が一望できる人気のない丘の上に立ち、彼女は一人、いつも何か考え深げな様子で街の景色を眺めていた。
「リーシェン」
 彼の倍は生きている女性の、蒼い長い髪が風にさらわれる様子を見ながらジェットはその後姿に声をかけた。街の中でも多少変わり者として目されている彼女にここまで懐いているのはジェットくらいのものだ。そうして、リーシェンからここまで心を許されているのもジェットくらいのものだった。
「あら、ジェット。どうしたの? この時間にここに来るのは珍しいじゃない?」
「親方に言って、仕事を代わってもらった。リーシェン、本当に……」
 先日聞いた事が、ジェットの喉を塞ぐ。街の中でリーシェンと一番親しい彼だけが、そのことを知らされていた。
「本当に……あんたが贄なのか?」
「ええ、そうよ」
 こともなげに頷く彼女は、服の胸元を軽く肌蹴させる。鎖骨のすぐ下辺りに、紅い薔薇のような烙印があった。
 身体に現れるという烙印の位置は、贄によって違う。服を上手に着れば隠し通せるだろうその場所にあるものを、何故かリーシェンはジェットにだけ見せた。元通り襟元をただすと、再び丘の麓の街の様子に目を配る。
 これが最後、見納めだとでも言うその不吉な様子に、ジェットはたまらず叫んだ。
「逃げよう! リーシェン!」
「ジェット?」
「贄だって関係ない! あんたが死ぬのは、俺は嫌だ! だから、逃げよう。どこか遠くへ。誰もあんたのことを知らない場所に行けば、きっと……」
 何を言うんだ、という顔でリーシェンが彼を振り返る。彼女は自分より背の低い幼い少年を見つめて、その瞳が真剣だと知ると、困ったように笑った。
「ごめんなさい」
 無理、でも、駄目、でもなくリーシェンはそう言って苦笑した。
 できない、難しいと肩を落とすのではなく、私はそうしないのだと。
「リーシェン、でもそうしたらあんたは」
「私ね、王城に名乗り出ようと思うの」
「リーシェン!?」
 年上の知人が何を言うのかと、ジェットはぎょっとして彼女にしがみつく。そのひらひらとした服の裾を掴んで、必死に縋り付いた。
「何を言ってるんだよ、そんなことをしたら、あんたは」
「ええ。私は殺されるでしょうね。贄として。だからわざわざ名乗り出るの。『私はここにいる』ってね」
 呪われた血の雨、紅雨。
 人々に死と苦痛と絶望をもたらすその雨を止めるには、贄の犠牲が必要だ。
 だからと言って、彼らは何も世界に名乗り出る必要などない。烙印が現れたことを誰にも知られなかったのならばこれ幸いと逃げる者もいるし、世界のために自分が犠牲になろうと思うのならば、誰かにそれを知らせずとも一人で死ねばいいだけの話だ。
 だが、リーシェンは名乗り出るのだと告げた。それは自らの存在を、贄だと世界に知らしめる行為だ。言わなければぎりぎりまで逃げ続けられるかも知れないものを、わざわざ名乗り出るのだと。
 何のためにそうするのか。世界のためにただ一人死ぬ道を選んで。
 まだ十二歳のジェットには、彼女の言葉の全ての意味がわかるわけではなかった。それでも彼女に死んでほしくはなくて、彼女を世界に殺させたくはなくて、ジェットは言う。
「逃げようよ、リーシェン! 俺も行くから! ずっと、どこまでも、一緒にいるから!」
 少年の必死な告白を、二十歳をとうに越えた女性は困ったように受け流す。
「ごめんなさい。ジェット」
 泣きそうな顔をしているのは、贄としてこの後殺されるリーシェンではなくジェットの方だった。嘆く彼女を慰めるのならばまだしも、どうして自分の方が泣いているのか。一粒涙の雫をぽろりと零せば、もう後は止まらなかった。街を一望できる丘の上、吹く風は強く涙を頬から空へと流していく。それはどこまでも青く冷たく、血の雨を降らせるという紅い空などこの時のジェットには想像もつかなかった。
 紅雨が遠くの大陸の、小さな村に降った。その報せを受けてすぐのことだった。ジェットがリーシェンから、彼女がその年の贄であることを知らされたのは。
 恐らくリーシェンは被害を出す前に自らが贄だと世界に名乗り出る気だったのだろう。だけど、間に合わなかった。だからもう一刻の猶予もない。何かを悟った顔つきの彼女とジェットは、その後それほど長い時間を共にしたわけではない。
 短かった蒼い髪を振り乱して、ジェットはリーシェンの姿を探して街の中を駆け回った。ようやく丘の上に辿り着いてその見慣れた後姿を見つけた時には、もう彼女は心を決めていた。街を一望できる丘の景色が世界を見つめるのに似ていると、かつて言ったのはどちらの唇だったのか。
「死なないで」
 祈りは言葉となって零れ、けれど届かない。十二歳だったジェットの目には、二十四歳のリーシェンはとても大人に見えた。口では必ず言い負かされる。わかっていたけれど他にどうすることもできず、ただただ、拙い言葉を必死で繰り返す。
「死なないで。死なないで、リーシェン。俺がいるから。一緒に逃げてやるから。だから、だから」
 彼女が好きだった。
 死んでほしくなんか、なかった。
「ありがとう、ジェット」
 柔らかな口調、言葉ではなくその響に、ジェットは彼女の拒絶を知る。彼がもう何を言っても駄目なのだ。すでに彼女は心を決めてしまった。
 それでもせめて、と言葉を尽くし続けるジェットに、やがてリーシェンの方から口を開いた。
「ねぇ、ジェット。紅雨の贄の末路がどうなるか、知ってる?」
「え?」
 殺される、のだろう。贄が死なねば、血の雨が止まない。そう単純に答えたジェットに、リーシェンはそれにもいろいろあるのだと、また苦笑しながら言った。苦笑とは言うものの、笑っているのは口元だけで、その瞳は全く微笑んでいないことに、ようやくジェットも気づき始めた。
「紅雨の降る仕組みは、この世の誰も知らない。けれどいつ頃からか烙印を持つ贄を殺せば雨は止むと言う事が知られ始めて、事実贄を殺せば雨は止む。だから、紅雨の被害の責任はその時の贄が全て負うような形になっているわ。実際に、今回こそ最初の被害はエヴェルシードから離れたラウザンシスカ周辺で起きたけれど、それでも血の雨はいつか贄を追ってここまで来るのでしょう。紅雨は贄を追うと言うし」
「リーシェン……?」
 語るリーシェンの瞳こそ笑っていないものの、そこに映る光がどういったものなのかと言う事まで、この時のジェットにはわからなかった。リーシェンの瞳に宿る決意は、燃える炎のように強い。
 エヴェルシードは炎の国だ。その国の民の髪は蒼で、ジェットの中にリーシェンの印象は蒼い長い髪の美しい人として刻まれている。けれどこの時の彼女は、まさしく炎と呼ぶに相応しい瞳をしていた。
「おかしいと思わない? 血の雨を降らす者は贄ではないわ。なのに、人々はまるで、紅雨を降らせるのは贄の存在だとでも言う。違うわ。逆なのよ。贄がいるから、紅雨は止む。止むけれど被害は消えない。あの雨は、何なのかしらね?」
 何だろうといいながら、リーシェンにもその答はわかってはいないようだった。悔しげに唇を髪、すっと目を伏せる。
 彼女の勢いに飲まれたように、ジェットはその言葉を大人しく聞いていた。風だけが彼女の長い蒼い髪を揺らしていた。
「さっき、贄の末路のことについて聞いたわね」
 リーシェンの話は一周して、そこへと戻ってくる。
「紅雨を降らせるのは贄ではない。だから贄は本来何の責任もないのよ。けれど、世界は赤い雨にまつわることは、全部贄のせいだと思っている。だからね」
 常に落ち着いた様子の女性が、珍しくその瞳に暗い翳りを宿す。
「逃げて逃げて、捕まって死ねば、きっと酷い目に合わされるわ」
 お前のせいだ、お前が悪いと叫ぶ、彼女とは何のかかわりもない人々。別に贄がそう望んだわけでもないのに、血の雨によって親しい家族や友人を亡くした者たちからは一層激しい憎悪と叱責を向けられる。お前のせいだ。お前が悪い。贄は誰を殺したいと願ったわけでもないのに。
 それでいて、贄を庇う者などいない。世界を救うためならば、彼ら彼女らは死ぬのが当然だと言う認識でこれまでの贄は殺されてきた。これまでの、贄は。
「ねぇ、ジェット」
 リーシェンに呼ばれ、ジェットは顔を上げた。
「私は、とっても卑怯なの」
 にっこりと笑う彼女のその顔は美しい。エヴェルシードは武人の国とはいえ国民全員が筋骨隆々としているわけではもちろんない。極普通の家庭に生まれ育った普通の人間である彼女は、もう何年かしてジェットが大人の男になれば、容易く組み伏せられるほどに華奢でか弱かった。
 そのリーシェンが世界中に指名手配され、出会う人出会う人に命を狙われることとなったらどうだろう。それは確かに厳しく、果ての見えない苦難の道だ。世界中を敵に回していつまでも隠れていられるわけはない。贄が逃げるほどに威力を増すという紅雨の威力は絶大で、街中が疑心暗鬼に駆られお互いの一挙手一動を見張っているのだ。
 紅雨の被害がどういったものであるかなど、この目で見なくとも世界の大体の人々は知っていた。これまでにも何十年、何百年に渡って災厄は繰り返されてきた。それだけの人が死んだということだ。
だから今回初めて紅雨の年を経験する子どもや若者にだって、その凄惨さは伝えられてきている。直接目で見なければ確かに実感できないことはあるだろうが、大人たちの憎悪に満ちた語り口に、贄が我が身可愛さに逃げて、多くの人を犠牲にすることがどういった結果を招くかも想像がつかないわけではない。
リーシェンの前の贄、二十年前の贄は逃げたのだと言う。その時の贄は中年の男で、彼には遠く離れた土地に妻と子があった。家族にどうしても会いたかった彼は逃げて、逃げて、そして辿り着いた最期は、世界中から怨嗟の声を浴びて嬲り殺されるという道だった。
 紅い雨に降られ、多くの人々が死んだのはお前のせいだ、と。その贄を憎む、二十年前の紅雨を経験した者たちの声はまだ強い。贄が逃げることなど、許されないことなど考えられている。
 リーシェンが同じ道を選んだのならどうなるのだろう。
「あのね、ジェット、私はね、苦しんで苦しんで死ぬのも、お前がさっさと死ななかったからこれだけの被害が出た、なんて責任を押し付けられるのも嫌なの」
「リーシェン……」
「だから、私は死んでいく。苦しんで死ぬのが嫌だから、被害が広まらない内にさっさと死ぬの」
「リーシェン、そんなこと言うなよ! 嘘つき! あんたは本当は、誰にも死んでほしくなんかないくせに!」
 ジェットが叫ぶと、リーシェンはきょとんと橙色の目を丸くした。次の瞬間相好を崩し、泣き笑いのような表情になる。
「ええ。そうね。死にたくないし、死なせたくないわ。でも、私にはそのどちらも選べないの……」
「他人を救うために自分から死のうとしてるあんたが、どうして卑怯者なんだよ……!!」
 ジェットはきつく目を閉じて、リーシェンに縋った。彼女の胸におしつけた頭の上から、優しい声が降ってくる。
 乾いた喉を潤し、腫れた瞼を冷やす雨のように。
「……卑怯よ。それに無力よ、私は。だって私は、先例を作ってしまう」
「先、例?」
「ええ。私が死ねば、そこでまた贄の死亡例の一つができあがるだけ。それも今度は、できる限り早く死んだ方がやはりいいんだという……私の次の贄は私が前の贄と比べられるように私と比べられて、恐らくもっと過酷な決断を迫られるわ……」
 語るリーシェンの言葉の意味が、ジェットにはよくわからなかった。リーシェンが死ぬと言う事だって認めたくないのに、その次の贄のことなんて、何故彼女が気にしているのか。だって今実際に殺されそうになっているのは彼女ではないか。次の贄など関係ないだろう。
「私には、世界を変える力はないし、世界に逆らう勇気もないの。できることと言ったら、できるだけ早く死ぬことと、世界に名乗りをあげることだけ」
「リーシェン」
「お願いがあるの。ジェット」
 彼女に縋りつくジェットの指を一本一本といて、リーシェンは年下の友人と目を合わせる。その真摯な眼差しにジェットは引き込まれ、次に続く言葉に、否やなど言えるはずがなかった。
「もしも私の次、二十年後に生まれた贄が、この運命に逆らって生きることを望むのならば」
 望むならば。
「どうかその人を助けてあげて。それがどんな人でも」
「どんな人、でも?」
「ええ。大人でも、子どもでも、男でも、女でも、悪人でも、善人でも。生きることを諦めないその相手の力になってあげて」
 お願いよ。リーシェンはジェットにそう懇願した。
「私が、未来に続くこの災いの被害者に対して、残せるものはたったそれだけ。ジェット……助けてくれると言って、本当に嬉しかったわ。ありがとう。あなたは、生きてね」
 その言葉にふとジェットは気づいた。
 二十年後の贄を助けてくれということは、それまでジェットは生きていなくてはならない。紅雨のことはリーシェン自身が止めるつもりなのだから血の雨に降られて死ぬ心配はないだろうけれど、それでもこの先二十年、何があるかわからないのに、何があっても生きていなければならない。
 リーシェンのために。
 それがジェットにできる最初で最後のことだった。
「……ひどいや、リーシェン」
 後を追うことも許してくれないなんて。
「そうよ、だから言ったでしょう?」
 約束は守ると、その一言で示したジェットに向けて、リーシェンは本物の笑顔を見せた。
「私は卑怯で、酷い人間なんだって」

 ◆◆◆◆◆

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 幾度も繰り返した謝罪を、またしても彼女は繰り返す。初めは神に縋るかのごとく折りたたまれていた指が、繰り返すたびにほどけて言って、今はもう指を組む事はしない。
 ごめんなさい。二十年後の、私の次の贄の人。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 神なき世界で彼女は繰り返す。もしかしたらまだ生まれてもいないかもしれない人間のために。それがどんな人間かも知らないのに。
 ごめんなさい、次の人。ごめんなさい、私は弱かった。
 私は逃げる。私は諦める。私は誰かのためになんて、強さを抱いたまま戦い続けることなんてできない。だから私は卑怯者のまま、安らかに死んでいく。
罵られ忌み嫌われ世界中から責められながらも、より良き明日のため血を被り進む修羅の道を、選べはしなかった。誰かの幸福より自分の安楽を選んだ。弱くて、狡くて、卑怯。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 私は先例を作れなかった。抗う意志を世界に示せなかった。だからせめて、高らかに名乗りをあげて死んでいく。私はここにいる。ここにいた、と。
 それでも、私では誰も救えない。誰一人救えない。
 だから、どうか。
 未来に繋がるものを、たったひとつだけ置いていきます。少しでも長い明日のために、「彼」を遺していきます。
 ああ、こんな時まで私は「彼」を自分のために使おうとしている。嫌な女。酷い女。
 最期まで私の友達でいてくれたのは、あなただけよ、ジェット。

 ◆◆◆◆◆

 今になってジェットは思う。
 あの頃、自分よりずっと大人びて見えた彼女は、まだたったの二十四歳だったのだ。たったそれしか生きなかったのだ。
 今になって思う。
 自分は今三十二歳。それだけの年月を当然のように重ねてこれたことは、とても……。