薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 01

5.神の土地へ

 どこまで行っても、終わりなどない。この旅路に果てなどない。
 アシェルが贄である限り、世界の全ては敵だった。誰だって焼かれ溶かされ切り刻まれ、そんな苦痛の中で死にたくはないのだ。味方などいない。
 そう思っていた彼に、エヴェルシード人のジェットと名乗る男が近づいてきた。彼は紅雨の贄であることが白日に晒され、昨日まで親しげに口をきいていた故郷の街の人々に殺されかけたアシェルを救い出してくれた。なんでも二十年前の贄と知り合いであり、その人との約束を守るためにアシェルを護ってくれるのだという。
 今のところ、ジェットはアシェルの唯一の味方である。それでも、アシェルだって心の底からいつまでも彼が自分の味方でいてくれるなどとは思っていない。
 贄が生き延びることは、ほとんどありえないと言ってもいい長く険しい試練の道だった。地獄のような旅路に終わりなどない。生きようと死のうと、何をしたわけでなくとも悪し様に罵られ忌み嫌われる宿命を持つ。それが贄だった。
 アシェルといることは、ジェットの身をも危険に晒す。残念なことにアシェルはまだ十三歳の、何の特技も持たない少年であり、ましてや軍事国家エヴェルシードでもないアストラスト王国では、子どもに剣を教える習慣などない。
 戦闘能力皆無のアシェルの護衛として、ジェットは剣を振るうのだと言う。この日のために二十年鍛錬を欠かさなかったという彼の腕は、生半な男たちはもちろん、歴戦の将だとて震え上がらせるほどのものだろう。
 けれど、それでも道は険しい。
 幸せな未来の保証どころか、明日自分が生きている保証すらないのだ。自らその運命に飛び込んできてくれたジェットがいても、それでもアシェルの未来は閉ざされたままだった。
 あの雨がある限り。
 この世界に、紅い血の雨が降る限り。

 ◆◆◆◆◆

 気絶したアシェルを抱えてひとまずジェットが滑り込んだのは、ミルゼアルゼの街からそう離れていないアストラスト国内の宿だった。
「とりあえず、距離を稼がないとな」
「はい……僕の顔は街の人たちには知られていますから、もう故郷には戻れません」
 ろくな話もしないままに残してきてしまった友人、贄だと知れた途端に態度を豹変させた街の人々、アシェルの胸は生まれ育った街を思い返すたびに氷の棘が刺さるような痛みを覚えるが、少年はそれを強いて押し殺す。自分が生きるか死ぬかの問題に直面している時に、感傷になど浸れない。同行者がいるのであれば尚更だ。
見た目から感じられる儚さよりもよほど芯の強い様子を見せるアシェルを痛ましげに見遣ってから、ジェットは窓の外へと視線をそらして思考を纏め始める。
「なんにしろ、国内を出た方がいいよな。お前、他に知り合いはいないか?」
 味方になってくれるような者も、逆に敵対していて注意した方がいいような相手も。
「いません。ミルゼアルゼの街には友達がいましたけれど、彼女もまだ子どもですから何も動けはしないでしょう。両親は亡くなり、親戚もいません。だから、あの街の外には知り合いがいません。でも僕はアストラスト人ですから、この国を出てしまったらこの紅い髪が……」
「そのぐらい、変装すればいいさ。俺もいい加減この国では目立つだろうしな」
 アストラスト人の容姿の特徴は紅い髪に薄紫の瞳。肌は白い。
 その中で、ジェットのような蒼い髪に橙色の瞳は……
「はい、とても目立ってました……」
 贄云々のことがなくとも、ジェットはアストラスト人の中では目立っていた。スーと共に広場の市を巡っていた際に見かけた蒼い髪の剣士、あれは彼だったのだな、と思い至ってアシェルは思わず苦笑いする。
「エヴェルシードはそもそも向こうの大陸の国だしな。ここを抜けると、確か次の国はフィルメリア……黄緑の髪に榛色の瞳の民が住む国か。……目立つだろうな」
「目立つでしょうね」
 紅い髪のアシェルも、蒼い髪のジェットも。
 二人はいまだ安宿の一室に留まっていた。ようやく起き上がれるようになったアシェルの膝、寝台の上に地図を広げ、彼らはそれを覗き込む。北のシュルト大陸と南のバロック大陸、そしてバロック大陸のずっと西側にマーセルヴィナ諸島を越えて皇帝領薔薇大陸が存在する。
 二人の現在地はバロック大陸東部のアストラスト王国の一画、ここをもう少し南側に抜ければ、隣国フィルメリアに入る。アストラスト王国は海と四つの国に面しているが、隣国は隣国でも最初に紅雨の被害が出たというラウザンシスカ方面へは行きづらい。かの国とはまるで逆の方向をジェットは指差した。
 地図はここまでの彼の旅路で得た情報を書き込んだ手製らしく、その土地の情報から些細なメモまでいろいろと書き込まれている。その中に含まれた、各国の民の髪と瞳の色の情報が、知識として知ってはいても実際に目で見なければ実感が湧かないアシェルにとっては興味深かった。
「アシェル、お前の目はアストラスト人の紫、か……髪や肌の色までは変えられても、今の技術だと魔術師でもなければ目の色を変える術はないからな……他に目の色が紫の国は」
 ジェットが指差した地図の一画をアシェルの視線が追う。
「シュルト大陸ウィスタリア王国か。ここの連中は銀髪に紫の目だから、何とか誤魔化せないこともない」
 大陸が違うと習慣が多少変わるからおかしく思われるかもしれないが、それは国が違うことについても同じだ。やはり見た目の印象に勝るものはない。ジェットはそう言うと準備よく、荷物の中から幾つかの染め粉を取り出した。
「あのぼったくり占い師……こんな物に数万イルも払わせやがって……一日の宿代だぞ」
 何事かぶつぶつと呟いている彼の独り言に、アシェルはハッとそのことに気づいた。
「そう言えばジェットさん、僕、お金全然持ってないですよ」
 自らが贄だと知ってから、アシェルも両親が遺してくれた多少の蓄えを普段着に縫い付けるようにして持ち運ぶようにしていた。いつ、何があってもいいように。しかしそんな風にできるものも限られていて、アシェルの手持ちの金はもう幾らもない。
「ああ。そのくらいわかってるさ。大丈夫だ。俺はそれなりに持ってる」
 それなり、というジェットの言葉がどの程度のものを指すのかわからないが、ここは素直に彼の好意に甘えるしかないようだ。他にアシェルにはどうすることもできない。
 いや、本当は一つだけ、アシェルもジェットに報いることができる方法はある。これから先どうなろうとも、故郷の街の人たちから助けてもらった分だけでも、彼に礼を返す理由はあるだろう。
 アシェルが思いついたそれを提案する前に、ジェットが染め粉を見つめながら再び愚痴る。
「お前はウィスタリア人の振りをするからいいとして、問題は俺なんだよな。髪だけ染めても、どうにもならん……」
 眉間に皺を寄せたジェットの言葉に、アシェルも思わず彼の地図の上に目線を落とした。そういえば、世界に紫の瞳の民を持つ国は幸いアストラストだけでなくウィスタリア王国があるが、橙色の瞳の民はエヴェルシード人だけだ。おまけにジェットの武人然とした空気は目立つ。
「ええと…ローゼンティアの紅い瞳とかだったら、誤魔化せるんじゃないですか」
 瞳の色や髪の色は、その民族特有とは言っても個人差が強い。橙色なら赤と押し切れるのではないかと提案したアシェルの意見を、ジェットは当然のように却下した。
「無理に決まって……って、そうか、知らないのか」
「え?」
「シュルト大陸ローゼンティア王国、うちの国のお隣さんだがな、あそこは《吸血鬼》の国なんだよ。耳のちょんと尖ったヤツラの振りしたって、すぐにバレちまう」
「吸血鬼って……魔物?」
「いや、魔族だ。どう違うのかは、俺にもよくわからないが……シュルト大陸にはローゼンティアとセルヴォルファス、二種類の魔族の国がある。彼らのことだけ知っていれば他の魔物と戦うのは問題ないようだし、魔族も人種の一員として数えられてはいるが」
 ジェットの言葉を聞きながら、アシェルは地図に書かれたメモを覗き込んだ。ローゼンティア、白髪紅瞳。
 先日見た夢を思い出す。数年前の出来事を鮮やかに浮かび上がらせたあの夢。アシェルに謎の言葉をつき付けて来た美しい青年は確か、白銀の髪に紅い瞳をしていなかったか?
「それに、ローゼンティア人と言えば、今の皇帝も確かそうだったろう」
「皇帝?」
 この世界帝国を治める者の名を口にして、ジェットは銀色の染め粉を取り出した。そして、まだ鞄の中身を覗き込みながらぶつぶつと呟いている。
「そうか……逆に言えば単独行動をするなら俺は変装しない方が都合がいい場合も。それに追っ手の狙いは贄に集中するだろうから要はアシェルだけバレなければ……」
 どうするのが一番いいのか考えているようなジェットの言葉だが、やはり締めは前と同じような誰かへの愚痴で終わる。
「それにしてもあの女、こんなもんまで人の荷物に忍び込ませやがって」
 彼の手は何かを掴んでいるようだが、鞄の中に突っ込んだままのその手が何を掴んでいるのかはアシェルにはわからない。
 それよりも、とアシェルは変装の前に一言、これまで気になっていたことを尋ねた。
「ところでジェットさん、聞きたいんですけど」
「何だ?」
「あなたはどうして僕が贄だとわかったんですか? 僕は両親の他に誰にも言ってませんし、二人もそんなこと他人に言ってはないはずなんですけど」
 ジェットがアシェル個人を見つけ出したのはあのミルゼアルゼ中央広場での騒動がきっかけだが、本来エヴェルシード人である彼がまずアストラスト王国までやってきていたということが問題だ。贄を探すためにあてずっぽうに旅をするというのはあまりにも非効率で、となると、初めからアシェルのことを知っていたとしか思えない。だが贄の情報は、紅雨が降り出してすぐの初期の段階では、本人が誰かにそれを告げるなどよっぽどのことがない限り広まりはしないはず。
「ああ、それは俺の知り合いの黒の末裔の女占い師がな……」
 ジェットはここまでやって来た経緯をアシェルに説明した。その話を聞いて、アシェルが眉を曇らせる。
「占い師……そんなところからも、僕の存在は知られてしまうんですね……」
「あ、いや。あいつは性格の割に優秀な占い師で、魔術の実力者揃いの黒の末裔の中でも一、二を争う腕前らしいから……贄の情報はなんでも魔術師にはそう簡単に辿れないらしいぜ」
「何故です?」
「え? そりゃあ……何故だろうな」
 これまで当然のようにそうだと思っていたことに疑問を差し挟まれて、ジェットも訝しげな顔になる。
 アシェルはふと思った。
 紅雨とは何なのだろう。何故、人々の生を脅かす血の雨は二十年ごとに降るのだろう。何故それを止めるには、贄の存在が必要なのだろう。何故烙印は前触れもなく贄の身体に現れるのだろう。これまでも幾度か感じたその疑問に、今、何故贄の存在は魔術師でも余程の能力がなければ辿れないものであるのか、が加わった。
 あれは、何なのだろう。あの紅い雨は……。
「アシェル」
 少年を思考から呼び覚ますように、ジェットの声が呼んだ。
「自称だから微妙とはいえ、あの女は確かにシュルトのエヴェルシードからアストラストにいるお前のことがわかるくらい強い術者だったんだ。それを凌ぐ魔術師なんてそうはいないさ。だから、それに関する問題はないと思う」
「でも……僕はどうせ、ミルゼアルゼの街の人たちには顔を知られていますよ?」
「ああ。だがお前と俺のつながりはまだ確実に示されたわけではないし、お前の事だって逆に言えばその街のヤツラしか知らないわけだろう? むしろ街のヤツラにとっては、お前は紅い髪に紫の瞳の、十三歳の独り身の少年アシェル、なんだ」
「独り身と言われると何か違うものを連想しますけど……まあ、そうですね」
「ああ。だがな、客観的にお前を見ていると……実に言いにくいことだが、俺はあることに気づいてしまった。それに、お前のことを知るのがその街のヤツラだけなら、それを逆手にとらない方法はないと思ってな」
 ジェットの言葉はやけに遠回しだ。視線もちょっと泳いでいる。一体何が言いたいのだろう?
「どうしたんですか? ジェットさん。僕は何でも大丈夫ですから、何か気づいたことがあるなら遠慮なく仰ってください」
 アシェルのその言葉に意を決し、前置き付でジェットは口を開いた。
「これは俺じゃなくてその、例の女占い師が入れたものなんだがな、気を悪くしないでくれ」
 先程から片手を突っ込みっぱなしだった鞄の中からようやく抜く。そこには見事な銀髪の鬘が握られている、長髪の。そして更に、どう見ても女物の可愛らしい衣装もジェットの手には握られていた。
「アシェル――お前、女の子になる気はないか?」
 あらかじめ彼にそんなものを持たせた女占い師は一体どんな人だったのだろうと、自他共に認める女顔の少年、アシェルは少しだけ気になった。

 ◆◆◆◆◆

 そしてこうなる。
「じゃあ僕……私の偽名はルシェアということで」
「な、なんで慣れてるんだ?」
 旅支度をとっとと纏め、アシェルはジェットに連れられて安宿を出た。
 ジェットはアシェルをこの宿に連れる時、顔を見られないよう相当気を使ったらしく、宿の主人は異邦人の旅人二人連れに対し特に気を配ってもいない。
 今のアシェルはジェットの取り出した女物の衣装を纏い、銀髪の、背中まで長さのある鬘をつけている。その上から念のためにと顔を隠せる薄い日除け布を不自然でない程度に被り、他にもジェットの知り合いの女占い師が仕込んでくれたという装身具などを身につけて、見た目は完璧に女の子にしか見えない。
 一通り着替え終わった後の、ジェットの表情がアシェルには忘れられない。顎を外さんばかりの勢いで驚いた彼は、実に気まずげに目をそらした。あまりにもはまりすぎて、逆にいたたまれない気分になった……らしい。
 何はともあれ、女装計画は順調である。順調すぎるくらいに順調で、疑われる様子は微塵もない。ミルゼアルゼの街の出来事はまだ伝わっていないのか、贄に対する正確な情報も、国境付近の街では聞く事はなかった。
 二人はそのままアストラストから距離をとろうと、国境を越えて隣国フィルメリアへと入った。
 黄緑色の髪に榛色の瞳をした民の国は、アストラストともまた様子が違う。商業が活性化しているために人通りの多い街並みは、今のアシェルたちにとっては救いだ。
「バロック大陸には税関や検問がほとんどないんだな。助かったぜ」
「シュルト大陸にはそんなものが頻繁にあるの?」
「ああ。と言っても、一番出入国が厳しいのはうちの国ぐらいだろうがな。エヴェルシードは軍事国家で相当他国に恨みを買っているから、うっかり国に入れた旅人がいつ王様の首を狙ってもおかしくないんだ」
「そう……ですか……」
 そんな話をしながら、彼らはフィルメリア国内を進む。
 できるだけ西へ、西へと進んでいた。アシェルのもといたアストラスト王国は大陸の東部に位置するし、紅雨の被害はその更に東、大陸最東端の国ラウザンシスカから始まっている。旅の進路はどうしても西をとらざるをえない。
 こうしてアシェルたちが歩いている間にも、贄を追うように広がるという紅雨の被害は東方の国々に広がっているのかもしれないが。
「できるなら、この後カウナードからシュルト大陸に渡った方がいいか。そこなら完全にお前の知り合いはいないし、逆にエヴェルシードの近くに戻れば俺も目立たない。これでどうだ? ア……ルシェア」
「ええと、ぼ……私は」
 これからのことについて提案する、ジェットの言葉にアシェルが答えようとしたその時だった。
「おい、危ないぞ!」
 誰かが上を見上げながら叫んだ。その指の先をアシェルは見て知る。
 建物の二階の窓際から、植木鉢が落ちようとしていた。しかもそのすぐ下に人影が見える。小さな子どもが落下線上にいる。
 考える間もなく、アシェルの足は動いていた。駆け寄ってまだ言葉もろくに話せないような子どもに飛びつき、その頭を抱え込む。
 ガシャン、と一拍遅れてアシェルのすぐ横の地面に陶器が落ちて割れる音がした。
 周り中から安堵の吐息が漏れる。アシェルも危機が去ったことを知ってそろそろと子どもを抱きかかえる腕の力を緩めた。ふと二階を見上げると、窓際で植木鉢を落としたらしき人物が蒼白になっていた。後の事はその人に任せよう。
母親らしき女性がやってきてアシェルの腕から子どもをひったくる。すぐに自分の振る舞いに気づくとアシェルにぺこりと頭を下げて、今度はしっかりと赤ん坊を抱いて去っていった。
「親切なお嬢さん、ありがとう」
 そう言われたところを見ると、女装の方も絶好調のようだ。
 周りでその光景を一部始終見守っていた人々も、何事もなく終わったその様子に安心して彼らの日常を再開し始める。こんなことはよくあることなのだろう。誰も他に気にした様子はない。
 しかし、そうはいかない人物が一人だけいた。
「おい……アシェルお前」
「ルシェアです。どうかしたんですか? ジェットさん……ちょっと、」
 いつの間にか仏頂面をしていたジェットは、アシェルの腕を掴むとそのまま路地裏に引きずり込んだ。人気のない場所まで行くと、くるりと背後のアシェルを振り返る。更に周辺を確認してこの辺りをねぐらにしている者たちがいないかを確かめてから、彼は盛大に怒鳴った。
「何やってんだよ! お前は!」
「え? へ? ええ?」
 何故怒られたのかよくわからない。アシェルがぽかんと口を開けると、ジェットは結局変えなかった蒼い髪に乱暴に手を突っ込むと、がりがりと頭を掻いた。
「あー! ったく、お前今自分がどれだけ大変な状況にいるのかわかってるのかよ!」
「ご、ごめんなさい」
 言われてようやくアシェルもジェットの怒りように気づいた。いつもはもう少し落ち着いた喋り方をするジェットがこんな風に怒るのだ。よっぽどのことをしたのだろう。
「いいか。俺たちは追われてるんだ。誰かの記憶になんか残っちゃいけないんだ。だから、人助けなんてしてる場合じゃない」
「そりゃ、僕だって物凄く派手なことはしませんよ。でも、いいじゃないですかあれくらい。誰も僕のことなんか気に留めませんよ」
「そういうことじゃないんだよ。大体、お前忘れたのか? 自分の街で、自分がどんな目に遭わされたかを」
 ジェットの指摘に、アシェルのこれは変わらない紫の瞳がゆっくりと瞠(みは)られた。
 あの時アシェルが贄だと人々に知られてしまったのは、もとを正せば街に突っ込んできた貴族の馬車に轢かれかけていた子どもを助けたからだった。
 今回はあの時ほど派手でも無茶でもなかったが、それでも人助けなどすれば同じように、下手をすれば人々の記憶に残ってしまうことには変わりない。その辺りを指摘するジェットに、けれどアシェルは素直に頷きはしなかった。
「とにかく、これからはああいうのはいちいち関わらずに」
「嫌です」
「お前……」
「嫌です。……というか、多分、無理です」
「無理?」
「自分の身が大事だから見捨てろ。仰りたい事はわかります。だって僕の身の安全は、ジェットさんにも影響しますから。……あなたにはこの道中のお金も借りていますし、アストラストで助けてもらった恩もあります。だから、そのことを持ち出されれば僕はあなたに反対はできません」
 けれど。
「それでも、僕は僕の意志を貫くために生きたいんです。僕は確かにこういう立場ですけれど、でも、自分のために誰かが犠牲になるのを喜んでいるわけではありません。目の前で本来救えるはずの人が死ぬのを見るのも、嫌です」
「だがお前が生きていればどうせこの辺りのヤツラは死、」
 無神経な発言をしかけたことに気づき、ジェットは慌てて口を噤んだ。しかしアシェルは正確に彼の言わんとしたことを汲み取ったようだ。紫の瞳に翳りが落ち、ジェットの言いかけた台詞を肯定する。
「そうです……ジェットさんの仰りたい通り、僕が生きていれば、どうせ世界の多くの人は紅雨に降られて死にます。今助けた子どもだって、死ぬのかもしれない。アストラストの方だって。僕の顔見知りだったみんなだってもう、死んでしまったかもしれない……僕のせいで」
 誰かを思い出しているのか、俯いたアシェルの表情は日の射さない路地裏にいるというだけでなく、暗い。
「言い訳はしません。あなたが仰りたいのはこうでしょう。『偽善』はやめろ、と。その通りです。多くの人を殺す自分を知っていながら、僕はそのために名乗り出るようなこともしない」
「いや、お前にその道を選ばせたのは俺」
「選んだのは僕です」
 ジェットの言葉を遮り、アシェルははっきりと言い切った。これは自分の責任だと。それを誰かに押し付けることはしないと。
 そしてその上で、彼は先ほど馬車から子どもを助ける直前、提案しかけたことを改めて切り出した。
「頼みがあるんです。ジェットさん」
「頼み?」
「はい。僕を、皇帝領に連れて行ってください」
「皇帝領……って、お前ッ!?」
 続いたアシェルの言葉に、ジェットは度肝を抜かれた。皇帝領、薔薇大陸。この世界の理から外れたその土地は名の通りに薔薇の形をしている。そして名の通り、皇帝の土地でもある。
 世界皇帝。
 それは、神にも等しい存在だ。
 この世界のそれぞれの地区に王国を名乗らせてはいるものの、結局はその王たち全てを束ねる存在が皇帝。その選出は世襲制でも、選挙で選ばれるわけでもない。
 皇帝を選ぶ基準はただ一つ。選定者と呼ばれるその身に紋章を宿した者が皇帝を指名するのみ。そして選定者と皇帝を選ぶのは、神の御技だと言われている。その神に選ばれし皇帝自身が、世界にとって神にも等しい。
 全ての権力と全ての能力に通じ、超然たる力を持った王の中の王。最高の知性、最高の武力、そして彼は世界を裁く。
 その力は全知全能であり、まさしく神に匹敵するという。
「皇帝に会って、何をする気なんだ? まさかたらし込んで、贄だというのを匿ってもらうとか言うんじゃないだろうな!?」
「いいえ」
「じゃあ何だ?! 紅雨関係なんだろ? 指名手配をさせないようにするのか? 顔でも変えてもらう気か? それとも死人に生き返ってほしいのか?」
「全部違います」
 アシェルの突拍子もない言動に、ジェットは先程から驚きっぱなしだ。少しでも息苦しいこの状況を何とかするため、彼の真意を確かめんと矢継ぎ早にぶつけた問で、逆に逃げられない深みにはまっているような気がする。
 そして、儚げな容姿に反して、実は呆れるくらい強かな少年はその『望み』を口にした。
「僕の願いは、《紅雨》がこの世界を永遠に侵さぬよう消してもらうことです」
 一瞬、ジェットにはその言葉の意味がつかめなかった。
 じわじわと脳裏に染み込んできたそれに、彼は切れ長の目を思い切り見開いた。
「考えたことはありませんでしたか? あの雨は何なんだろう。どうして、降るんだろう。どうして贄などという存在を、必要とするんだろう?」
 言葉も出ないジェットの様子に構わず、アシェルは続ける。
「皇帝陛下に会えば……もしかしたら、あの呪われた雨を何とかしてくださるかもしれません。紅雨が消えれば、贄も、他の人々も死ななくて済む。だから」
「皇帝にまつわる噂を聞いたことがあるのか?」
 それまで散々アシェルの言葉に翻弄されるばかりだったジェットが、ここぞとばかりに反撃してきた。
「知りません。ただ、全能の力を持つ世界の支配者だとしか」
「虐殺皇帝。第三十三代皇帝陛下は、小さな理由で国一つ滅ぼすことも厭わないお方として有名だ。ここ最近で一番酷かったのは十五年前」
「僕はまだ生まれていませんね」
「ああ。だが俺は知っている。やめておけ。あの皇帝に関わるのは」
 ジェットだとて直接その姿を見たわけでは勿論ないが、この世界の支配者であるその人物に関する噂は聞いた事がある。なまじ現皇帝はエヴェルシードの隣国ローゼンティアの出身であるため、他の国の人間よりよほど情報を持っていると言えるかもしれない。
 その噂から判断するには、皇帝はアシェルの望みを聞いてくれるような人物とは思えない。
「でも、それがたぶん、一番良い方法なんです」
「アシェル」
「僕が探したかった答はこれです。みんなを救える方法はないのか。もちろん僕が皇帝領に辿り着くまでにだって、死者は出ます。紅雨は止まらない。だけど、止める努力をしなくていいんですか?」
「アシェル……」
「僕には、贄を殺して世界の安寧を図る今のこの世界のやり方が正しいものだとは、どうしても思えません。でも、贄が生き延びるためにたくさんの人の死をただ見過ごすのも……自分で自分を赦せません」
「だけど、そうしたらお前は」
「『世界を救うために、たった一人を犠牲にしてそれでめでたしめでたしなんて、そんなもの本当の正義じゃない』」
「!?」
 初めて出会った時の彼自身の台詞を持ち出されて、再びジェットは言葉を失う。
 
 ――本当に『正しい』こととは何だ?

 そしてアシェルの中にも、甦る言葉があった。
「贄として死にたくない。でも他の人も殺したくない。だったらもう、あの雨を止めるしかないじゃないですか」
「アシェル……」
 今までとは違う気持ちで、ジェットは自分の半分もまだ生きてはいない少年を見つめた。
「いいのか、それで」
 目的地を決めて旅をする事は、ただ隠れ潜むより見つかる危険が大きくなる。
 それに、人を殺したくないと言いながら、アシェルの選ぶ道は。
「お前の友人や知り合いだって、お前がそうして皇帝領を目指す間に死ぬかも知れないんだ。そいつらを殺して、悪魔と罵られる覚悟はあるのか?」
 例えアシェルの方にもう紅雨による被害を出したくないから生きて皇帝領に行くのだという気持ちがあっても、世間がそれを理解するとは限らない。むしろ、生き延びるために都合の良い言い訳をしているだけだと思われるのが関の山だろう。
「いいのか?」
 問いかけながら、ジェットの脳裏に何かが掠めた。私は卑怯なの。そう言って笑った女に関する、何かがわかりかけた。
「はい」
 それを掴む前に、与えられた答は力強くジェットの些細な戸惑いなど吹き飛ばす。吐き出された壮絶な台詞に、言葉にできない哀しみを抱こうとも。
「僕を連れて行ってくれますか? 薔薇の皇帝がおわす土地、皇帝領に」
 この世界を変えるため。