薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 01

6.少年たちの使命

 いざこの瞬間を迎えるとなると、思い出すのは楽しい記憶ばかりだった。
 部屋の窓から空を眺めながら、少女は過去へと思いを馳せる。一つ年下の幼馴染と一緒に、街から少し離れた森の中を駆け回ったこと、畑仕事で運んでいた野菜を零して二人して叱られたこと、うんと幼い頃、父母に隠れて街の市を見に行って旅芸人の話に耳を傾けたことなどが、鮮やかに浮かび上がっては消える。
 開け放した窓からは湿った風が入り込んでくる。二つに結んだ彼女の紅い髪を揺らし、風は訪れては去っていく。
 街の様子はいつもと変わりない。みな、まだその異変には気づいてはいない様子だった。降り注ぐ陽光の優しさは変わらないのだ。これで不穏を感じ取れという方が無理だろう。彼女がそれに気づいたのは、たまたま空を眺めていたからだった。
 夕刻でもないのに、街の空は紅く染まっている。ようやくちらほらと、地上でも気づく人々が現れ始める。皆一様に天を仰いで指をさし、金切り声で叫んでいた。
 これは報いなのだ。
 少女はそう思った。自らの心に言い聞かせた彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
 何もせず、何も出来ずにここまで来てしまった。赤黒い影を帯びた灰色と言う不気味な雲が広がって、天上を覆い隠す。陽光を奪われて、混乱は最絶頂に達した。
 雨が降り始める。
 紅い雨、血の雨。その雨に打たれた瞬間、地上の人々が絶叫を上げる。建物の中に入っても、どうせ一時的な避難にしかならない。わかっているから少女は動かなかった。
 これは人の愚かさに対する、呪いの雨だ。
 それは大いなる絶望と苦痛を伴って人々に死を与えるものだという。だから忌まわしいと恐れられる。それを人々に与える贄も、忌み嫌われる。
 けれど、彼らに死を与えるものは誰だ。
 サァアアアアア。
 聞きなれた雨音、血の雨は普通の水より重たいのか、多少音も違うように聞こえるが、定かではない。紅い雫が降るたびに、地上で人々が絶叫し、そして止む。彼らの命ごと滅ぼし尽くして。
外の仕事に出ていた母や父も、もはや無事ではないだろう。そしてこの部屋も紅い毒に侵されるのは、もはや時間の問題だった。
 窓から入り込む雨を、静かな面持ちで眺めながら少女は唇だけで呟いた。
 終わることのない、懺悔を。
 あの街での暴動以来、厳しい宿命を背負った友人の行方は杳として知れない。けれど贄を庇う人間など、面識のない異邦人の男がそんなことをするなど街の人々も思ってもいなかったから、彼はきっとあの蒼い髪の男にあの後殺されたのだろうという結論に落ち着いていた。
 けれど、この雨がある。止まない死の雨は、逆に言えば彼の生存を証明した。幾億の死と嘆きと悲哀と絶望の中、少女はそのたった一つの希望に縋る。
 霧状となって街を覆いつくす紅い雨に包まれる中、スーの表情は事切れる間際、不思議と安らかに微笑んだ。声無き声が、遠い友人に向けて囁く。
 さようなら、アシェル。

 ◆◆◆◆◆

 それはまさに惨状と呼ぶに相応しい光景だった。
「酷い……」
 目の前に広がる地獄に対し、カナンの唇から零れたのはそれ以上はないほど簡潔な感想。けれどこの言葉以外の何がこの光景に当てはまろうか。
 一面が真っ赤だった。真っ赤な血の海だった。
 死体はまだ放置されていた。さすがに規模が大きすぎて滅びた街の後処理に割く人手がアストラスト王国にもないことと、紅雨が降った後の深紅の大地は、また新たなる災いを呼ぶとして忌まれていることが理由だった。
 一度紅の雨が降った大地は、二度と被害に遭わない。カナンはそう伝え聞かされている。だからこそ、雨がすでに降り終わった土地を忌避する紅雨の経験者たる大人たちの言う事が理解できなかった。被害をこれ以上拡大しないために、使えるものは何でも使えばいいじゃないか。そう思っていたのだが、実際にこの光景を見てしまえばそんなことを言う気にはなれない。
「酷い……」
 彼は繰り返した。それ以外の言葉が思いつかない。
 紅雨に降られた土地を利用しないことには、災いを避けるためにその場所に人口が集中しすぎるとあらゆる二次災害、三次災害が引き起こされるというもっともな理由もある。しかしそれを差し引いても、この土地を紅雨の影響が完全に引く数年後まで利用できないと言う意味が今のカナンにはよくわかる。
 一面が赤い、紅い、血の海。建物は赤に塗りつくされ、それ自体が血を流したようになっている。この雨に降られた土地は、それが畑や田園ならば作物の育たない不毛の大地となる。紅雨の影響が引き始めるのがようやく五年、六年を過ぎてから。同じ土地に留まり続けるとすれば、民が収穫を得られず餓死するのに充分な年月だ。
 打ち捨てられた亡骸からは腐臭が漂う。蝿も蛭も紅雨に降られた死体にはたからないが、そうして自然から排斥された姿であるからこそ、一層この雨はおぞましい。
 原型もわからないほどに溶け崩れた死体たち。これでは親族が見ても、もとが誰だかわからないだろう。
 そしてそれで困ることは残念なことに、ほとんどなかった。紅雨に降られた街は、一人の例外の生き残りも出さずに全滅する。その街に住んでいることがわかれば、絶望的なほどに絶対的に、自らの知人も死んだことがわかるのだ。
「止めなければ……こんな酷い、殺戮を」
 誰がこの状況を生み出しているのだろう。
「これも、贄のせいなのか……」
 いつもは強気なソルトもフィーアも、今日ばかりは魂が抜けたように呆然と紅雨に襲われた街の廃墟を見つめている。
「贄に選ばれる事は、その本人のせいじゃないわ……でも、贄が死を拒むことで、これだけの被害が出るというのなら……」
 目の淵を紅く滲ませた、フィーアが口元を覆う。吐き気を堪えて、慌てて街の外へと走った。
 ヴァンスにいつか言われた通り、カナンたちは旅の途中、紅雨の被害を自身の眼で確認するためにすでに紅雨の被害にあったという村に立ち寄っていた。ラウザンシスカ国内の小さな村はそのルートから外れていたが、このアストラスト王国の街の一つは、贄が最初に現れた場所だと言う噂もあった。紅雨の被害から離れた土地へ向かいたいと思う心境は、贄であっても同じだ。だからこそ顔も名前も知らぬ贄の足跡を辿って、ここまで来たのだ。だが。
 入り口から少し中へ足を踏み入れただけで三人ともこれだ。血の雨の威力は、確かにこの目で見た。
 この街で暮らしていた人々の多くは、何の罪もない清く正しくその日の生を紡いでいた者たちだろう。その未来が、一瞬にして奪い取られたのだ。赤子も老人も男も女も聖者も罪人もない。紅い雨はただ無慈悲に、人々から命を刈り取っていく。
 たくさんの命と、未来が奪われたのだ。
 たくさんの哀しみがこの世に生み出されたのだ。紅雨のせいで。
 この雨から逃げた、贄のせいで。
 その贄は、見知らぬたくさんの人々の命より、自らの命を優先した。確かにただ一人世界のために死んでいく宿命には同情に値するかもしれない。だが、たった一人を生かすために世界を滅ぼすなど、そんなことが許(ゆる)されるのか?
 赦(ゆる)されるのか?
「許せない……」
 ラウザンシスカの勇者、カナンは拳をきつく握り締めた。怒りのこめられた両手は力を入れすぎるあまりに白くなっている。
「紅雨の贄、ノクタンビュールの刻印を持つ者、俺は、お前を赦さない」

 ◆◆◆◆◆

「どうやら、少しは私の言った事がお分かりいただけたようですな」
 戻って来たカナンたちの表情が硬いことから、ラウザンシスカ国軍将軍ヴァンスは、大方の事情を察したようだった。
「これですから、贄の存在など、赦してはおけません。ヤツラの命は、一刻も早く刈り取るべきなのです」
 普段はそりの合わない男の言葉だが、今は同意せざるを得なかった。あの光景を見てしまった後のカナンたちでは、さすがに贄に同情を示すこともなければ、ヴァンスの言葉に反発する元気もない。
 先ほどの滅びた街の、廃墟の一つで見た光景が三人の眼に焼きついている。
 ソルトは剣の手入れをすると言って、一足先に部屋に戻った。繊細なフィーアはもっと素直に、気分が悪いからと口にして閉じこもってしまった。二人とも明らかに、顔色が悪かった。
国軍を預かり、まさか戦争並みに進軍するわけにもいかないのでもちろん全兵士を連れて来たわけではないが、数百人の兵士を十数人の小隊にして幾つも預かるヴァンスと基本的に三人で活動するカナンたちでは行動の自由度が違う。滅びた街の視察にはカナンとフィーア、ソルトの三人だけで向かったのだが、戻って来た三人の様子があまりにも沈み込んだものだったので、流石のヴァンスも心配になってきた。彼は一途すぎるあまりに差別意識や偏見が強いが、何も心を持たない冷血漢というわけではないのだ。
「大丈夫か? 勇者殿。あなた方は今日は、早く休んだ方がいい」
 アストラストのある街で騒動が起こり、その後当の街が紅雨の被害にあったとの報告を受けて、贄の足取りを追う行軍の途中、仮宿へと戻って来た三人を見たヴァンスの第一声はそんなものだったのだ。
 ありがたく従ったフィーアとソルトはこの場にはいないが、カナンはまだヴァンスの前に残っていた。
「もう少し……教えて、ください。ヴァンス将軍。贄とは……一体何なのです?」
 震える拳を握り締めたこの金髪の少年が一番顔色が悪い。わかっていながら、ヴァンスは彼の言葉を振り払えなかった。これから先何があるかわからないのだから早く休めと彼にも促すべきなのであろうが、必死で真実を掴み取ろうとする少年からその選択を奪うべきではない。
 ヴァンスはヴァンスの立場から、自らが知ることの全てをカナンへと伝えるだけだ。それが彼より数十年早く生まれた者の役目だった。
 ヴァンスはカナンを自室に招き、項垂れて応接椅子に座った彼の前に温かい湯気を立てるお茶を差し出した。顔を上げた彼に微笑みかける。
「意外ですかな? 私が茶を飲むなどと」
「え? いえ、そういうわけでは」
「毎晩自棄酒に明け暮れているとでも思われていましたか?」
「え! 決してそんなことは……!」
「正直な方だ」
 謹厳実直でありながら差別意識も偏見も強い。自らの鍛錬も欠かさないが部下に対する態度も他に比べる相手のいないほど厳しい将軍、ヴァンス。しかし、今カナンの様子に困った子どもを見るように苦笑する様子は、少し意外なほど人間らしい。
 彼の容貌は典型的なラウザンシスカ人であり、いかにも武骨な軍人と言った様子だ。真面目すぎるその態度のせいで、いつも怒っているような印象を持ってしまう事は否めない。
 それでもこの場で一対一で向かい合ってみた彼の、思っていたのとは違うその様子に、カナンは胸中で首を傾げた。勇者と呼ばれ、城下を荒らすひったくりを捕らえるような小さいものから中には獰猛な魔物退治を含めてラウザンシスカでは様々な功績を挙げたとはいえ、まだ十六歳のカナンにとって、五十歳の将軍は父親、あるいは祖父も同然の歳だ。ヴァンス本人の厳しい態度も相まってつい目の前に出ると萎縮してしまいがちになるが、彼は悪い人間ではないのだ。
 そう、悪い人間ではない。
 だが彼は、黒の末裔フィーアや傭兵ソルトに向ける以上の憎しみを、何の理由もなく世界に選ばれ死すべき運命を押し付けられた贄に対して持っている。
 それは、何故なのか。
「私が知っている贄に対する印象は、主に二十年前と四十年前、その二つの時期によって作られた」
「将軍が、実際に体験した紅雨の年ですね……?」
「そうだ。四十年前は私も流石に君より小さな子どもだったが、いつ終わるとも知れない紅雨の長さにいつ自分も死ぬものかとびくびくしていたよ。だから、私はたぶん単純に名乗り出ない贄は嫌いなのだと思う」
 彼にしては子どもっぽい事を言って、ヴァンスは四十年前、長い間逃亡を続けて多くの被害を出したという贄については簡潔に話を終えた。そして、とこちらが本題だと言うように、続いて二十年前の話を。
「二十年前の贄は、若く美しい女だったよ。若いと言っても、今の君より年上だがね。エヴェルシード人だった。彼女は一つ目の被害が出てすぐに、紅雨の贄だと自ら名乗り出た。聞いているな?」
「はい。その歳の被害は、歴史上類を見ないほど少なかったのだと」
 老人たちの昔話では、四十年前の贄と二十年前の贄はよく比較して語られる。四十年前に比べれば、二十年前の贄は実によくできた人物だった、と。
 しかし、とヴァンスは言った。
「私は、そうは思わない」
 贄嫌い異端者嫌いの将軍としてはありえそうな意見だが、これまでの態度からすると少々意外なその言葉に、カナンは軽く目を瞠った。
「二十年前、紅雨の被害が一番初めに出た場所を知っているか?」
「はい。確か……その時もラウザンシスカだったのだと」
 贄自身はエヴェルシード人で、その贄を追うように降り注ぐといわれる紅雨だが実際は大陸違いのラウザンシスカに降った。何故そうなったのかと不思議がるカナンに、ヴァンスは推測を交えて語る。
「ラウザンシスカは知っての通りバロック大陸最東端の国で、エヴェルシードもシュルト東部の、しかも港を持ちこちらの大陸との貿易の窓口となっている国だ。交易を行う国同士、ラウザンシスカとは親交もある。人の出入りも激しい。それに、紅雨は贄を狙うように降るが、何も即座に贄本人に降り注ぐと言うわけではない。今回はラウザンシスカとアストラストで近かったがな。その理由は私も知らないが……何故かあの雨は、贄を追い詰めるように降るからな」
 紅雨について、さしたる研究はされていない。二十年周期で降るために情報をとりにくいことと、まずその被害を防ぐ事が第一として、贄探しに重点が置かれてしまうこととに関係がある。いくら調べようにもそのために大量の被害を出すわけにはいかないので、結局いつも全てが終わった後、紅く血塗られた街並みを見てはその威力の凄まじさを知るばかりだと言う。
 ヴァンスは先を続けた。
「二十年前の被害者の中に、私の娘も含まれている」
 カナンはハッと息を飲んだ。語るヴァンスの口調は真剣で、その瞳には悲痛な光が宿っていた。
「私と妻は無事だったのだがな……娘はその日、折悪くも、近隣の村の叔母のもとへと出かけていたんだ。収穫祭が近くてな。叔母に裁縫を習いに行っていたらしい。私はそんなところに行かせた妻を詰(なじ)った。裁縫など家で教えれば良かったじゃないかと。妻に私も叩かれたよ。仕事仕事で他人を護るなどと宣言して、自分の娘一人護れないなどと」
 カナンは言葉を紡ぐ事ができなかった。
 ヴァンスの贄に対する憎悪は、彼が実際にその被害を体験した者だったからなのだ。
 それはまだ十六年しか生きておらず、実際にその哀しみを味わったことのないカナンに気安く慰めが口にできるような問題ではない。
 覚めかけたティーカップを両手で包み、水面に映る自らの情けない顔を見下ろしながらカナンは反応に困っていた。紅茶の鏡に、自らの容貌が映っている。その中で一際鮮やかな、金色の瞳。
 これのおかげで勇者として見出され、けれどそれまで、胸をえぐるような哀しみをも経験した。生まれるはずのない金色の瞳の子どもを前に、いつも言い争っていた両親。その二人の間で、縮こまっていた自分。そんな風に人の顔色を窺った過去があるからこそ、カナンには容易く人の支えとなる言葉を吐けない。相手が欲する言葉は、必ずしも自分が欲している言葉とは一致しないのだと知っているから。
 特にそれが、家族の問題ともなればよりいっそう複雑であるとも。
「二十年前の贄は確かに素早く名乗り出たかもしれない。けれど、私はこう思うんだ。娘を、返してくれ。彼らは自らの身体に痣が浮き出た瞬間に自らが贄だとわかるのだろう。名乗り出る暇があったのなら、何故さっさと手首でも切ってくれなかったのだ。そうすれば、私の娘は死なずに済んだのに」
「それは……」
「八つ当たりかい? わかっているさ。彼らだって好きで贄として生まれてくるわけではない。好きで刻印を頂くわけではない。だが、勇者殿、君は考えたことはないか?」
 言葉を一度区切り、ヴァンスは確かな信念のもとにそれを口にした。
「たった一人のために、世界を犠牲にしても本当に赦されるものなのか?」
「……」
「誰だってそりゃあ死にたくないだろう。死ぬのは嫌だろう。だが、自分が死にたくないからと言って、人が死ぬことを見過ごしていいのか?」
 国のために無力な民のために命を懸けて剣を振るってきた将軍の言葉に、カナンは軽い気持ちで言葉を返すことが出来ない。
「だから私は、贄という存在を絶対に赦さない。少なくとも、ただひっそりと自分で死ぬこともできたはずの二十年前の贄が、わざわざ世界に名乗り出たという行為に対して信用できない。死と引き換えに、聖者の名誉でも欲しかったのではないかと、私は思ったよ。そんなことのために私の娘は死んだのかと」
 ヴァンスの言葉は推測でしかない。それが正しいと、本人がすでにいない今、誰が証明できるわけでもない。だが、それならば謎が残るのだ。
 何故二十年前の贄は、わざわざ必要のない「名乗り」を世界に対して行ったのだろう。世間で言われている通り本当に彼女が人の死を嫌い自らの命を世界に捧げた聖者ならば、そんなものは必要なかったはずなのに。
「辛いだろうが、思い出してくれ勇者殿。君が今日見てきたアストラストの街の様子は、どんなものだった?」
 カナンはティーカップから顔を上げた。手を動かした拍子にガタン、とテーブルが揺れて中身が零れる。あっという間にテーブルを濡らした紅茶を拭こうとしてけれど動きを止め、彼は凍りついたまま、静かな怒りを押さえ込んだ口調でヴァンスに語り始めた。
「酷い、ものでした」
 ぽたぽたと、テーブルの上から紅茶が床へと零れる。贅沢するためにとった宿でもなし、将軍である彼の部屋にも絨毯など敷かれていないので王城の自室にいるときよりは小さな被害だろうが、それでも赤い液体が板の端から滴って床板に染みを作っていく。
「道の真中(まんなか)に、女の人らしき死体があって」
 早く拭かないといけないな。わかっている。だからせめて、これが落ちきって床に染みになる前のこの短い間だけ、この憎しみを語らせてくれ。
「彼女の身体の横に、もっと小さな塊があったんです。赤ん坊の、ような。でも、その子も死んでいて。だけど母親は全身でその子を庇う姿勢を見せていて、実際、子どもの上から退いた様子がなかったんです。子どもの方も死因は、どちらかと言えば、間接的に紅い雨が染み込んできた、ような感じで」
 母親は命を懸けて子どもを護ろうとした。
 けれどその努力は報われず、血の雨は無慈悲にも、親子の命を奪っていった。
「あんなことを、繰り返させるわけにはいきません。もし、ああいった事態を全てわかっていて、それでも贄が逃げているというのなら」
 理由もわからず世界に選ばれてしまった、ある意味犠牲者とも呼べる贄という存在に、カナンも僅かな同情はある。憐れだとも思っていた。
 しかしそれも、あの凄惨な被害を、この目で見るまでのことだった。
 所詮人は自分だけが可愛いのだ。
「俺は、贄という存在を憎みます。世界を救えるのはただ一人、その人だけなのに、何故そうしないのかと」
 カナンの言葉に、ヴァンスも強く頷いた。
「そうだ。私たち人間は誰しも聖人君子などではない。だから贄と呼ばれる者も、一方的にただ可哀想な聖者などではない」
 その心には打算がある、弱さがある、どんなに言葉で飾ったところで、卑劣で、卑怯な本音がある。聖者などどこにもいない。
「将軍、相談があるのですが」
「む?」
「俺たち三人、俺とフィーアとソルトを、少しだけ別行動にさせてください。斥候のような役目を、俺たちも率先して行いたいと思います。俺が勇者として国王陛下に与えられた権限を考えれば、そこであなたの指示を仰ぎに戻らずとも、贄を見つけて、そのまま戦闘にもつれ込めるようならすぐにでも戦うことができます」
 いちいち上の指示を仰がなければ肝心な行動に移れないと言う、ヴァンスの兵士のような柵(しがらみ)が、カナンたち三人にはない。ヴァンスはこれまであまり良い顔をしなかったが、フィーアもソルトもカナンにとっては大事な仲間で、立派な戦力だ。
 だからこそ、彼らがそのつもりで動いた方が、手柄云々という話になればこそヴァンスを立てることはできないかもしれないが、それでも一刻も早く贄を殺して紅雨の被害を止める事はできると。
 真摯な口調で頼み込む若き勇者に、将軍は怒り出すこともなく頷いた。
「ああ――頼む」
 その言葉を聞いて、カナンは自身もしっかりと頷いた。彼はようやく布を手に取り、床に零れた紅茶を拭き始める。
 零れた水は、二度ともとの器には還らない。