薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 02

薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 02

7.邂逅

 相変わらず銀の鬘を被り、少女の振りをしながらアシェルは街中を歩いていた。
 フィルメリアを抜け、今はその次の国、サジタリエンへと入っている。この国の民の特徴は橙色の髪に緑の瞳。銀髪に紫の瞳の少女姿のアシェルはどう見ても目立っているのだが、道を行く人々の彼を見る目つきに、警戒の色はない。
 贄に関する情報は、今年はどこの国も後手に回ってまだ掴めていないらしい。アシェルの住んでいたアストラスト王国ミルゼアルゼの街の人々から流れることも考えてはいたが、その様子も見られない。
 アシェルとジェットの行軍が当初の予定より早く順調だということも関係しているのだろう。武人であるジェットの体力、脚力が秀でているのは当然だが、アシェルも初めに期待された以上の足だった。十三歳の少年は細身だが運動神経は悪くないし、裕福な環境でもなかった彼は幼い頃から近所の店の下働きなどで働いていて、それなりに体力もあった。
ジェットが思っていた以上の頑張りで彼についてきたアシェルの様子に、二人は数瞬、このまま何事もなく皇帝領に行き着けるのではないかと夢を見たほどだ。
 しかしすぐに、自らその甘い考えを否定する。世の中順境ばかりがそう長くは続かないものだ。油断したところに逆風が吹き、そのまま地の果てまで飛ばされたのではたまらない。
 彼らは、紙一重のところで命を繋いでいるのだから。
「アシェル、今日は別行動といかないか?」
 だから本日、その申し出をジェットの方からされた時、アシェルは正直困惑した。今はまだ贄のことが知られていないとはいえ、戦闘能力皆無のアシェルが、この状況でジェットから離れる。うっかりすれば、死に直結しかねない。
「俺の知り合いがこの近くに来ていて、俺を見かけたらしくてな。話をしに行きたいんだが、お前を連れていてうっかり何か言われたら厄介だ。あいつはラウザンシスカ人だし、エヴェルシード人の俺とお前の二人連れの様子に不審を持たせないほうがいい。宿屋で待っていてくれてもいいんだが、今の状況なら、少しくらい外を見て回っても構わないだろう……妙なことさえしなけりゃな」
 ジェットはそう言って、自分より大分背の低いアシェルを見下ろした。
 彼の言葉には、先日フィルメリア国の街で子どもを助けたことが含まれている。人目につくような行動は慎んでくれ。アシェルはジェットに散々そう言われているが、一度も大人しく聞いたことがない。
 そのためか、アシェルとジェットの仲もここまで、アストラストを出てから二つめの国に入るほど続いているというのに、いっこうに気安くなる様子がない。
 もともと二人とも、極端に相手の神経を磨り減らすような人間ではない。だが、だからこそ一度本音を吐露した後は、逆に相手に近づける機会もないのだ。いつもそつのないやりとりをこなして終わる会話に、親しくなるきっかけがつかめない。
 アシェルもジェットも、それが良いことなのか悪いことなのか判断ができないというのも問題だ。
 贄であるアシェルの問題は、本来ジェットが頭を悩ませるようなことではない。しかし彼が先の贄である女性、リーシェンとの約束を守りたいというためにアシェルを護るというのも彼の身勝手な決心であり、アシェルには関係ない。
 ジェットはその気になれば、いつでもアシェルを見放せるのだ。それがわかっているからこそ、アシェルも殺されかけたところを救ってくれた彼に恩義を感じてはいるが、完全に信用しきることはできない。
 ジェットもなまじ贄に選ばれてしまった人間との付き合いはこれが初めてでないだけに、そんなアシェルの複雑な胸中が読める。だからこそ、気安く自分を信じろなどと彼に言えない。
 素直な感情、感謝と疑心、そして拭えない不信感と挫折の恐怖を抱えて、二人は下手をするとその場所から一歩も動けなくなってしまう。
「お前も……一度俺がいないところで、羽を伸ばせ」
 ジェットの申し出には、そう言った思惑もあった。彼とていくら知り合いと一人で会わねばならない用事があるとは言え、今現在アシェルを一人にすることがどれ程危険かわかっている。しかも、彼は大人しそうな見た目とは裏腹に、一度目を離すと何をするかわからない性格だ。
 信用をしていないわけではない。お互いに。
 でもだからこそ、完全に本音をぶつけられない。
「はぁ……」
 結局ジェットの忠告に従って、女装姿で街を歩くことになったアシェルは溜め息をついてしまう。
 四六時中ジェットと一緒の、息が詰まりそうな空間から解放されたのは正直ありがたい。けれど、これはこれで不安というか、ふとした瞬間に冷えた孤独が心に忍び込むような気がするのだ。
「悪い人じゃない、わかってる……僕はとても幸せ者だって」
 アシェルの身勝手な願い――皇帝領に連れていって欲しいというその願いを、ジェットは聞き入れてくれた。二人はバロック大陸西部セレナディウス王国からマーセルヴィナ諸島を繋ぐ大橋を通って、皇帝領へと入る道を目指している。
 自分は死にたくない。けれど、紅雨の被害に罪悪感を覚えていないわけでもない。偽善と呼ばれる無謀な行為を繰り返しながらのアシェルをジェットは護ってくれるという。
 けれど、合わないのだ。
 ジェットとアシェルの間には、まだ何か一つ、お互いを理解するのに必要な大切なピースが欠けている気がする。それが見つからない限り、例え表面上はどれほど穏やかに付き合いを続ける事はできても、本当の意味で相手を理解し、信用することができないのだ。
 ジェットは良い人だ。変わり者の贄と知り合いだったという、彼自身もまた変わり者だと。そう自己申告したとおり世間から見れば、贄を庇う彼の行為は狂気の沙汰だろう。だがアシェルにとって見ればその態度は、間違いなく公平で公正で正義だった。
 なのに、どこかが噛み合わない。
 それが、アシェルには少しだけ辛い。他者から奪い、死を押し付けるしかできない自分の無力さと身勝手さに吐き気がする。その言葉すらも、こうして行動を改めないことから建前だと自ら理解してしまうので尚更だ。
「はぁ……」
 二度目の嘆息は、一度目のものより更に深かった。悩ましげな吐息を漏らす銀髪の美少女の姿に、道行く人が何事かと振り返る。昼日中の街はそう柄の悪い男が大通りで堂々と悪さをできる状況でもなく、妙なちょっかいをかけられないことだけが救いなのだが、それすらもアシェルは気づかない。
 初めて訪れた国、サジタリエンの豊かな景色に目を奪われるだけの心の余裕もない。
 サジタリエンにもなると、すでにバロック大陸の西方地域に差し掛かる。この国を抜ければ最西端の国セレナディウスで、アシェルたちはそこから皇帝領へと渡る予定だ。
 皇帝のお膝元に近づくせいか、大陸の国々の暮らしは西に近づくほど豊かになる。一番東部の国の名も与えられない地域には黒の末裔と呼ばれる人々が住み、ラウザンシスカ、アストラスト、フィルメリア、サジタリエンという順番に人々の暮らしは豊かになっていく。出店の数がまず違う。道の幅も、建物の木の色が明るくて綺麗なのも。
 故郷のアストラストでは小さな子どもでもできる限りの仕事をしていたものだが、このサジタリエンではそんなこともないようだ。アシェルとそう変わらない年頃の子どもでさえ、昼日中から友達と手を繋いで走りまわっている。きっと彼らの遊び場へと向かうのだろう、微笑ましい様子はアシェルには二度と手に入れられないもので、彼は寂しげに微笑みながら、横を通り過ぎる少年たちを見送った。
 スー、どうしてるかな。
 街で一番仲が良かった友人のことを思い返し、アシェルはふと懐かしさに目の前が滲んだ。
 自分で選んで捨ててきたはずの故郷なのに、思い返すとこんなにも慕わしい。アシェルが贄と知れた瞬間、彼らが顔色を変えて襲い掛かってきたことも充分わかっている。だけど。
 一度道の端で立ち止まり、ぐい、とフリルのついた袖でアシェルは目元を拭った。
 女の子の格好をしている事は、ある意味救いだった。明らかな男が泣いているよりは言い訳がしやすいだろう。もっとも、普段から少女に間違えられやすいアシェルの容姿では変装前の姿でも大差なかったかも知れないが。
「あの……」
 そんなアシェルに、話しかけてくる者があった。
「大丈夫ですか? ……どこか具合でも、悪いんですか?」
 どうやら目に涙を浮かべて立ち止まったアシェルの様子に気づいて声をかけてくれたらしい。優しげな面差しの少年が目の前に立っている。
「いえ、あの……大丈夫です。ちょっと目にゴミが入っただけですので」
 ベタな言い訳を実践しながら、アシェルはついついその目の前の少年を観察してしまった。
 美形だ。
 造作はその一言に尽きる、十五、六歳ほどの少年。淡い金髪に、不思議な金色の瞳をしているが、どこの国の人だろう。細身の身体はけれど鍛えられていて、身体の横にさげられた、すらりとした筋肉のついた腕の先を追うと、腰に佩いた剣が見えた。
 まるで聖者かという容貌の少年だが、その様子を見るとどうやら剣士らしい。
「そうですか。今日は風が強いですからね。お気をつけて」
 アシェルの言い訳を疑うこともなく受け取ったのか、彼はそんな風に返してきた。
「あ、ありがとうござ――」
 礼を返そうとしたアシェルの声が途切れた。
「あれは……」
 耳は悪い方ではない。どこからか聞こえた女性の悲鳴を、その出所を、アシェルは正確にとらえていた。
「今、何か聞こえ……ちょっと待って!」
 金髪の少年剣士の方は、声にこそ気づいたものの、その発信源はわからないようだった。剣を扱う者や常に命の危険を警戒している者の差なのか、他の街人たちが異変を何ら察知することなく歩いている中、アシェルは大通りを外れ街の路地裏の人気のない方、人気のない方へと走っていった。
 走りながらジェットの、軽率な行動は控えろという警告が脳裏に蘇った。けれど一度気づいてしまったものを無視するわけにもいかない。
「誰か! 誰か助っ……!」
 アシェルの向かう先で、女性の悲鳴が聞こえた。途中で口を塞がれてしまったらしく、言葉が途切れる。
「やめろ!」
 角を一つ曲がると、ようやく目的の現場に辿り着く。暗く埃っぽい路地裏に数人がかりで地面に押さえつけられていた女性の姿を発見した。両の瞳に涙を溜め、頬を軽く腫らしてはいるが、衣服は無事だし他に大きな怪我もない。間一髪だったようだ。
ならず者らしい男の姿は二、三人。
「よう、なんだお嬢ちゃん。あんたも交じりたいのかい」
 不覚にも、そこでようやくアシェルは自分が彼らになんら対抗する手段を持っていないことに気づいた。
「そ……その人を放せ」
 一応言ってはみるものの、男たちに動じた様子はない。
 今のアシェルは、銀髪に紫の瞳の十四、五歳の少女にしか見えないのだ。もとの顔立ちだとて迫力とは縁遠いところにいるのに、女装しているなら尚更だ。本当に今更アシェルは気づいた。
 馬車に轢かれそうになった子どもを助けることはできる。長い距離を歩くこともできる。歳の割には体力があるとジェットにも褒められた。
 しかし運動神経や体力は、直接的に腕力や戦闘能力とは結びつかない。女性が自らの足で立った姿ならばまだ手を引いて人の多い場所まで逃げることもできるかもしれないが、彼女は男たちのうち二人に地面に押さえ込まれてしまっている。一人で彼らに突っ込んで言ってあの状態から彼女を救出するだけの力は、アシェルにはない。
 彼は本当に、ただの無力な少年なのだ。贄とは無関係なこんなところでだって、ジェットの助けがなければ簡単に命の危険に見舞われる。
「おい、そっちもなんか、すげぇ可愛い顔をしてんじゃないか」
「連れて来いよ。一緒に楽しもうぜ」
 逃出すわけにはいかないが、女性を助けることもできない。無力に打ちひしがれながらもどうすることもできないアシェルに、男の一人が近寄ってきた。痛いほどの力で腕をつかまれ、アシェルはふらりとよろめく。
 まずい。この状況はまずい。
 様々な意味でまず過ぎる。アシェルが男だと知られればややこしい話になるのはもちろん、変装のことも問題だ。銀髪の鬘は、突発的な雨、紅雨ではない普通の雨などで落ちる染め粉より都合が良いだろうと身につけているのだが、あんまり強く引かれればとれてしまう。それに手袋の下には、やはりノクタンビュールの烙印があるのだ。
 下町育ちであれば、こんな状況は珍しいとも思わない。だからと言って、珍しくもないからと見過ごせるわけでもない。しかし対処法が見つからないのも事実で、アシェルは一か八か、懐に入れてある細かな道具を探った。
 何か硬いものの一つででも、男たちの目を狙えば上手くいけば囲みを突破できないだろうか。向こうも刃物は持っていないようだし、狙う相手を間違えず、隙さえ作れればあの女性の手を引いて逃出すことができる。
 と、考えていたアシェルはいきなり強く腕を引かれた。
「うわぁ!」
 男たちの一人が、彼を地面に引き倒したのだ。たちまち抵抗を封じられてしまう。髪を掴んだ手に、男たちの意図とは別の意味で危惧する。これまで口を閉ざされていた、女性の悲鳴も再開した。
「悪く思うなよ。こんな時に首を突っ込んだお前が悪いんだ」
 これぞ身勝手の極地という台詞を吐いて男が下卑た笑いを見せる、その時だった。
「いや、どう見ても悪いのはそちらだろう」
「何だ?」
 誰かが怪訝な声を上げるのと同時に、アシェルの身体から男の重みが引いて自由になっていた。一人目の仲間が倒されて、ようやくならず者たちの間に動揺と緊張が広がる。
「な、何だテメェは!?」
 どこかで既視感が湧く光景だ。あの時は蒼だったが、今回は金の疾風が駆けたかと思う間に、ならず者たちは次々に鞘に嵌ったままの剣に昏倒させられて、地面と仲良くする羽目になった。
「あなたは、さっきの……」
「大丈夫ですか? ……そちらの方も」
 男たちを一瞬で倒したのは、先程アシェルに声をかけてきた金髪の少年だ。彼は見事な剣技でならず者たちを瞬殺すると、アシェルに手を差し伸べてきた。
「ぼ……私は、大丈夫です。それより、あちらの女の人を」
 アシェルはその手を断って自力で立つと、横道の奥で襲われていた女性の方を彼に示した。実際、地面に引き倒されただけのアシェルに大きな傷はない。先例があるので左手を確認するが、手袋の方も無事だ。ただ、鬘が少しずれかけているような気がする。
「ええと……大丈夫ですか? もう平気ですよ」
 幸いにも金髪の少年はアシェルの無事を見て取ると、際どいところを助けられ放心状態の女性の介抱へとさっさと回ってくれた。アシェルはその内に、そそくさと、かつ、ささっと鬘を直す。
「あの」
「え? な、何ですか?」
 ちょうど鬘を直し終えたアシェルに、再び金髪の少年が声をかけてきた。
「この方をお送りして差し上げたいのですが、その……俺のような男一人が出向いては誤解を招くでしょうし、できれば、あなたさえ良ければついてきてほしいのですが……」
「はぁ……」
 後ろ暗いところのありすぎる身としては何を言い出されるのかと無闇に警戒してしまったが、実際には、困った様子で少年が口にしたのはそんな言葉だった。
 彼の上着をかけられ、細い肩を震わせている女性のこともある。
「はい……何のお役にも立てませんが、私にできることならば」
 アシェルは頷いて、自らも彼女に手を貸すために二人へと歩み寄った。

 ◆◆◆◆◆

 ……自分は、贄についての情報を探すのではなかっただろうか?
 なのに何故こんな状況になっているのだろうか。カナンは胸中で首を傾げる。サジタリエンはこの季節、空が気持ちよく晴れている。少し風が強いのを除けば、絶好の外出日和では、ある。
 そんな彼の隣には、銀髪の美少女がいる。
「あ、最後の一個、どうぞ」
「え? いえいえ。あなたこそ」
「でも、あの女の人を助けたのは、カナンさんですし」
 何故こんな状況になっているのだろうか。
 数時間前、カナンは街で不思議な空気を纏う一人の少女に声をかけた。往来で突然目元を押さえていたので何かあったのかと気になって声をかけたのだが、風の強い日中、目にゴミが入ってしまったとのことだった。
 話自体はそれで終わらせてしまってもよかったのだが、その後、彼女は不思議な行動に出た。勇者として常日頃から鍛錬をしている自分と同じくらい耳が良いのか、遠い路地裏から聞こえてきた悲鳴の方へと駆けていく。カナンにも正確な位置はわからなかった悲鳴の出所を聞きつけた彼女を追っていくことで、何とか一人の女性を救う事ができた。
 その後、ならず者に襲われたその女性を無事に家まで送り届けたところで、二人はその家人から「お礼」を渡されてしまった。
 お礼と言ってもせいぜい菓子が数個程度なのだが、こんなもので悪いといいながら渡されたものを無碍にすることもできない。かといってカナンともう一人の少女に面識はなく、その処分をどうしようかと考えていたところで、カナンの方から提案したのだ。
 よければ、どこか別の場所で一緒にいただきませんか? 
 もらった菓子を上手く分けることも出来ないのならば、一緒にすぐに食べてしまえばいいのだと。そう言ったカナンの言葉に少女は不審がるでもなく頷いて、今現在に至る。
 澄み渡った空の下、街の中央にある公園で二人、長椅子に座る。
 その状況と自分の言った台詞を後から思い出し、カナンは一人で赤面していた。
「何をやっているんだ俺は……」
「え? 何か言いましたか?」
「い、いいえ! なんでもありません!」
 きょとんと無防備な表情でカナンを見つめてくる少女の声にまた動揺する。ああ、どうしてこんなことになったのか。
 銀髪の少女は美しかった。歳はカナンより一つ二つ下だろうか。大きな瞳に、すっきりとした鼻梁、小さな唇は色づいた果実のように紅い。肌こそ白いが、頬は健康的な薔薇色だ。
 何より、その紫の瞳。
 銀髪と言うからにはこの辺りの人間ではないのだろう。シュルト大陸シルヴァーニ人のカナンからすれば懐かしい隣国ウィスタリア人の容姿をした少女の朝焼けのような紫の瞳は、カナンをどうしようもなく惹きつける。
 その澄んだ色の奥底に、何か、彼の知らないものを秘めている。そんな気にさせる瞳なのだ。
 他にも気になる点はあるのだが、何よりも注目してしまうのがその瞳だった。眉を隠すような長い前髪の下でも、強烈な存在感を放っている。
 とはいえ、気になるから若い美しい女性に声をかけた。これは要するに……
「ナンパ、という奴なのだろうか」
「?」
 ソルト辺りに知られたら絶対に何か言われるに違いない。お前もそんな禁欲的な顔して男だったんだな、とか何とか。溜め息付で。
「カナン……さん?」
「あ、えと。気にしないでください! そ、それもどうぞ。俺は……満腹なので」
「そうですか? じゃあ……ありがとうございます」
 不器用に手で割ったパイの最後の一切れを指して、カナンは少女にそう言った。表にはっきりとは出さないがどこか弾んだ調子で少女がそれを食べ始める。その可愛らしい横顔を眺めながら、カナンはこのまま菓子を食べ終えてはいさよならとは行きたくなくて、少女にも自分にも関心のありそうな話題を降った。
「そういえば、最近のウィスタリア王国のことなんですが」
「ウィスタリア?」
 いったん食べる手を止めた少女は、一瞬、なんでその名前が? というような顔をした。
「あなたはウィスタリアの人ではないのですか? その銀髪……」
「え? ええ! あ、そ、その……私、実は見た目こそこれですけど、実は生まれ育ったのはこっちで、故郷のこと何一つ知らないんです」
 どこかから引っ張り出したような説明を慌てて付け加えて、少女は再びパイに齧りついた。しかしその様は、食べている間だけ時間稼ぎをしているような、何か不自然な感がある。
「そうだったんですか? では、こちらで育ったという国はどちらで?」
「…………アストラスト」
「アストラスト? って、最近大きな街が紅雨の被害にあったっていう……」
 言ってから、カナンもこれがその国を故郷とする人間に出す話題ではないと気づいた。
「す、すみません!」
「……いいえ」
 案の定少女は真っ青になっている。その手からパイが零れた。足元にすぐさま蟻(あり)が寄ってくる。
「すみません。本当に……」
「いいえ。私が悪いんですから」
 私が悪いのですから。繰り返した少女の俯いた顔に影が落ちている。
「ごめん、もうこの話はやめにしよう。手、べたべたになってませんか? 手袋外さなくて大丈夫ですか?」
「へ、平気です。……気にしないでください。大丈夫です」
 時刻は夕刻へと移り変わっていく。空の色が茜に染まっていく。
「ジェットさんの目の色みたい」
 橙色の光を浴びながら、少女はそんな風に言った。男の名前に、カナンはぴくりと反応する。
 思わず何か言いかけてその横顔を見て、ふと気づく。
「あの……」
「なんです?」
「もしかしてその……ルシェアさんはウィスタリアとアストラストの混血、何ですか?」
「え? どうして?」
「だって、髪の色と眉の色が合ってな――」
「!?」
 カナンが指摘した途端、少女は凄い勢いで前髪を押さえた。もともと長いそれに隠されていた眉は、すっかり見えなくなってしまう。
「そ、それは―――」
「すいません。もしかして違いましたか? ええと、俺もよく間違われるので、気を悪くしないでもらいたいんですが」
「間違われる?」
「俺はウィスタリアの隣の国のシルヴァーニ人なんですけど、よくビリジオラートとの混血と間違われます。この、金色の目って、普通ありえませんから」
 カナンは自ら前髪をかきあげ、目の色が夕闇忍び寄る中でもよく見えるようにした。少女がまじまじと、彼の瞳を見つめる。
「ちょっと事情があってこんな目を持って生まれてしまって……」
 言いながらカナンは思う。勇者としては確かにこの目は証となってくれた。けれど、それまではどうだったろうか。この金色の両目のせいで父母に嫌われ、街中から蔑まれて。生まれ持ったものだからどうにもならないとはいえ、辛くなかったと言えば嘘になる。
 この少女に対してもそんな風に傷に触れてしまったのなら悪いことをしたな、と内心恐縮するカナンの前で、しかし彼女は小さく笑った。
「カナンさんは、いい人ですね」
「え?」
「だって、普通はさっきみたいになっても、そんな風にわざわざ自分のことまで明かしてくれませんよ。気にしなくてよかったのに」
 言う彼女の表情には、夕闇のせいだけではない、不思議な翳りがある。カナンは魅入られたように、その伏せられた長い睫毛の下、紫の瞳を見つめた。
 何か、何か言わなくては。焦るのに言葉が出てこない。そもそも何故自分が焦っているのかもわからないまま、時間だけが過ぎていく。と――――。
「カナン!」
「カナンくーん」
「ソルト、フィーア」
 公園から四方に伸びた道の一つから、聞きなれた声が聞こえた。サジタリエン人の橙色の髪の中で、カナンの金髪は酷く目立つ。それを言うなら同じく異邦人のソルトたちも同じだが、どちらにしろお互い見つけやすい。
 呼びかけに応えて振り返ると、何故か二人の側に、逞(たくま)しい蒼い長い髪の男がいた。エヴェルシード人のようだ。
「ジェットさん?」
「ア……ルシェア!? 何故お前がこんなところに?!」
「知り合いなの?」
「はい。まあ、一応」
 驚いたことに、ソルトたちと連れ立って歩いていた男は少女の顔見知りのようだった。こちらはカナンたち三人とは違い、何故かお互い過剰なくらいに驚いている。不思議に思いながらも、蒼い髪の男のもとへと向かう少女を見送る。
「……ルシェア、お前なんで前髪を押さえてるんだ?」
「深い訳があるんです」
 少女と男との会話は、どこかカナンに対するものより硬いように聞こえた
「隊長の知り合いですか? まさか彼女?」
「やだ、犯罪」
「お前らな。言っていいことと悪いことがあるって知ってるか?」
 むしろ気安いのは、ジェットと呼ばれたその男と、ソルトとフィーアの間だ。怪訝に思ったが口を挟む暇はなく、男は傍らに来た少女の手を引いた。
「とにかく帰るぞ」
 男は少女を引きずるようにして歩いていく。実際にそんな乱暴を働いているわけではなく、単に体格の違いでそう見えてしまうのだが。
「ルシェアさん!」
 思わずカナンはその華奢な後姿に向かって呼びかけていた。
「また、いつか!」
 振り返って驚いたような顔をした彼女は、その言葉を受けてにっこりと笑顔を見せてくれる。小さく手を振って、それきり男の後について歩き出した。道を曲がるともう姿が見えない。
 なんとなく溜め息をついてしまうカナンのもとに、硬い顔をしたフィーアが近づいてくる。
「ねぇ、あれ、男の子よ」
 何か深刻な顔をして言う彼女の様子に身構えたこととその言葉の内容が追いつかず、カナンは思わず間抜けな声をあげた。
「……へ?」
 男の子? 誰が? ルシェアが?
 あの美少女が?
 何かがガラガラと音を立てて崩れていく。
「ソルト、あの二人の宿ってわかる?」
「知らない」
「じゃあ、尾行できる?」
「あの隊長をか? 無理に決まってるだろ……って、フィーア、お前」
 宵闇の降り始める頃、街は夕食の買い物に行き交う人々で賑わっている。とうに角を曲がり人込みに紛れてしまった人影を睨むようにして、フィーアは二人の消えていった先を見ている。
「どういうことだ?」
「わからないの? ソルト。だってあの子、男の子よ?」
「なんでそんなことお前にわかるんだ?」
「普通わかるでしょ。これだから男ってヤツは……」
「おい」
「ちょっと待ってソルト。それは今は後だ。フィーア」
 二人の会話に割って入り、カナンは先程から不穏な口ぶりのフィーアへと視線を向ける。
 彼女の様子は、何かおかしい。
「……カナンくんは知らないだろうけど、私とソルトは、あの蒼い髪の人、ジェットって言うんだけど、彼と古い付き合いなの」
「詳しい事情は言えないがな。表向きは傭兵時代の知り合いだとでも思っててくれ」
 そう言うということは違うと言っているも同然だが、そこには今はカナンは触れないことにした。
「あの隊長、変わり者……っていうか、凄い変わり者でね。いろいろとやらかしてるけどかなりの実力者でもあって……私たちは昨日たまたま見かけた彼と久々に話をしようと思って今日会ってきたわけだけど」
「それで俺には外せって言ってたのか。でも、贄探しのこんな緊迫した状況下で?」
「その贄が問題なのよ。最初はただ単純にあの人なら裏の世界とかにもいろいろ詳しいから何か情報持ってないかなって思ったんだけど」
 フィーアはその艶やかな黒髪を自らの指に巻きつけるようにして弄び、片手は腰にやったまま考え込む姿勢になる。
「……十年以上前の話なんだけど、忘れられないことがあってね。何かで団の中で贄の話題が出たとき、ジェットは烈火のごとく怒り出して、その相手を半殺しにしたの」
「半殺し?」
 団というこれもまた意味不明な単語には触れず、その穏やかではない言葉にカナンは注目する。
「そう。二十年前の贄の話だったんだけど」
「あの人は何か、贄という存在に対して強い思いを持っている」
 フィーアの言葉を、ソルトも補足した。
「二十年前の贄はエヴェルシード人だって言うしな。知り合いだったんじゃないかって噂だ。でも、詳しい事は誰も知らなかった。けど」
 カナンは思い返す。
 先程まで一緒にいた少女のこと。
 髪の色は銀なのに、眉の色が違う。睫毛も違う。
 少女だとばかり思っていたが、あれは少年だと言う。ならば、女装をしていたということだ。髪の色まで変えて、何のためにそんなことを?
 誰かから隠れるため。誰かとは誰だ?
 あの眉と睫毛の色の方が彼女……彼の本当の髪色だとしたら、紅髪紫瞳のアストラスト王国人。
 かの国は、紅雨の贄が現れたと目される地域ではないか?
 それに彼は、格好と季節に不似合いな手袋をその手にはめていた。あの下には何が?
「ジェット隊長の言動のふとした拍子に現れ
るそれは、贄に同情的だった」
「そして今回も俺たちは、今年の贄について尋ねたところ、はぐらかされた。知らないの一点張りで、どこか怪しかった。まああの人も後ろ暗いところが多いからそのせいかと思ってたけど」 
 ソルトが銅色の髪をかきあげながら、黒髪黒瞳の魔術師の民の裔(すえ)へと尋ねる。
「フィーア。スィーアへと連絡とれるか?」
「無理ね。姉さんはたぶん応えない。それより、ヴァンス将軍を呼びましょう。できる限りの兵士を、今夜中にこの街に集めてくるわ。あんたは街の出口を見張ってくれる?」
「了解」
 フィーアとソルトの二人も、カナンと同じ結論を出したようだった。
「あの子が……紅雨の贄……この世界に死をもたらす元凶……」
 口に出した瞬間、心臓が何かに掴まれたように痛んだ。ちくりと鋭い氷の棘が刺さる。それを強いて無視するようにして、カナンは顔を上げる。
 去り際にあの少年が見せたやわらかな微笑みも、瞼の裏で憎しみの炎に溶けるようにして、消えた。