薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 02

8.追う者と追われる者

「何だってあんな奴と一緒にいたんだ、お前は」
「カナンさんのことですか?」
 宿に戻ったアシェルとジェットは、先程の奇妙な邂逅を思い返す。
「それと、その前髪は?」
「これは……」
 先程はカナンたちの前だったのでかわしたことをもう一度追求され、アシェルは失態を説明した。銀髪の鬘を被っていても、眉や睫毛の色は地毛の紅そのままだ。そのことをカナンに気づかれてしまった。
 ウィスタリア人の格好をしていた事はなんとかあらかじめ打ち合わせていた「人種はそうでも育ったのはアストラスト」という嘘で切り抜けたが、そう上手く誤魔化せた様子でもない。
「まずいな……」
 アシェルの話を聞いて、ジェットは眉根を寄せた。
「どうかしたんですか?」
「お前の言うカナン、だっけか? それと俺が今日会ってきた二人、ソルトとフィーアと言うんだが、ヤツラは贄を捜せと言われてこの辺りまで来たんだと」
「え? どうして……?」
 贄を憎み、捜すこと自体は珍しくないし、見つけたら通報する事は国民の義務とされるくらい当然だ。けれどジェットの言う彼らの様子では、個人的な恨みと言うより誰かに命じられているようだ。
「ラウザンシスカ人の男がいただろ? 奴がソルトと言うんだが、今は全員奴の国に世話になっていて、そこの王に命じられたらしい。なんでもあの金髪は勇者として祀り上げられているそうだ」
「勇者……」
 金色の髪に金色の瞳。アシェルより幾つか年上の、優しげな少年。いい人だった。実際にならず者たちに襲われていた女性を助けた、立派な人。……できれば友達になりたかった。
「それなりに情報を得はしたが、こっちも付き合いが長かっただけに、あいつらにどこまで誤魔化せたか……」
「すぐに街を出た方が良いでしょうか?」
 カナンが勇者。では彼に捜されている自分は人類の敵か。悲しげに言ったアシェルに、ジェットも渋い顔をしながら首を横に振る。
「いや、夜間はさすがに警備が厳しくなるし、検問も行われる。下手に動いたらまずいだろう。出立は明日、普通の旅人のようにして出て行くぞ」
「僕はどうしましょう? この姿をカナンさんに見られていますけど」
「そうだな。男の格好に戻……でも銀髪の女が俺と一緒にいることはあいつらも覚えたろうしな。いや、でもその場で鬘だってバレた方が言い逃れできなくて厄介か……くそっ、どうやっても誤魔化しようがねぇぞ!」
 普段は落ち着いた態度を崩さないジェットも、流石に八方塞(はっぽうふさがり)のこの状況には苛立った声をあげる。
「けどな、あいつらから得た情報なんだが、この近辺にはアストラスト人の旅人はいるが、ウィスタリア人はいないも同然らしい」
「そうなんですか?」
「ああ。だから、もしヤツラが勘付いていて、ウィスタリア人の方に指名手配でもかけられたら厄介だ。アストラスト人にそんなことをすれば無関係な人間が巻き込まれる恐れがあるから自粛するだろうがな……さて、向こうはどう出るか」
「もしもそれで贄はアストラスト人だと言う事が知られて……僕と間違われて殺される人が出たら、それは僕のせいですよね……」
 一層沈んだ調子でアシェルが言うのに、ジェットは何も言葉をかけてやれない。
 自分の命を護るために他者を囮にする。よくある手段の一つだが、アシェルには耐えられないらしい。これも紅雨の弊害の一つだ。きっと今までにも、世界が贄を捜すうちに巻き込まれて人違いで死んだ者は多いに違いない。
 勇者に討伐される、彼らの立場はまるで魔王。それでも最後はやはり、その道を選ぶ。
 皇帝領に辿り着き、あの紅雨を皇帝に止めてもらうまでは、アシェルも死ねない。
「銀髪よりはアストラスト人の方が誤魔化しやすいんですよね」
「ああ。賭けになるけどな」
 不安な気持ちでお互い、その一夜を過ごした。
 そして彼らは、賭けに負ける。

 ◆◆◆◆◆

「そう言えば、フィーアがいたんだっけか」
「ええ。隊長。姉はお元気ですか?」
「俺が国を出てきたときは、殺しても死にそうにないような顔してたが?」
「それは良かった」
 軽口を叩き合いながら彼らが向かい合うのはサジタリエンの街と街の中間地点だ。付近には深い森が広がっている。
 やはり二人のことを勇者一行は警戒していたらしい。ジェットの姿を認めた途端に黒髪の女性と銅髪の青年が、アシェルの姿を見た瞬間に金髪の少年、カナンが悲しげな顔をした。
「君は……ルシェアさん、だね」
「はい……」
 今のアシェルは、紅髪紫瞳のアストラスト人の少年の姿に戻っている。それでもカナンには一目でわかってしまったようだ。その確信には、彼がジェットと一緒にいたからという理由以上のものがある。
「スィーアはどうして国に戻ってこないのかしら」
 黒髪の女性は、その手に水晶玉を持っていた。彼女の目はどこか懐かしそうな、寂しそうな色を湛えてジェットを見ている。
「その理由は、俺じゃなくて本人に聞いてくれ。お前の能力なら、人より移動は簡単だろう?」
 ジェットと言葉を交わすフィーアという黒髪黒瞳の女性、この世界では黒の末裔と呼ばれ人々に嫌われている、魔術師の能力を持つ人物である。彼女の目の下には隈が出来ていて、疲労の色が濃い。その原因は彼女の背後にあった。
「お前が、今回の紅雨の贄か」
 厳しい顔つきのラウザンシスカ人の男、彼は将軍と呼ばれていた。彼に従う格好で、三十人ほどの兵士たちがいる。皆、ラウザンシスカの紋章がついた鎧を着ている。
 将軍ヴァンスの瞳は、アシェルを射殺すような眼光で睨みつけていた。できるものなら比喩でなく、本当に殺したいのだろう。強すぎる炎のような憎しみに溢れている。
「道理で、お前たちが来るのが早すぎると思ったんだよ。俺たちより遅く出てきたはずなのにもうこんなところにいる。フィーアの転移能力を使ったんだな」
「それだけが取り柄ですから」
 スィーアと言うのは、フィーアの姉の名だという。そして、ジェットにアシェルのことを教えた凄腕の占い師、彼女のことでもあるのだと。
 黒髪黒瞳の黒の末裔という一族。彼らが忌み嫌われるのには、人々がその魔術師の力を恐れて、という理由があった。他に黒と言う色を戴く人種がないことも関係がある。ある程度の異端ならば受け入れるが、自分たちと違いすぎるものは受け入れられない。世界はそのように出来ている。
 その魔術師一族の一人であるカナンの仲間、フィーアには人を街から街へと移動させる能力があるらしい。
「私程度の力では、自力で好きな場所に移動するのには限界があります。街と街の間にある、先人たちの残した魔法陣と言うものを使わせてもらいました。人数も、本当はこの倍ぐらい連れて来たかったのですが」
「無茶するとお前の身体に負担がかかるんだろう。まぁ、俺たちにとっては好都合だけどな。お前の能力がそんなに使い勝手のいいものじゃないってことは知ってる。つまり」
 ジェットはにやりと口元を歪めて、不敵に笑う。
「ここでお前たちさえ何とかして突破できれば、再び隠れる機会はあるってことだ」
「隠れられるとお思いですか」
「俺もいるんすよ。隊長」
「お前らこそ、その程度の相手を引き連れたくらいで俺に勝てるとでも?」
 ジェットとフィーア、ソルトの間には険悪な雰囲気が漂い始めている。彼らのやりとりには、ラウザンシスカの兵士たちも口を挟めないようだ。
 一方、アシェルに対しては、カナンの厳しい言葉が飛ぶ。
「君がそんな人だとは思わなかった」
 カナンの言葉に、ぴくりとアシェルの紅い眉が揺れる。
「昨日のことで、優しくて正義感のある人だと思ってた。でも、違ったんだね。君も結局は、自分大事で他人の痛みなんてどうでもいいと思っていたのか。紅雨で、今もどんどん罪のない人たちが苦しみながら死んでいってるっていうのに」
 魔を射る正義の光のような金色の瞳が、アシェルを貫く。
「ミルゼアルゼの街のような被害を、もう出すわけにはいかないのに」
「ミルゼアルゼ!? あの街が、紅雨に」
 カナンの言葉にアシェルは心臓を射抜かれたような気がした。アストラスト王国ミルゼアルゼ。アシェルの生まれ育った街。
 あの街が、紅雨の被害に遭った? では、スーは。これまでずっとよくしてくれたあの人々は。
「アシェル」
 ジェットの小さな囁きに今にも崩れそうな両足に力を入れる。
 そうだ。わかっていたはずじゃないか。紅雨の被害は贄が逃げるほどに進む。そこに法則も例外もない。アシェルが逃げることによって、必ず人が死ぬ。
 それでも、それでもまだ死ねないと誓ったのではないか。
「カナンさん」
 アシェルは紫の瞳に決意を灯し、金色の勇者を睨み返した。
「僕には、叶えたい願いがあります。それを叶えるまでは、死ぬわけにはいかない」
 アシェルの思いがけずはっきりとした強い言葉に、カナンは意表を衝かれたようだった。アシェルの表情にあるものは他者を犠牲にしても自分が生き延びたいのだと言う醜い本能でもなく、死者を出した罪悪感に言い訳しようとする浅ましさのどちらでもない。
 その全てを受けとめ、それでも己の道を曲げない姿勢だった。
「どうして、君は……」
「勇者殿! 何を惑わされているのか!」
 揺らぎそうになるカナンの心を、ヴァンスの鋭い一喝が引き戻した。
「は! 申し訳ありません、将軍」
「ヤツラは所詮贄だ。自らが生きるために他者の犠牲などなんとも思わぬ醜い自己保身に長けた罪人だ」
「違う! こいつはそんなんじゃ!」
「だったらその場で死ねばよいだろう」
「~~話聞かねぇジイサンだな!!」
 ヴァンスとジェットの罵りあいにより、場の緊張が一気に高まった。一触即発の雰囲気の中、カナンはジェットに向かっても尋ねる。
「あなたは何故この子と一緒にいるんですか。見たところ、家族でもないようですが」
 家族も何も、アシェルとジェットは人種からして違う。
「赤の他人だ」
「では何故」
「お前こそ妙な考え方をするんだな。家族って言うものは、無条件に子どもをなんでもかんでも護ってくれるようないいもんか? 誰もがそんなできた親なのか? そう信じているのなら、よっぽどお幸せな環境に生きてきたんだな。おめでとう」
 皮肉をたっぷりまぶしたジェットの言葉に、家族に関するカナンの記憶が蘇る。
 ――どうしてあんな子どもを生んだんだ! 気味が悪いったらありゃしない! なんだ、あのシルヴァーニ人らしくない金色の目は!
 ――そんなこと言わないでよ! あたしが好きであんな変な目をした子どもを生んだとでも思ってるの!?
 自分の異相の金の瞳をさして、いつも怒鳴り合いの喧嘩を繰り広げていた両親。時には手が出ることもあった。母親が泣きながらカナンの頬を叩いた事もある。
 ――ああ、カナン、お前は私たちの誇りだよ……
 その手ひどい拒絶の記憶と、ラウザンシスカに勇者として招かれることが決まってからの一転して過剰なぐらいに甘やかされた記憶。あれが同じ人物のやることだとは、信じられないくらい。
「う……うるさい!」
 触れてはいけない何かに無理矢理触れられた気がして、カナンはジェットを怒鳴りつけた。その彼よりも隣にいたアシェルの方がむしろ吃驚してこちらを見ている。
 彼が口を開きかけたのを遮ろうと、もう一度叫び返そうとしたカナンの言葉をも、誰かのあげた声が塞ぐ。
「将軍、あれを!」
 兵士の一人が指摘したのは、紅く染まった真昼の空だった。赤黒い雲が近づいてきている。
 紅雨。
 人に死をもたらす呪われた雨。
「さっさと贄を殺せ!」
「将軍、どちらが今回の贄で」
「どちらでも構わないだろう! 贄を庇う者も同罪だ! まとめて殺せ!」
 ヴァンスの命令に従い、兵士たちがいっせいに動き始めた。
 紅雨は迫っているが、その標的はつい先程アシェルたちが後にした街のようだった。この辺りはまだ雨の範囲内ではない。
「ジェットさん!」
「逃げるぞ、アシェル!」
 三十人以上いる兵士を全員相手にするのはさすがにジェットでも荷が重い。アシェルを護りながらでは尚更だ。更に分の悪いことには、向こうには魔術師がいる。
 けれど同じようにフィーアの実力を知っているジェットは、彼女は本来戦闘向きの能力者ではないことも知っていた。好調時ならまだしも、これだけの人数を転移させた後の疲労が濃い状態では、彼女程度の能力者では何もできないだろう。
 それでも、と念のためにジェットは彼女が持っていた水晶に向かい隠し持っていた小刀を投げる。
「きゃ!」
「ちっ、追跡術を絶たれたか」
 過たず目標に命中したそれは、水晶を砕いた。魔術師が使う水晶球は一度眼にした相手の居場所を掴む力がある。けれどそれを用意するのも手間がかかるため、これではすぐにアシェルとジェットの居場所を探る事はできないだろう。
 後はこの場を逃げ切ればいいだけの話だ。
「森へ行こう!」
「はい!」
 ラウザンシスカの兵士たちの中には、弓を持つ者がいる。どの道接近戦はまずいのだ。ならば隠れられる場所を見つけやすい方がいい。
 アシェルとジェットの二人は即座に身を翻して、街と街の間にある森へとひた駆けた。
 幸いにも弓に射られる事はなくその入り口まで辿り着けた。後は追ってきた兵士たちとカナンたち勇者一行との、熾烈な追いかけっことなる。
 緑が鮮やか過ぎるほど深い森の、ぬかるみ苔むし滑りやすい足場を、アシェルたちは必死に走る。とにかく奥へ奥へ。兵士たちが追って来れなくなるまで。アシェルは戦闘こそできないが、運動神経は悪くない。むしろこういった環境で逃げる方が、彼に有利な状況だった。
 それでも一つの国家の生え抜きの兵士たちを舐めてかかってはいけなかった。
「貴様らぁ!!」
 周囲の障害をものともせず、むしろ細い木など叩き斬るのではないかという勢いでヴァンスが二人を追う。カナンやソルト、フィーア、他の兵士たちも少し遅れて追ってくる。
 アシェルは崖際に追い詰められた。もう逃げ場がない。
「贄よ。今こそ、その務めを果たせ」
「僕、は……」
 ぎらぎらと憎しみに燃えたヴァンスの眼がアシェルを射る。けれど口調はそれに反して凍てついていて、アシェルは恐ろしさに息を詰めた。
「夢遊病者(ノクタンビュール)が、生きていいという夢など見る時間は終わったんだ!」
 《贄》の正式な名称を、《夢遊病者(ノクタンビュール)》と言う。
 世界のために死すべきと言われる彼らだが、たいていが自らの運命を受け入れず抗う。そのため、分不相応な夢を見るものとしてその名がついた。
 夢に遊び夢に彷徨う。
 彼らにとって、生きていることそのものが夢。
「!?」
 男のきつい口調にアシェルは瞠目する。
 怖い。死ぬことではなく、それよりも今目の前にいるこの男の憎悪が。
 このままでは足を踏み外す、わかっていてアシェルが後方に足を踏み出しかけた、その時だった。
「アシェル!」
 ジェットが少年の名を呼んだ。次の瞬間、逞しい腕がアシェルの腰を攫う。
「え?」
 目の前に鬱蒼と生い茂る木々の枝葉が見え、その奥には紅い空が見えた。アシェルがそう認識したのとほぼ同時に、身体が落下し始める。
「俺を信じろ」
 強く抱きしめるジェットが、そう囁いた気がした。
「うわぁあああああ!!」
「え?」
「ちょっと!」
 崖際に立ったカナンたちも下を覗き込むが、底が見えない。
「嘘だろう……」
 垂直に近い急斜面を、贄とその護衛の男は、生存が絶望的なまでに潔く落下していった。