9.雲間に射す光
「どういうことだ?」
ヴァンスにそう言われたところで、カナンたちにもわからない。
「俺たちにも、よく……」
「あの男、まさか負けを悟って自殺の道を選んだのか?」
「いや、それはない」
「ジェットはそういう可愛らしい性格じゃありません」
ヴァンスの言葉を、ソルトとフィーアが強く否定した。
「では、どういうことなんだ?」
「それは……」
では、とヴァンスに再び問われるがそれには彼らも答えられない。
崖下の闇は深く、底が見えない。どう考えても、ここから落ちたのなら生きているということはあるまい。
それでも。
「ジェットがそんなことするはずがないわ」
確かにあの状況は不自然だった。アシェルとジェットの関係がどういったものかいまだ正確なことはカナンたちにもわからないが、少なくとも心中希望には見えない。
「雨!?」
展開を訝る彼らの背後で、兵士たちが叫んだ。
「あ……」
一瞬紅雨のことかと緊張が走ったが、何の事はない。彼らに降るのは普通の、透明な水の雨だった。
もしかしたら贄が死んで呪いが解けたのだろうか。
「……この山は土砂崩れの危険がある。ここはひとまず、撤退しよう」
「将軍」
「どちらにしろこんな場所では探しにいけないだろう。贄が生きていれば、また紅雨が降ることでわかる。それまで、援軍を待ちながら一時休息をとる」
腹立たしげな様子は隠せずとも、理にかなった判断はできる。ヴァンスはそう言って、自らの部下たちにも指示を出した。
雨は冷たい氷の矢となって、世界を、そこに住む人々を射る。
◆◆◆◆◆
雨が降る。
透明な、水の、雨が降る。
天上から降る聖なる水が地の穢れを責めるように世界の全てに等しく降り注ぐ。
そこには神も魔もない。
そこには人も魔もない。
「たす、かった……?」
確かに崖下に落ちたはずなのに、二人は死んでいなかった。アシェルは蹲ったまま、恐る恐る両手を見つめる。
「どういうことなんですか?」
地の底に到達する寸前、落下の勢いが何かに包まれたように弱まった気がする。けれど、アシェルにはそんなことのできる心当たりがない。あるとすれば、落ちる寸前に「俺を信じろ」と囁いたジェットの方だろう。そう思って彼を見上げると、蒼い髪の男は苛立たしげに橙色の瞳を細めていた。
「ジェットさん?」
「ああ……とりあえず、どこか雨宿りできるところを探すぞ。この状態で雨になんぞ濡れたら体力を奪われて俺でも死ぬぞ」
「は、はい……」
確かにぽつぽつと水の雫はアシェルたちの頬をひっきりなしに叩いている。今は疎らな小雨だが本降りになるのも時間の問題だろう。素直にその言葉に従ったアシェルは、ジェットに倣って周囲に目を凝らし始めた。
折よく、むしろ運よく、近くには小さな洞窟らしき場所があった。
「洞窟、って言う規模でもないな。単なる横穴か」
岩壁の側面に、大人が三人も四人も入ればそれだけで一杯になってしまいそうな空間ができている。雨に直接打たれるよりマシとはいえ、それだけでは寒さを凌げそうにない。
サジタリエンに降る雨は、ただの水なのに恐ろしいほどに冷たかった。飲み水確保のために革袋や水筒に雨水を溜めながら、二人は荷物の中からありったけの衣類を着込んで足元から冷え込むような寒気に耐えていた。
「雨、ですね」
「ああ、雨だな。普通の」
崖近くの岩壁にぽっかりとあいた洞窟に入りながらも狭いそこから見るのは入り口の壁を滴り落ちる雨の雫。その向こうの森の景色を濡らす雨。
紅い血の雨ではなく、透明な普通の水の雨だ。当然のはずなのに、紅雨の恐怖に慣れてしまった頭がそれを不自然として感じる。
「ジェットさん、さっきのあれ、何だったんですか?」
「ああ。スィーア……前に言ってた占い師な。あいつが、浮遊石という特殊な道具を俺の荷物に忍ばせていたんだ」
魔術に使われる道具の一種が、あの瞬間に激突の衝撃を緩和してアシェルたちを護ったのだと言う。それによって、無事に崖下まで降りてくることができたのだ。
「その人、なんでもわかるんですね」
「と言うより、役に立ちそうなもの、ある限り片っ端から詰め込んでいったって感じだがな」
アシェルの変装用の服と鬘をジェットの荷物に気づかれずに忍び込ませたのも彼女だった。黒髪に黒い瞳の、ジェットとそう変らぬ歳の女。フィーアの歳の離れた姉。
「あいつも……まだリーシェンのことを気にしてるのか……」
「ジェットさん?」
「なんでもない」
独り言を無理矢理封印して、ジェットはアシェルと同じように、洞窟の外へと視線を移す。
雨が降り注いでいる。
「あの、ありがとうございます。助けていただいて」
「なんだ。今更だろう」
「いえ。さすがにもう駄目かと思いましたから」
「お前がそんな弱気だとはな。皇帝領に行くんだろう? 何がなんでも生き残るくらい言え」
「そりゃあ、皇帝領には行きたいですけどそれが第一目的で何が何でも辿り着けばいいってわけじゃありませんし……」
雨は降り止まない。
ありがたいことに追っ手が来る様子もない。けれど先程の疲労が残り、こんな状態で先に進めるわけもない。
突然出来てしまった予定にない空白の時間を二人は持て余しそうになる。けれど、それがどれだけもったいないことかも知っていた。
明日の朝陽を無事に拝めるとも知れない身なら、一分一秒だって無駄にすることもできない。
口火を切ったのはアシェルの方だった。
「ごめんなさい」
「ん?」
「さっき、ジェットさん、『俺を信じろ』って言ったでしょう。あれ、全然信じてませんでした。ごめんなさい」
「ああ……お前、盛大に叫んでたもんな。まぁ、あんな目に遭えば誰だって怖くなったりするさ。そう気に――」
「違うんです」
慰めようとするジェットの言葉を、アシェルは遮る。
「最初のことも、これまでのことも、ずっと、信じてませんでした」
「アシェル」
「ジェットさんが必要としているのは、リーシェンさんとの約束を守ることなんでしょう。でも、そんな理由でついてきてくれた人が、本当に僕を護ってくれるのかな、て。リーシェンさんを馬鹿にしてるわけじゃないんです。彼女が立派な人で、彼女にかけるあなたの想いが強いのも真実でしょう。でも僕は、そんな風に綺麗な思いだけで最後まで護り通してもらえるほど綺麗な存在じゃないって、自分でわかってますから。いつ、こんな人間庇うくらいならさっさと殺して紅雨の被害を減らすほうがマシだって見限られてもおかしくないって。……だから、ごめんなさい」
「お前……」
そんな風に思っていたのか。素直そうな少年の、意外に打算的で根深い人間不信。はっきりと言葉に出されたそれを、けれど責める気にもなれずジェットは溜め息をつく。
わかっている。そろそろわかってきた。アシェルはこういう奴なのだ。
「……別に。お前が俺をどう思おうとも勝手だよ。確かに、この道は楽じゃないし、二十年前に死んだ女との約束を律儀に守ろうとするなんてただの馬鹿にしか見えないよな」
「いえ! 違うんです! そういうことじゃなくて」
「ああ。なんとなくわかるよ。お前に悪気がないことくらい。でもな、お前を護るのはな、何もリーシェンとの約束だけじゃない。これは、俺自身の正義なんだ」
贄と呼ばれる人々を犠牲にして平和を成り立たせていく世界。世界のためならば一人を犠牲にしても構わないと、そんな世界中に蔓延する風潮との戦い。
「何もお前のためだけじゃないし、殺されたリーシェンのためだけでもない。俺のためでもあるんだ。俺が望んだんだ。安穏と生きるより、贄を生かして世界に喧嘩を売る方を」
こんなやり方は間違っていると、反論を行動で叩きつける。
「俺は俺の正義を貫きたい。それだけだ」
「正義……」
ジェットの言葉に、アシェルが反応する。
「正義って、何なんでしょう」
「え?」
「昔、ある人に言われた事があるんです。『本当の正義とはなんだ?』って」
白い髪と紅い瞳。あの青年が、アシェルの運命を変えた。
「贄として刻印を受けたその日から、ずっと考えていたんです。本当の正義って何? って。だって」
夢遊病者(ノクタンビュール)として、世界の平和に献上される贄として選ばれた自分。
アシェルが死ねば世界は一時的には平和になる。彼が死ぬことでその後二十年間は紅雨の心配はなくなるのだから。なので贄と知れたその瞬間に命を絶つ。一人の犠牲も出す事はなく自分だけが死ぬ。それは一見美しい自己犠牲に見える。
けれど本当に、その結果で犠牲になるのは自分だけか?
祈るように指を組みながら膝を立てて座り、その膝に組んだ手を押し付けアシェルは続けた。
「僕がこのまま世界の言うとおり、紅雨の被害を止めるために死んで、世界のために贄が死ぬのは当たり前と言う風潮を作ってしまったら、僕の次の贄はどうなるんですか?」
ジェットは目を見開いた。
「仮にこれが、一代限りのことならまだ許せます。世界のために死ねといわれて、けれどそれで恒久的な平穏が手に入るというのなら。でも、そうではないでしょう」
アシェルの前にも後にも、生まれて死んでいく贄たち。アシェルが仮にここで死んだとして救えるのは今いる世界の人々だけだ。
ここで贄が死ぬのは当然だと言わせてしまったら、二十年後に贄に選ばれた人間はどうなる? 今目に見える範囲だけの人々を救って、二十年後の贄には積極的に死に歩ませるのか?
そんなものが正義なのか?
「ジェットさんがずっと言っていたことです。世界を救うためにただ一人を犠牲にする。それが本当に正義なのかって。僕もそう思います。だから生きるんです」
――私が死ねば、そこでまた贄の死亡例の一つができあがるだけ。それも今度は、できる限り早く死んだ方がやはりいいんだという……私の次の贄は私が前の贄と比べられるように私と比べられて、恐らくもっと過酷な決断を迫られるわ……
ああ、これだったのか。
あの時ジェットに理解できなかったリーシェンの言葉。
そして実際にそうなった。リーシェンの言ったとおり、リーシェンの次の贄であるアシェルは彼女と引き比べられ、速やかな死を望まれている。
もちろん彼女のせいだけではないし、アシェルにそれを恨む様子もない。贄に死を強制する世界の風潮はこれまで何百年もの長い時間をかけて作られたものだ。けれど確かに彼女は先例を作った。被害が拡大する前に贄は死ぬべき、という。
けれど次の贄は、世界の犠牲となることを選んだその時の贄ではない。
リーシェンはアシェルではない。リーシェンのしたことは、逆にアシェルを追い詰める。世界を救ったかもしれないが、アシェルを追い詰めるのだ。死に追いやるのだ。
だからこそ彼女は、この時代にジェットを残した。
――私には、世界を変える力はないし、世界に逆らう勇気もないの。できることと言ったら、できるだけ早く死ぬことと、世界に名乗りをあげることだけ。
――もしも私の次、二十年後に生まれた贄が、この運命に逆らって生きることを望むのならば。
望むならば。
――どうかその人を助けてあげて。それがどんな人でも。
アシェルという少年を通じて、ジェットはようやくリーシェンの真意に気づく。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。二十年後の、私の次の贄の人。
ごめんなさい、次の人。ごめんなさい、私は弱かった。
私は逃げる。私は諦める。私は誰かのためになんて、強さを抱いたまま戦い続けることなんてできない。だから私は卑怯者のまま、安らかに死んでいく。
ごめんなさい。
彼女はずっと誰かに謝り続けていた。懺悔していた。
アシェルにだったのだ。
彼女はずっと、自分の後に辛い役目を負う彼に謝り続けていたのだ。
二十年という時を経て、一人の男がようやくそれに気づく。
「……ジェットさん?」
突然黙り込んでしまった彼に向けて、アシェルがおずおずと声をかける、すると、前触れもなく武骨な手が伸びてきて彼の紅い髪をかき混ぜた。
「わっ」
「アシェル」
「な、なんです?」
「お前はいい奴だよ」
突然のジェットの言葉に、アシェルは瞬間、凍りつく。
「お前はいい奴だ。世界のために死んで当然なんて、そんな風に言われるべき人間じゃない。お前は」
この瞬間にジェットの中で、アシェルはアシェルとなる。リーシェンの次の贄ではなく、一人の人間となる。
「お前には生きる権利があるんだよ」
「……!」
武骨な手に髪をかき混ぜられるようにして撫でられ、力強く自信に溢れた言葉に存在を肯定され。
アシェルの瞳に涙が溢れる。
「泣いていいんだぞ。アシェル」
「だって……僕は……たくさんの人を殺して……僕は……」
「お前のせいじゃない。お前は悪くない。いや、悪いのかもしれないけど、でもそれだったらお前に死を押し付けようとする他のヤツラも同罪だろう。この世の一体誰が、お前のことを責める権利があるっていうんだ?」
ジェットの言葉に、アシェルは隣り合った彼の胸に縋り付いた。
瞳の淵に溜まっていた涙が頬を滑りだす。外に降る雨とは違って、暖かな涙。
「本当は……本当は僕は、死ぬのはイヤだけど、怖くなんかないんです」
本当に怖いものは別にある。
「もしも世界が、僕一人が死ぬことで永遠に救われるなら何度だって死んであげる。それならたぶん、死んでも構わない。でも!」
でも、そうではない。
「そうだな。お前が死んだら、また次の贄は酷い目にあう。お前は、自分が救えないそのたった一人の死と苦痛を嘆くんだろう」
偽善に陶酔できればよかった。
目先の人間だけを救ってそれが正しいと言えればよかった。
そうではない。それが苦しい。
アシェルが死んだところで紅雨が世界からなくなるわけではない。二十年後に、世界はまた贄を殺すだろう。それがさも当然のような顔をして。
贄が死を受け入れるということは、世界のためには一人を犠牲にしてもいいと認めることだ。
例えば次の贄が生まれたばかりの無力な赤ん坊だったとしても、正義のためだと言って人々は贄を殺すだろう。世界はそれを許すだろう。
本当にそれでいいのか?
それが、世界の《正義》なのか?
アシェルはそんな風には思わない。そんなものが正義だとは信じない。
だってわかるのだ。アシェル自身も贄だから。
他の人と同じように、自分だって痛みも苦しみも哀しみも感じる。それらを与えられることも嫌だ。だから。
「皇帝領に行こう、アシェル」
むせび泣くアシェルの背を撫でながら、決意の声でジェットが言った。
その声は、春に降る雨音のように優しい。
「紅雨を止めるんだ。悪いのは全部、あの雨なんだ」
贄は悪くない。彼らが好き好んで呪われた雨を呼び寄せるわけではない。
だが、そのために死者の数を増やす。それも彼らの本意ではない。いくら感情の上で贄に死を押し付けるといったって、彼らが実際に贄を殺すのは一握りで大半の人々は巻き込まれた哀れな存在なのだから。
憎むべきは、あの呪われた血の雨だ。
本当に世界に恒久的な平穏をもたらしたいのであれば、何よりもまず、あの雨こそをなんとかせねばならないのだ。そしてそれができる可能性があるのは全知全能の力を持つと言われる皇帝で、彼にそれを頼めるだろう人物は今のところ、アシェルとジェットしかいない。世界の他の人々は、贄が死ねばそれでいいと思っている。
ラウザンシスカの勇者と言われていた、あのカナンでさえも。
友達になり損ねた金髪の少年を思い出して、アシェルはまたぽろぽろと涙を零した。本当に誰も彼もが……ジェット以外は世界の敵なのだ。
楽な道のりではないことはわかっている。カナンたちにも知られてしまったし、多くの人々がアシェルの命を狙うだろう。それにアシェルがこうして生きている間にも、たくさんの人が、街が、国が、紅い雨に降られて死に絶えていくのだ。
(スー)
カナンが口にした街の名前、ミルゼアルゼ。アシェルの生まれ故郷も紅雨に飲まれたと聞く。たぶんアシェルの一番仲の良い有人であった彼女も……生きてはいないだろう。暗い確信に胸に痛みが走る。
確かにそれらは、アシェルの罪なのかもしれない。罪人の汚名は甘んじて受けよう。
それでも、叶えたい自分の《正義》。
全てを巻き込んで、なお。
「……ジェットさん」
「なんだ?」
その胸に縋りついたまま顔を見せないで、アシェルは言った。
「途中でまがりなりにも僕が殺されそうになったら、その時はあなたが手にかけてくださいね」
「お前、何を」
「贄を殺した人間には国家から賞金が出されるはずです。あなたが僕を庇ったことも帳消しになるでしょう。これまでの旅路で払わせた分の費用も、全部払えます」
「馬鹿! お前そんなこと……ッ」
思わず激昂しかかったジェットだが、途中で努めて気を落ち着かせる。
落ち着け。リーシェンの時にも慣れたはずだろう。
つまり彼らは、思っていることを素直に口に出せない人間なのだ。物凄く遠回しなその言動の中に潜む真実は、受け取る側が探りだしていかねばならない。
わかっている。アシェルはこういう奴なのだ。
善なるものを求めすぎてたった一人の苦痛も許せず世界の風潮に屈せないアシェル。目の前の人の命を救いながら、他に犯す罪があることを弁解せず、自らを善人と呼ぶことすらできず偽善と蔑んで自ら傷つく。
だから少しだけ意趣返しで、ジェットも遠回しに言ってみる。どうせ賢い少年のこと、正確にその意を汲んでしまうのだろうけれど。
「……残念ながら、お前の俺への借金は一括返済厳禁だ。お前はこれからあこぎな俺への返済を、八十年も九十年もかけてせっせとするんだよ」
贄である自分を守護する男への負い目へをあんな形でしか言葉にできない少年へと、ジェットは、彼だけは絶対にアシェルを見捨てる事はしないと告げる。
「ジェットさん……」
顔をあげたアシェルが、何とも言えない泣き笑いの表情になる。
そして今度こそ口から、素直な感謝を零した。
「ありがとう……ございます」
降り続いた雨は止み、灰色の雲の切れ間から太陽が顔を覗かせた。