薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 02

10.生きる

 ザァアアアアア。
 雨は降り続く。
 紅い、紅い雨。血の雨。
 人々に嘆きと死を与え、世界を絶望に染め上げる。その雨に打たれたものは、あらゆる苦痛を感じて死に至る。
 惨い雨に鞭打たれて、壮絶な最期を迎える人々。信じた神の名すら呪わせるその威力は、死体を眼にした者の背筋を凍らせる。もがき苦しんだ様子を残す焼け爛れ全身の皮膚を溶かした骸の様子に、歴戦の兵たちも恐れ慄くほど。
 人々は叫び、願う。人々は祈り、呪う。
「どうして! どうして私が死なねばならないの!?」
「俺たちが何をしたと言うんだ!!」
「贄は! まだ見つからないの!」
「贄を殺せ!」
「ノクタンビュールに夢を見せるな!!」
「返して! 私のあの人を!」
 建物は黒ずみ原型を留めない表面の溶け崩れたおぞましい物体となる。街々は地獄絵図と化し、人々は死に、国は滅ぶ。
 後に残るのは赤い血に染め上げられた廃墟だけ。希望は捻じ切られ、愛は失われ、夢は奪われ、祈りは崩れ落ち、救いを叫ぶ喉は嗄れ尽す。
 絶望だけが、不滅の王のようにそこに坐す。
 子どもを庇おうとした母親、愛する人を守ろうとした男、生まれたばかりの赤子、死を待つばかりの老人。
 残酷なまでに分け隔てなく、滅びの雨は降る。
 絶望を身に浴びながら人々は叫ぶ。
「贄を殺せ!!」

 ◆◆◆◆◆

 シュルト大陸エヴェルシード王国の片隅に、その今にも倒れそうな小さな小屋はあった。
 占い師などという職業は、国柄にもよるが一般的には胡散臭いとされる。もちろんそれなりの精度を誇り人々の心を虜にしてしまう占い師もいるが、そう言った輩は大概怪しいイカサマをしているものである。
 とは言っても、よりにもよって神秘とは世界で最も程遠いこの軍事国家、力で奪うことこそが美徳とされるエヴェルシード王国でその小屋に住む占い師が人気を集めているのには全く違う理由があった。
「ジェットの奴は、それなりに頑張っているようね……」
 粗末な小屋の外、降る紅い雨を眺めながら彼女は言った。黒い髪黒い瞳は魔術に優れた一族、黒の末裔の証。スィーアというその女性は、商売道具の水晶を撫でながら一人ごちる。
「自分が売った喧嘩なら、ちゃんと最後まで果しなさいよ……」
 彼女は本来、魔術師を名乗っていてもおかしくないほどの能力を持っている。それが占い師をわざわざ自称するのには、訳があった。
「リーシェン……あなたの望みが、ようやく叶う」
 二十年前、図らずも世界にその立場を知らせてしまう形になった女性の名を呟き、スィーアは水晶に腕をもたれながら目を閉じた。変わり者の友人はもとより名乗り出るつもりだったのだろうが、スィーアが偶然彼女の刻印を見てしまったことが、彼女の生き延びるために抗う気力を奪ってしまったことがないとは言い切れない。
 もちろんリーシェンの性格はスィーアも知っている。けれど、遺された者としてはどうしても、という思いが消えないのだ。
 ジェットに今回の贄について教えたのは、彼女なりの償いだ。
 外の景色は赤に覆われていく。見るもおぞましい血だまりがそこかしこにできていく。
 脆い天井は溶けるようにして破れた。もうすぐ、彼女自身にも降りかかるだろう。あの呪いの雨は。
「どうか……」
 祈る神をすでに持たない唇が、それだけを呟いた。

 ◆◆◆◆◆

 サジタリエンを囲む森から検問を避けて迂回し、バロック大陸西端の国セレナディウス王国へ。
 アストラスト人への敵意を起こし謂れのない殺戮を防ぐためか、アシェルに対する指名手配はされていない。その代わり、二人は皇帝領に向かいながらも、休まる暇もなく追っ手となるラウザンシスカと他国の連合軍、そしてカナンたち勇者一行の噂を聞いていた。
 セレナディウスを抜ければ、そこにはマーセルヴィナ諸島を跨いで皇帝領へ直接辿り着けるという大橋がかかっている。そこさえ抜ければ、後は誰に引きとめられることもない治外法権の領地、皇帝領へと入ることができる。
 薔薇大陸。その名の通り、薔薇に似た形をしていると言われる小大陸。
 世界を支配する皇帝、神にも等しき全知全能の力を持つというその存在。ただし現皇帝のその性格は、残虐非道と伝えられている。
 遊びで国一つ滅ぼすと言われる皇帝に対して、今まで誰も何も言う事はできなかった。全ての願いを叶えることができると言われるその力を持つ者に対し、誰もが期待をせず、媚び諂って擦り寄ることもない。
 それは、あるいはとてつもないことなのかも知れない。
 だがとりあえずの目的、アシェルとジェットが願うのは「紅雨」を永遠にこの世から消してほしいというそれだけだ。
 これまでの道中に、様々な噂を聞いている。アシェルが自ら名乗り出ない間に、自体は逼迫していた。バロック大陸のほとんどの国は被害に遭い、通り過ぎてきた幾つかの国はそれこそ壊滅状態だという。シュルト大陸にも影響は出始め、聞いたことのある国名が幾つもその被害国に挙げられた。
 世界は確実に滅びへと向かっている。これまでにはそんなことをする者はいなかった、たった一人の贄の存在によって。
「あと少しだ」
「はい……」
 アシェル自身の体力も限界に近づき始めていた。追っ手を意識しながらの逃亡はかなりの強行軍となり、ろくに身体を休める暇はない。
 心を休める暇はもっとない。
 今この瞬間にも人は死んでいる。紅雨に降られて死んでいく。
 アシェルが死ねば、一時的に被害は止まるかもしれない。けれどそれでは、根本的な解決にはならない。
 紅雨を……この呪われた雨を止める術を消す方法を知っている可能性があるのは世界皇帝だけだ。アシェルは何としても彼に願わねばならない。それが例え、どんなに残酷だと人々に恐れられている存在であったとしても。
 それだけが、アシェルにできるたった一つの贖罪だ。
「やはり来たか」
 老成した男の声に、橋の目前まで来ていた二人は顔を上げた。被っていたフードが脱げ落ちる。
 マーセルヴィナ諸島を飛び越える大橋。その入り口を、ラウザンシスカの兵士たちが固めている。
 幅がすでに馬車が五台も並んで通れそうなほど広いその橋は恐ろしく長く、ここからでは果てがないように見える。けれど島とも呼べないような小さな島々の上空にかかるその長い長い橋の果てには、確かに大陸があるのだ。皇帝領薔薇大陸。水平線に薄らと浮ぶその虹色の影を二人の目から隠すように、銅色の髪に藍色の瞳をしたラウザンシスカ兵が並ぶ。
 その中から、一際目立つ黒髪の女性が進み出た。彼女の隣には、金髪の少年が佇んでいるのもアシェルは知った。
「フィーアか。水晶球は壊したんだがな」
「隊長ならご存知でしょう。私の能力は姉とは比べるべくもない弱いものです。だからこそ、術に使う水晶もそんな高純度の貴重品でなくても良いのですよ」
 フィーアの手には曇りのない、彼女の手のひらほどの大きさの水晶球があって、それにアシェルとジェットの姿が映っている。
「そうだったな」
 さすがに長い旅路でこちらも疲労がないとは言えないジェットが、剣を抜いた。いつかのように鞘をはめたままではない。流石にこの場面では、そんな余裕はないと言える。
「一応聞いておくが、そこを退く気はないか?」
 ジェットの問に答えたのは、フィーアではなくその隣にいたカナンだった。
「ジェット隊長こそ、その子を引き渡す気はないのか? 贄はその子なんだろう?」
「何故? 俺かも知れないじゃないか?」
「前に会ったとき、あんた自分でこいつがどうとか言ってなかったか? それに、あんたの性格なら自分が贄だとしたら無関係な子どもを巻き込むわけがない」
「お前たちに理解されてて嬉しいよ、俺は」
 軽口を叩けるのもそこまでだった。
「贄を渡してもらおう」
 一際輝く重厚感のある鎧を身につけたヴァンスが前へと進み出てジェットへと要求する。
「断る。それより、そこを通してもらいたい。俺たちはその先に用があるんだ」
「贄風情が、皇帝陛下の大地に何の用だ」
 贄風情、と明らかに自分を貶める口調のヴァンスの物言いにも怯まず、言い返したのはアシェルだった。
「《紅雨》を止めるためです!」
「何?」
「え?」
 その言葉には、それまでどこか悲壮な顔をして黙りこくっていたカナンも反応した。
「皇帝陛下にお願い申し上げ、あの紅雨を止めてもらうんです。そうすれば、もうこんなことを繰り返さなくても――――」
「黙れ!」
 アシェルの必死の訴えを、ヴァンスは一喝で封じた。
「貴様の愚かな自己保身のせいで、これまでにどれだけの人間が死んだと思っている!」
 それを言われてしまっては、アシェルは黙るしかない。代わりのように口を開いたのはジェットだった。
「そっちこそ! まともな判断力があるなら聞けよ! 皇帝に頼めば、あの紅雨を消せるかもしれないんだぞ! もうこれ以上被害を出したくないって言うなら、怪我しないうちに退け!」
「戯言を! ……あの者たちを殺せ!!」
 もはや話し合う余地はないと判断したヴァンスが、抹殺命令をその場にいる全隊にかける。紅雨の被害範囲が拡大していることも影響して、彼がラウザンシスカから連れて来た兵はいまやもとの三分の一程度になってしまった。
 それでもまだ百人近い兵士が、ヴァンスの命令に従う。
「アシェル、打ち合わせどおりにいけるな」
「はい」
 カナンたちも身構えた。ジェットとアシェルが皇帝領に辿り着くには、あの集団を突破せねばならない。状況は明らかに人数で勝るカナンたちが有利だが、その人数差に素直に押されてくれるならばそもそも彼らもここまで逃げ切れはしなかっただろう。
「オオオオォッ!!」
 唸りをあげて、まずはジェットが兵士たちの波の中に突っ込む。裂帛の気合を込めた彼の突撃に兵士たちの緊張も最高点に達した。 
そして体格のよいジェットの姿の影に、ラウザンシスカ軍は一瞬アシェルの姿を見失う。
 その一瞬が隙だった。
「何っ!?」
「うわっ!」
 ジェットが投げた数個の煙幕弾が目晦ましとなって、ラウザンシスカ兵たちの眼には白い煙以外何も見えなくなる。
「馬鹿者! 橋へ繋がる道を塞げ! 皇帝陛下の大地に贄を入れるな!」
 アシェルたちの初めの目的を忘れなかったヴァンスがそうすぐさま指示を出したが、もう遅い。
「行けるものなら行ってみな。俺を倒せたらの話だが」
 煙が晴れたその時には、目立つ紅い髪の少年の姿はすでに橋の上を皇帝領に向けて駆けていた。
そして橋の入り口を、今までとは逆に蒼い髪の男がラウザンシスカ兵から塞ぐ形となった。

 ◆◆◆◆◆

 一か八かの賭けと言うが、そんなもの今までだってさんざんしてきている。
 もともと贄として烙印を戴いた時から、遠からず殺される羽目になる命だ。積めるものなら幾つだって積めばいい。
 ジェットの影に隠れたアシェルは、彼が煙幕弾を放ったと同時に彼の背後から飛び出した。武器も腕力も戦闘能力らしきものは何一つ持たないアシェルにできることは、ただひたすら皇帝領に向けて駆けるだけだった。
 自分を護って百人もの兵士に勝てる、そこまでジェットが化物じみた強さではないことは知っている。だからアシェルとジェットは前もってこの展開を予測して、最も効率が良く、成功率の高い方法を打ち合わせていた。
 ジェットが兵士たちの目を引きつけている間、アシェルはただ走ればいい。そしてあらゆる兵士を素通りして橋へと到達し、そこすらも駆けて皇帝領へと向かう。
 追っ手はジェットが引き付けてくれる。それも長くはもたないことはわかっている。
 それでも、一か八かの可能性に駆けて、皇帝領へ。兵士たちに捕まる前に皇帝領に一歩でも踏み込めれば、そこでアシェルの勝ちだ。一目皇帝に会い、紅雨を消すことを願えれば。
 何もせず死を待つだけではいられない。どんなに難しくても世界を変えてみせる。皇帝が全ての願いを聞いてくれるとは限らないけれど、それでも運命に抗う者の先例はできるだろう。
 だからアシェルはただ走る。振り返らない。ジェットがどうなるか気になるし、この瞬間にも降り続ける紅雨に打たれて死んだ人々のことは本当に気にかかる。それでも、振り返ったら今までの旅路が、払われた犠牲の全てが無駄になる。だから振り返らない。
 すでに疲れきって限界の足が折れても砕けても、這いずってでも皇帝領へ向かってやる。その決意を秘めて、アシェルが駆けているその時だった。
「これで終わりだ」
 ガツッ、と背中に衝撃が来た。わけもわからず痛みに呻き、地に転がされる。
 肩におかれて身体を橋の床に縫いとめる手が痛い。
「アシェル!」
 遠くでジェットが叫ぶのが聞こえた。橋の長さからすれば、彼の声が聞こえるぐらいの遠くなら、まだまったく距離が離れていないも同然だ。
「ごめん。ルシェア……いや、アストラストのアシェル……君には、死んでもらう」
 金色の髪の勇者が、無表情にアシェルを組み伏せていた。

 ◆◆◆◆◆

「カナン! 行け! 贄を追え!」
「ソルト?!」
「隊長は俺たちで止める! 贄を追え! できるのはお前だけだ!」
 やはり二対百では無理がある。
 先程とは逆に、剣を振りかざしてきたソルトを防ぐ間に、ジェットの脇をカナンがすり抜けていった。身の軽さはアシェルと同等の勇者だが、体力が違う。追われる者としてすでに限界まで体力も気力も使い果たしていたアシェルは、すぐにカナンに追いつかれて組み伏せられてしまう。
「アシェル!」
 少年の名を呼んだジェットだが、彼は彼で手が離せない。
「おっと! 隊長は俺たちの相手をしてもらうぜ!」
「申し訳ありませんけど、あなたを通すわけにはいかないわ」
 逆転の構図がさらに逆転となり、元の通りジェットはラウザンシスカの兵と勇者一行に足止めされる立場となった。ソルトの相手をしながらも、アシェルの元に続く兵が現れるのはなんとか防いでいる。だが、先にアシェルのもとへと向かったカナンを止める術がない。アシェルとカナンなら、比べずともどちらが勝利するかわかるだろう。勇者にとって、十三歳の無力な少年を殺すなど赤子の手を捻るより容易いことだ。
「アシェル!」
「行かせはせぬ!」
 ソルトだけでなく、ヴァンスも勝負に加わった。陣営の先端でそんな白熱した試合が繰り広げられているため、他の兵士たちは迂闊に手が出せない。
「勇者殿よ! 何をしている! さっさとその贄の首を斬れ!」
 ジェットと剣を合わせながらもカナンにそう指図する男に、ジェットはこめかみの血管が切れそうなほどの怒りを覚える。
 何も、あの少年の何も知らないくせに!
「あんたは、何故そんなにも贄を憎む!?」
 先日のサジタリエンの邂逅でも薄々感じていたが、このヴァンスと言う男、贄に対する憎しみが尋常ではない。命令以上の激しさを持って、贄であるアシェルを殺そうとしている。
「知れたこと! 復讐よ!」
 仮にも一国の軍を預かる者としてはあまりにも私的な、私怨に凝り固まったその言葉に、ジェットは蒼い眉を寄せた。
「復讐?」
「そうだ! 私の娘は、二十年前の紅雨で死んだ! あの時の贄がすぐさま命を絶てば死なずに済んだものを、何をのろのろとしていたのか! 世界が二十年前の贄を讃えても、私はそんな欺瞞は信じぬ!」
 二十年前の、贄。
 リーシェン。
 ジェットは目を瞠った。一瞬、その動きが止まる。
「隊長!?」
 敵として争っているはずなのに、フィーアが思わず彼の名を呼んだ。だが一瞬だけ凍りつくような静寂の下にあったジェットは、次の瞬間にはそれまでにも勝る勢いで剣を振るい、ここぞとばかりに斬りかかってきたヴァンスの剣を退(しりぞ)けた。
「むっ」
 腕に走った重い痺れに、百戦錬磨の将軍もさすがに顔色を変える。悔しいが、ジェットの実力を認めぬわけにはいかない。
「……リーシェンが、なんだって?」
 嵐の前の静けさ。
 ジェットの異様な雰囲気に、彼をよく知るソルトとフィーアですら戦慄を禁じえない。
「貴様、二十年前の贄の知り合いか」
「ああ」
「だから今回はあの贄を、二十年前の代わりに護るとでもいうのか? ふっ、笑わせる。何もかも無駄なのに」
「なんだと?」
 無駄? 無駄とは何だ? 無駄なことなどあるはずがない。
 ジェットが護ることによってアシェルが助かるなら、そこに無駄などあるはずがない。
「贄など、どいつもこいつも我が身ばかりが可愛い最低の連中だ。あの子どもだってそうだ、あの子どもがここまで逃げてきたせいで、何人の人間が死んだと思っている!? いくつの街が滅びたと!!」
 叩きつけるように言って、更にヴァンスは続ける。
「二十年前もそうだ! すぐに名乗り出たのが偉い? 何を言う! もっと早くに死んでいれば、私の娘は死なずに済んだものを! 誰にも迷惑をかけずに人知れず死んでいけばいいものを、世界に名乗り出るなどと、それが欺瞞なのだ!!」
 ヴァンスの言っている事は、一見極正当な恨みに思える。リーシェンが願い、アシェルが目指しそのために今こうして戦っている現実は過酷だ。アシェルを生かし、この先も殺される贄を生かすためのこの戦いで、数えることも出来ないほど多数の死者は出た。それはアシェルやこれから先、紅雨が何らかの事情によって消えるその日まで世界に捧げられる贄の数を全て合わせても届かないほど多くの人間かもしれない。
 世界のために一人を殺す。そんなものは正義ではない。その主張を行動で示すために、これまでアシェルは生き延び、ジェットは彼を護り、ここまで来た。それでもこれほどの被害を出すのなら、そんな主張は正義でも何でもないと言われてしまえば、そうかもしれない。
 直接彼が手にかけたわけではないとはいえ、状況から考えれば確かにアシェルは死ぬとわかっている人々を見殺しにした人殺しの罪人には違いない。人殺しの言葉には、どんな論理をもってしても説得力がないと言われても仕方がないだろう。
 けれど、ヴァンスは大切なことを忘れている。
「――苦しいならお前が死ねばいいだろう? お前の、娘が、自ら」
「何?」
「紅雨に打たれることより、自ら死んで後で世界中から罵り蔑まれることの方が、あんたにとっては楽なんだろう!? リーシェンに死ねっていうのは、そういうことだ! だったら、お前が死ねばいいだろう!?」
 紅雨に打たれて死ぬのは、確かに苦しいのだという。この世の地獄の全てを味わいつくしたかのような壮絶な苦痛を伴うのだと。
 だが、だからと言って、他者に自らの望まぬ「死」を押し付けていいのか。自分とその周りだけを大事にして、他者は殺す。
 ああ、それがこの世界の正義だろう。誰だって死ぬのは嫌だろう。紅雨に打たれて死んだ人々は、確かに哀れな被害者だ。
 けれど、死が辛いのは誰にとっても同じだ。それは贄にとっても。リーシェンだって、故郷の人々に殺されかけたアシェルだって、死ぬのは辛い。
 そして死者を思う気持ちも同じ。ヴァンスが二十年贄への恨みを持ち、娘を思い続けるようにジェットだっていまだリーシェンを忘れてしまうことはできない。永遠に忘れられない。
「名乗りをあげるのが欺瞞だと言ったな! どこが欺瞞だ!? 欺瞞を堂々と行っているのはお前たちだろう!」
 今ならジェットにもわかる。リーシェンがただ死なず、わざわざ世界に名乗りをあげると言った意味が。
 名乗りをあげることで、世界に自分の存在を刻み込まねばならなかったのだ。世界を救うために、世界によって殺される。そんな欺瞞にいつか誰かが気づき、暴いてくれるためには、何としてでも贄として殺された存在の証を世界に遺さねばならなかった。
 「私」はここにいる。
 世界に殺された、「私」はここに「いた」。
 世界が彼女に強制したのは死。直接手にかけなくても贄が逃げることで出てしまった紅雨の被害者を差して贄を罪人と罵るのならば、贄を殺した世界もまた罪だろう。それを望んだ誰もが彼らと同じ人殺しだろう。
「あの人は人間なんだよ!!」
 何故気づかないのだろう。
 贄だって人間なのだ。
 紅雨に打たれて死んだ全ての人々と同じく、本来は生きるというその権利を守られてしかるべき存在だ。決して、死すべき者なんて言われていいわけない。世界に罪がないのなら、贄にだって罪はない。
 彼らは知るべきだ。自分たちが《夢遊病者(ノクタンビュール)》と名づけ、贄と呼ぶものが何なのかを。
 ヴァンスは自分ができない選択を、リーシェンやアシェルには平然と押し付けている。それが当然だと言う顔をして。
 違う。
 こんなものが正義であるわけがない。
 自分たちの行動が正しいなんて、ジェットもアシェルもそんな傲慢なことは言わない。だが間違っても、正義とはこんなものであるはずがない。
「だからどうした! 彼らは贄だ! 贄ならば死ぬのが当然だろう!」
「だからそれが傲慢だと言っている!」
「傲慢なのはそちらだ! 私の娘は死んだのだ! 誰も死者の哀しみを代わってやる事はできない! 私が恨まねば誰が娘の代わりに貴様らを恨むのだ! 私の!」
 ヴァンスの渾身の力を込めた重たい一撃をジェットは受けとめる。
「私の娘は死んだのに、何故お前は生きている!」
 生きている人間が所詮は死者の痛みを理解できるはずはないと、ヴァンスはそう言う。だから、これまで紅雨の被害によって死んだ人々の痛みなど、お前たちにはわからないのだろうと。
 しかし負けじとジェットも怒鳴り返した。
「じゃあなんであんたは生きてるんだ! リーシェンは死んだのに!」
 同じなのだ。
 死者の哀しみなど誰に語れるわけもない。どれほど感情を込めたやりとりをしても、ヴァンスの言葉もジェットの言葉も無意味。
「なぁ、あんたの娘、享年いくつだった!」
「二十五歳だ、幸せ盛りだった!」
「リーシェンはそれより若かった! あの人はまだ二十四歳だったんだ!!」
 そしてアシェルはまだ十三歳。
 死者を取り戻すことはできない。だが彼を生かす道はまだ絶えていない。
「そこを退けぇ!!」
大軍に囲まれても怯まず、ジェットは剣を振るい続ける。
「将軍! 空が!」
 戦いに夢中になる彼らの耳に、兵士の叫びが届いたのはその時だった。
「紅雨! 追いついてきたのか!」
 空が紅く染まり、今にも血の雨を降らそうとしている。